第40話「テルが、見た」
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水曜日の朝、神崎ソウは電車の中でぼんやりとスマートフォンのニュースアプリを眺めていた。
「——北海道・十勝沖で海底地形の変動が確認され、国土地理院は……」
スクロール。
「——山梨県内の湖沼、計三か所で水位異常。原因は……」
またスクロール。
「——コンパスの誤作動が先週から継続中。専門家は太陽活動との関連を……」
…なんか変じゃない?
ソウはぼんやりとそう思って、アプリを閉じた。電車の窓の外、いつもと同じ景色が流れていく。同じビル、同じ川、同じ空。全部ちゃんとそこにある。
気のせいか。
駅のホームに降りると、バックヤードに向かう道すがらコンビニに寄ってホットコーヒーを一本買った。レジ脇のテレビで朝のニュースが流れていた。
「——最新情報です。先週から観測されていた磁場の微細なブレについて、気象庁は——」
「温めますか?」
店員さんに聞かれて、「ああ、大丈夫です」とソウは答えた。
携帯ショップに着いたのは九時十五分。開店まで四十五分ある。
バックヤードの引き戸を開けると、珍しいことに先客がいた。
テルだ。
休憩室の角、パイプ椅子に浅く腰をかけて、膝の上にA4の紙を何枚か重ねている。コーヒーが手元にある。いつもの自販機の缶コーヒー。当然のように当たりを引いた結果だろう。
「おはようテル。珍しいな、早いじゃん」
「おはようソウ」
テルは顔を上げた。いつもの飄々とした顔だが、どこかだけ違う。目が、少しだけ冴えている。
「昨日、行ってきた」
ソウは手に持ったコーヒーカップをロッカーの上に置いて、向かいの椅子を引いた。
「現場?」
「うん」
テルが膝の上の紙を一枚持ち上げた。スマートフォンで撮影した写真をA4に印刷したもので、荒い画質の中に、広い砂浜のような場所が写っている。
「茨城の海岸。能力の痕跡が出た場所のひとつ。一番近かったから」
ソウは身を乗り出した。写真の中央、砂浜にぽっかりと、円形の窪みがある。直径は二メートルくらいだろうか。ただの砂の窪みではなく、まるで円を描いて削り取られたように、エッジが妙に整っている。
「これ、何?」
「わからない」
テルは次の一枚を重ねた。別の角度から撮影した同じ場所。窪みの縁の砂が、何か規則的な紋様を描くように乱れている。
「地元の人に聞いたら、一週間前に突然できたって。地盤沈下かなって思ったけど、近くで工事もないし、地震波も記録されてないって」
「……確率の副作用、みたいな感じ?」
「多分」
テルは少し考えてから、もう一枚紙を出した。今度は地図のコピーで、日本列島と周辺海域に、赤い点が二十いくつか打たれている。
「俺が確率を使うと、世界のどこかで確率論が崩壊する。コインが百回連続表になる村とか。でも最近、副作用の場所が日本に寄ってきてる」
「寄ってきてる?」
「前は南米とか東南アジアとかバラバラだったのが、今週は全部この辺に集まってる」ひょろっとした指が日本列島の輪郭をなぞる。「収束してる、みたいな感じ」
ソウはその地図をまじまじと見た。赤い点が日本列島の沿岸にかたまって、まるで何かを囲むように打たれている。
なんか変じゃない?
