第41話「ナナが、言う」
午前十一時ちょうど。
引き戸が弾けるように開いて、日向ナナが飛び込んできた。
コートのボタンが一つ外れ、マフラーが肩からずり落ちかけている。呼吸は完全に上がっていた。それでも顔には、間に合ったときの安堵ではなく、もっと別の何かが浮かんでいた。
「ソウくん」
ナナはカウンター越しにソウを見つけて、真っ直ぐ走り寄ってきた。
「どうした、今日非番じゃ——」
「ニュース、見た?」
ソウは答える前に、ナナの表情を確認した。いつも焦っているナナが、今日は焦り方が違う。コンビニのレジを間違えたとか、遅刻しそうとか、そういう焦り方じゃない。もっと、重い。
「どのニュース」
「朝から全部。富士山の話じゃなくて、今日の」
ナナはコートのポケットからスマホを取り出した。画面がカウンターの上に置かれる。
ソウが覗き込むと、ニュースサイトのページが開いていた。
『北関東・南東北の広域で、地面の沈降を確認。専門家「通常の地殻変動とは異なる動き」』
その下に、また別のニュース。
『東北沖、海底の一部が消失。観測船が撮影した映像を公開』
ソウは画面を見ながら、「……なんか変じゃない?」と呟いた。
ナナは「変どころじゃない」と首を横に振った。
「地面が、消えてるんだよ」
バックヤードに全員を集めたのは、ソウの判断だった。
レイに声をかけ、カウンターを店長に任せ、「すみません少し打ち合わせをしてもいいですか」と頭を下げると、田所店長は「ああ、いいよ」と即答した。
「最近みんな難しい顔してるな。ゆっくり話し合え」
店長は客が来たらベルを鳴らすと言って、カウンターに向き直った。
バックヤードには既にテルがいた。いつもの場所——奥のパイプ椅子——に座って、天井を見上げている。
「聞こえてた」
テルはソウたちを見もせずに言った。
「おはよう、ナナ」
「テルちゃん……」ナナがテルの隣に椅子を引いた。「テルちゃんも見た? 今日のニュース」
「さっき」
ミオが奥から姿を現した。弁当箱を洗い終わった手を、エプロンで拭きながら。
「ナナちゃん、早かったね」
「走ってきた」
「それは見れば分かる」
ミオはナナの外れたボタンをさりげなく指さした。ナナが「あ」と声を上げて、コートを脱ぎながら椅子に座る。
レイが最後に入ってきて、扉を閉めた。カイはまだ来ていない。十一時半からのシフトだ。
「カイは?」ソウが聞くと、
「後で共有する」とレイが答えた。「今は始めましょう」
テルがスマホを取り出した。昨日ミオに見せたのと同じ地図が、今日は更新されていた。
「昨日の時点で十七か所だったのが」テルは画面を拡大しながら言った。「今朝の段階で二十四か所になってた」
一晩で七か所。
ソウは計算した。一日七か所のペースで増えたら、一週間で五十近くなる。
「全部、副作用の発生地点と一致してる?」
「ほぼ」テルが頷いた。「ただ、今日のニュースの二か所——北関東と東北沖——は、俺たちの誰かが使った記録がある場所じゃない」
少し間があった。
「つまり」ソウが続きを言いかけると、ミオが先に言った。
「副作用じゃない場所でも、始まってる」
ナナが息を吸った。
「それって、もう私たちが何かしてもしなくても——」
「止まらない、かもしれない、ということ」
レイの声は平坦だった。感情がないわけじゃない、とソウには分かる。ただレイは、感情を言葉の速度で追い越させない。
「……可能性の話ね」レイは付け加えた。「確定ではない」
「でも、可能性として」ナナは膝の上で手を組んだ。「私たちが何もしなくても、世界は——」
「ナナ」
ミオが静かに遮った。
ナナは続く言葉を飲み込んだ。
しばらく、誰も喋らなかった。
バックヤードの天井の蛍光灯が、かすかにジジジと音を立てた。古いやつだ。ソウが来た頃からずっとあの音がしている。
テルが天井を見上げたまま、ぽつりと言った。
「地面が消えてる、ってナナが言ったとき」
「うん」
「怖いと思ったか、俺」
誰も返事をしなかった。テルが続ける。
「いつもは『なるようになる』で終わるんだけど。今日はそれ言えなかった。なんかそれ言ったら、なるようにしかならない気がして」
ソウはテルの横顔を見た。達観した顔がいつもより、若干、幼く見えた。
「俺も怖い」
ソウは口から出てから、自分が言ったことに少し驚いた。
「俺には関係ない話なんだけど。俺、NPC側だから、なんていうか——お前らと比べたら全然、何も持ってないんだけど。それでも怖い」
ナナが顔を上げた。目が赤い。泣いてはいないが、泣きかけている。
「怖いって言っていいんだよ」ソウは続けた。「お前ら、怖いって言わなすぎる」
ナナが「ソウくん」と呼んだ。
「私、ずっと怖かった」
声が、わずかに震えた。
「ニュース見るたびに、これ私のせいかなって思って。でも言ったら、みんながもっと重くなる気がして。だから朝、ソウくんに言いに来た。ソウくんなら、一緒に怖がってくれると思って」
「一緒に怖がる」ソウは繰り返した。「それ、俺の唯一の特技かもしれない」
テルがくしゃっと笑った。
ミオが「そういう特技、なかなかいないよ」と言った。レイは何も言わなかったが、視線がわずかにソウの方を向いた。
正午になる少し前に、カイが来た。
バックヤードの扉を開けて、全員の顔を見て、「なんか会議してた?」と首を傾げた。