「ミオさんに見せた?」
「まだ」
「なんで」
「……昨日帰ってきたのが遅かったから」
テルが珍しく視線をそらした。ソウはそれを見て、少し黙った。
「ミオさんがもう知ってたら、みたいな?」
「かな」
テルの声は静かで、感情の起伏が薄い。いつもそうだ。でも今日は、その薄さが少しだけ意味を持って聞こえた。
「でも昨日わざわざ見に行ったわけじゃん」
「うん」
「それ持ってきたわけじゃん」
「……うん」
「だったら見せようよ」
テルがソウを見た。少し間があって、コーヒーを一口飲んだ。
「まあ、なるようになる」
口癖が出た。ソウはそれを聞いてちょっと笑った。
九時四十分。
バックヤードに朱雀ミオが入ってきたのは、ソウとテルがそれぞれの支度を終えた頃だった。両手に弁当の入ったエコバッグを二つ提げていて、今日も律儀に七人分ある。
「おはようございます。早いのね、二人とも」
「おはようございます、ミオさん」
テルがカップを置いて立ち上がった。地図のプリントを手に持ったまま、ミオの方へ向かう。
「見てほしいものがある」
ミオは弁当を冷蔵庫に収めながら、少し振り向いた。
「うん?」
「昨日、茨城の海岸に行ってきた。副作用の現場」
ミオの手が止まった。
一秒。二秒。
「……どうだった」
「こういう窪みがあった」テルが写真のプリントを出した。「収束してる。副作用が日本に集まり始めてる」
ミオはエコバッグを冷蔵庫の上に置いて、テルの手から写真を受け取った。両手でそれを持って、黙って見ている。
ソウはその横顔をこっそり見た。
ミオの表情は、いつもの穏やかさから少しだけずれている。怒ってるわけじゃない。心配してるわけでもない。ただ、何かを確かめているような顔だった。
「地図も」
テルがコピーを差し出した。ミオがそれを受け取って、また黙って見る。
しばらくして、ミオが言った。
「一人で行ったの?」
「うん」
「……そう」
それだけだった。叱るでも褒めるでもない。ただ「そう」。
でも、ソウにはその「そう」が単純な相槌じゃないことがなんとなくわかった。
ミオはしばらく地図を眺めてから、テルに返した。
「ありがとう、テル」
「うん」
「教えてくれて、よかった」
テルが一瞬だけ、目を細めた。照れた顔、というよりは、何かが緩んだ顔に近い。
「…ミオはどう思う? この収束」
「——後でみんなに話す」
それだけ言って、ミオはコンロの前に立った。今日のお味噌汁は何だろう、とソウは場違いなことを考えた。
開店後の午前中は、じわじわと客が入ってきた。
機種変更の相談が二件、料金プランの見直しが一件。ソウはカウンターに立って、いつも通りの説明をいつも通りこなす。
「このプランだと毎月のデータが三ギガになりますが、今のお使い方ですと……」
カウンターの向こうの六十代の女性客が、真剣な顔でメモを取っている。ソウはペースを落として、丁寧に繰り返す。
その隣のカウンターでは氷室レイが、別の客と向き合っていた。
「現在の端末のOSが旧バージョンのままですので、セキュリティ上のリスクがございます。アップデートをお勧めしております」
「でも、新しくなると使い方が変わるでしょ? ついていけるかしら」
「変化が必要な場合もあります。ただ、変わっても本質は変わりません」
……なんか変じゃない?
ソウは少し聞き耳を立てた。レイは淡々と続けている。
「端末が変わっても、お客様が求めているものは変わらない。それに合わせてシステムが追いつくだけです」
客の女性が「そうねえ」と柔らかく頷く。
レイの言い方が、なんだかいつもより遠くを見ているような気がした。気のせいか。
午前十一時。
ナナが飛び込んできたのは、ちょうどその頃だった。
「間に合った!」
「……五分遅刻」
カウンターの奥からレイの声がした。
「えっ! ちゃんと確認したのに!」
「着替えてきてください」
ナナがすごい速度でバックヤードに消えた。ソウは横目でそれを見て、すみませんお待たせしましたと客に向き直った。
店内のテレビが、ちょうど昼のニュースに切り替わっていた。
「——続いてのニュースです。気象庁は今朝、北日本を中心に観測されている磁気偏角の変動について、引き続き調査中と発表しました。専門家からは、過去に例を見ないパターンであるとの——」
ソウの手が一瞬だけ止まった。
テルの地図の赤い点が、頭の中に浮かんだ。
——収束してる。
…気のせいか。
昼休憩は一時から。
今日も六人、休憩室のテーブルを囲んだ。ミオの弁当は相変わらず丁寧で、卵焼きが今日は出汁巻きだった。
「ミオさん、これ昨日のより甘さ控えめじゃないですか」
カイが目ざとく言った。
「気づいた? 今日はちょっと変えてみたの」
「俺、甘い方が好きです」
「わかった、明日また戻す」
「やった」
カイが嬉しそうに卵焼きを口に入れた。テルがじっと見ている。
「テル、食べないの?」
「食べてる」
「箸止まってる」
「考えてた」
ソウがテルの隣から声をかけた。「ミオさん、テルが今日、昨日の話をしたじゃないですか」
ミオがゆっくり頷く。
「茨城に行ったこと?」
「そうそう。あの地図、ちょっとみんなにも見せた方がいいと思って」
カイとナナが顔を上げた。テルが少し間をおいてから、昨日のプリントを出した。
「これ、先週の副作用の分布」
ナナが身を乗り出した。「わあ、なにこれ……赤いの、いっぱいある」
「副作用の発生地点。俺の確率操作が出た場所。最近これが——」
「日本に集まってきてる」
カイが先に言った。テルが少し驚いたように顔を上げる。
「……カイ、知ってた?」
「いや、見たら分かった。ここ全部日本の沿岸だろ」
カイが指でなぞる。その仕草は軽いが、顔は笑っていない。
「他の奴らの副作用も同じ傾向があるかもしれないな」
「それは……」ミオが静かに口を開いた。「ある」
全員がミオを見た。
「先週から調べていた。場所がばらけていた副作用の発生地点が、今週に入ってから急速に近くなってきている。リンクする、というよりは——」
少し間があった。
「この周辺に引き寄せられている、みたいな感じ」
テルが小さく言った。「俺もそう思った」
ナナが箸を置いた。「それって……なんか、まずいやつですよね」
返事がなかった。
ソウはそれぞれの顔を順に見た。レイは前を向いたまま静かにしている。カイは腕を組んでいる。テルはまた天井を見ている。ミオは弁当の蓋を両手で持ったまま、どこか遠くを見ている。
「ミオさん、『形が変わること』って言ってたじゃないですか」
ソウが言った。「先週。世界が消えるんじゃなくて、形が変わるって」
ミオがソウを見た。
「うん」
「この収束って、その……形が変わる前の、何か?」
ミオはすぐには答えなかった。
窓の外、商店街の喧騒が遠く聞こえる。誰かが笑っている声、自転車のベルの音、宅配のバイクのエンジン音。いつも通りの昼下がりだ。
「——まだ時間はあると思う」
ミオがそっと言った。
断言じゃない。でも根拠のない慰めでもない。
テルが「まあ、なるようになる」と呟いた。
カイが「それを言うな」と返した。
ナナが「でもテルのそれ、たまに本当になるから困る」と続けた。
小さな笑いが起きた。ソウも笑った。
レイが「——引き続き調査を」と誰にともなく言った。それだけで、なんとなく方針が決まった気がした。
午後の業務に戻る前、ソウはバックヤードで一人になった。
テルの地図のコピーを、借りて手元に持っている。赤い点が密集している日本の沿岸部。ソウはそれをしばらく眺めてから、ロッカーに仕舞った。
店内のテレビが、また流れていた。
「——先週から続く磁場の変動について、今後の推移を注視するとしています。なお、国内複数地点での地形変化との関連については——」
ソウはテレビを見た。
収束、という言葉が頭の中に残っている。引き寄せられている、という言葉も。
…なんか変じゃない?
カウンターの方から客の声がした。「すみません、ちょっと聞いてもいいですか」
「はい、少々お待ちください」
ソウはバックヤードの引き戸を開けた。
いつも通りの携帯ショップ。いつも通りのカウンター。いつも通りのレイとナナとカイとテルとミオ。
全部、ちゃんとそこにある。
今は。
閉店後、最後に出たのはソウとテルだった。
シャッターを下ろして、二人並んで駅に向かう。夜の商店街は少し冷えていて、ソウはコートの前を合わせた。
「テル」
「うん」
「昨日、茨城まで一人で行ったのって、怖くなかった?」
テルが少し考えた。街灯の下を通るたびに、薄い影が伸びたり縮んだりする。
「怖いって言うより……見たかった」
「見たかった?」
「自分がやったことの結果を、ちゃんと見たかった。見なかったら、なるようになるって言ってるだけで、ただの他人事になる気がして」
ソウは黙って聞いた。
「まあ、でも見ても怖かった。あの窪み」
「そうか」
「うん」
信号が青になった。テルが渡り始める。ソウも続く。
「でもソウが『俺もいるから』って言ってくれたから、ミオに話せた」
「……」
「礼を言っていなかった」
ソウは少し間があって、「全然いいよ」と答えた。
テルが一度だけ振り向いた。
「次、動くときは一緒に来る?」
ソウは少し考えた。地図の赤い点を思い出した。ミオの「まだ時間はある」という声を思い出した。
「行く」
テルが前を向いた。
「そっか」
二人は駅まで、あまり喋らずに歩いた。
街灯の数が少なくなってくるあたりで、ソウはふと空を見上げた。
星が少ない。
雲かな、と思って、また前を向いた。
気のせいか。