「俺だけ除け者?」
「違う」ソウが言った。「お前に話すことが増えた」
「なにそれ、重そう」
カイはそう言いながらも椅子を引っ張ってきた。全員の輪に加わって、腰を下ろす。
「聞かせろよ。ちゃんと」
テルが地図を見せた。ナナが今日のニュースを見せた。ミオが、副作用のないエリアで異変が起きていることを、言葉を選びながら説明した。
カイはずっと黙って聞いていた。チャラい顔がいつになく真剣で、ソウはそれを見て、ああこいつちゃんと受け取ってるな、と思った。
「つまり」カイが言った。「もう俺たちが能力使うかどうか関係なく、動いてる」
「可能性として」
「レイさんの言い方だ」カイが苦笑した。「可能性として、ね」
カイは地図を見つめた。
「俺、昨日も一回使ったわ。重力」
誰も責めなかった。
「段ボール落ちそうになって、反射的に。バレてないと思ったけど、バレてたよなソウ」
「バレてた」
「ごめん」
「俺に謝らなくていい」
「じゃあ誰に謝えばいいんだよ」
カイが言って、自分で答えを知っているように押し黙った。
ミオがおもむろに立ち上がって、棚から弁当の空き容器を取り出した。昨日のやつだ。二十四時間経って消える前に、ちゃんと回収してある。
「今日のお昼」ミオが言った。「ご飯にしよう」
「え、今?」ナナが「時間ある?」と聞く。
「あるよ。店長に言ってある」
ミオは台を開けた。今日の弁当が、人数分並んでいた。
白米、玉子焼き、ほうれん草のおひたし、唐揚げ。ソウが知っている味。ミオが毎朝三時半に起きて作る、複製じゃない本物の味。
ソウは受け取りながら、「ミオさん、今日は七個じゃないですか」と確認した。
「六個だよ」ミオが笑った。「ちゃんと数えて」
「あ、六個だ。……気のせいか」
「ソウくんいつもそれ言う」ナナが隣に座りながら突っ込んだ。
「いつも言うんだよ俺」
六個の弁当が、六人の手に渡った。
食べながら、ソウは考えた。
地面が消えている。海底が消えている。副作用の地点じゃないところでも、始まっている。
それは確かに怖い。
でも今この瞬間、バックヤードの空気はあたたかい。玉子焼きが甘い。テルが「これ砂糖多くない?」と言って、ミオが「テルちゃんの好みに合わせた」と返している。カイがナナの唐揚げをひとつ奪って、ナナが「返して!」と叫んでいる。レイが、ほんのわずかに口の端を上げている。
こういう時間が、いつまで続くのか。
ソウには分からない。誰にも分からない。ミオでさえ、たぶん。
「あると思ったものが次の日もあってほしい」とミオが言っていたのを、ソウは覚えていた。先週の昼食のことだ。
同じ気持ちだった。
「ミオさん」ソウは弁当を膝に置いて言った。
「うん」
「次のこと、何か考えてますか」
バックヤードが少し静かになった。
ミオは玉子焼きを箸で持ったまま、少し考えた。
「考えてる」
「教えてもらえますか。今日じゃなくてもいい。でも、一人で抱えないで」
ミオは答えなかった。答えない間に、ソウはミオの顔を見た。
ミオの目が、一瞬、遠くなった。
千年分の何かが、その目の奥にある気がした。ソウには測れない深さで。
「……うん」
ミオはやっと言った。
「一人じゃ、ないね。今は」
昼食が終わって、シフトが始まった。
レイがカウンターに戻り、カイが陳列の確認をして、ナナが接客の準備をした。テルは自販機のそばのパイプ椅子に座って、また地図を眺め始めた。
ソウはカウンターで端末を立ち上げながら、壁のテレビを確認した。
午後のニュースに切り替わっていた。アナウンサーが読んでいる。
『本日、気象庁は関東から東北の一部地域において、地盤の沈下速度が通常の観測値を大幅に上回っていることを発表しました。現時点では人的被害の報告はありませんが、引き続き——』
ソウはチャンネルを替えようと思って、やめた。
見ておいた方がいい気がした。流さない方がいい気がした。
レイの声が隣から聞こえた。
「ソウさん、開店です」
「あ、はい」
引き戸が開いて、最初の客が入ってきた。
いつも通りの午後が始まった。いつも通りのふりをして。
閉店間際、ソウが端末の電源を落とそうとしたとき、ナナが隣に来た。
「今日、来てよかった」
「非番なのに来てご苦労さん」
「ソウくんに会いたかったから」
ソウは答えに詰まった。
「一緒に怖がってくれる人が、いてよかった」
ナナはそれだけ言って、ロッカーに向かった。
ソウは端末の電源ボタンを押した。画面が暗くなる。
……なんか変じゃない?
そう呟こうとして、やめた。
変なのは分かってる。変なのは最初から分かってた。
ただ今日は、一緒に変だと思っている人間が六人いた。それだけで、ずいぶん違う。
翌朝。
ソウがバックヤードに入ると、ミオがいた。
珍しく、弁当を作る手が止まっていた。台の前に立って、何かを考えている。
「ミオさん」
「あ」ミオが振り向いた。「おはよう、ソウくん」
「何考えてたんですか」
「昨日、ソウくんに言われたこと」
ソウは上着を脱いで、ロッカーに掛けた。
「一人じゃ抱えないで、って」
「……覚えてますよ、そりゃ」
「話せることから、話そうと思って」ミオは静かに言った。「今日の昼に」
ソウは頷いた。
「みんなに?」
「みんなに」
ミオは包丁を持ち直した。玉子焼き用の卵が、台に六個並んでいた。
ちゃんと、六個だった。




