第39話「テルが、動く」
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火曜の朝は、どこか静かすぎた。
神崎ソウは自転車を停めながら、曇り空を見上げた。雲の流れが速い。風がないのに、雲だけが走っている。
……気のせいか。
バックヤードのドアを開けると、珍しいことに霧島テルが先にいた。テルが早く来ているのは先週からの習慣になっていたが、今日は様子が違った。資料を広げているわけでもなく、論文を抱えているわけでもない。ただ、椅子に座って天井を見上げていた。
「テル、早いな」
「ソウも早い」
テルはこちらを向かないまま言った。
「何してんの」
「考えてた」
「何を」
しばらく間があった。テルの視線が天井から降りて、ソウの顔に向いた。
「ニュース、見た?今朝」
「見てない。自転車で来たから」
「そっか」
テルはスマホをソウに向けた。画面に映っているのはニュースサイトの記事だった。
〈北海道・釧路沖で海底が隆起、漁船に影響。専門家「前例のない速度」〉
ソウは画面を見て、また空を見る感覚で視線を外した。
「……なんか変じゃない、これ」
「うん」
「うん、じゃなくて。変だよね、普通に」
「普通に変だと思う」テルは静かに言った。「ミオに見せようと思って、待ってた」
「ミオ、何時に来る?」
「今日は一番乗りのはずが、なぜかソウが先だった」
ソウはロッカーに鞄を入れながら言った。
「……一番乗り、別に自慢することでもないけど」
テルは笑わなかった。珍しいな、とソウは思った。
氷室レイは八時五分に来た。
いつも通りのスーツ姿で、髪はきっちりまとめられていて、靴の音が廊下に規則正しく響いた。ドアが開いた瞬間、空気の密度が変わる。ソウはそれをもう慣れたように感じていた——慣れたと思っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」ソウは言った。「テルがミオを待ってます」
「見えてます」
レイはテルのスマホ画面をちらりと見て、無言でロッカーに荷物を入れた。制服に着替えながら、背中を向けたままで言った。
「釧路沖ですか」
「見てたの?」とテル。
「移動中にニュースを確認する習慣があります」
「何か思う?」
レイは振り向いた。
「データが足りません。ミオが来てから話した方が効率的です」
テルはそれで納得したように天井に視線を戻した。ソウはなんとなく、二人のやり取りに自分が入れる隙間を探してみて、やめた。
朱雀ミオは八時十五分に来た。
いつもより五分遅い。扉を開けた瞬間、ミオはテルの顔を見て、テルのスマホを見て、一瞬だけ目を細めた。
「見た?」とテル。
「見た」とミオ。
「何か所目?」
「今週だけで……」ミオは少し考えるふりをした。本当は即答できるのだとソウは思ったけれど、黙っていた。「七か所」
「今週だけで?」
「今週だけで」
ミオは弁当袋をテーブルに置いた。今日もずっしりと重そうだった。六人分ではなく、七個のはず。一個多いのはずっとそのままだった。
「ミオさん」ソウは言った。「どんどん増えてる?」
「速くなってる、というか」ミオは穏やかに答えた。「広がってる、という感じ。点から、面に」
「面」
「最初は離れたところで別々に起きてた。今は、繋がってきてる」
それだけ言って、ミオはお茶を出し始めた。毎朝の習慣のように、何事もなかったように。ソウはその手の動きを見ながら、なんとなく何も言えなかった。
テルが静かに口を開いた。
「ミオ、俺、今日なんか動こうと思う」
ミオの手が止まった。
「動く、っていうのは」
「調べるだけじゃなくて。もうちょっと、ちゃんと見に行く」
「どこへ」
「まずは、近場から」テルはスマホをしまった。「能力の痕跡が出てる場所を、直接見てきた方がわかることがある気がして」
ミオはソウを見た。ソウはよくわからないまま、ミオを見た。レイはロッカーのドアを静かに閉めた。
「……テル」レイが言った。「今日はシフトが入っています」
「入ってる。だから今日は行かない。次の休みに、一人で」
「一人で」ミオが繰り返した。
「うん」
「……そうですか」
ミオはまたお茶を注ぎ始めた。何か言おうとして、やめた。その背中を見ながら、ソウは「何か言おうとしたこと」がすごく大事だった気がして、でも追いかけ方がわからなかった。
開店してから一時間は、比較的静かだった。
ソウはカウンターに立ちながら、入り口のモニターに流れるニュースをぼんやり見ていた。別のニュース、別の話題。天気予報。政治ニュース。株価。そして。
〈全国各地で「方角がずれた」という報告が相次ぐ。コンパスの誤差を訴える声も。国土地理院は調査中と発表〉
ソウはテロップを三秒見て、客の対応に戻った。
……気のせいか。
気のせいにしないで済む人間が、そばにいた方がいい。
昨日のレイの言葉が唐突に蘇って、ソウは少し背筋が伸びた。
「あの、すみません」
客が声をかけてきた。四十代くらいの男性だった。
「このプラン、先月から変わりましたよね」
「はい、十月から料金体系が変更になっております」
「前の方がよかったんだけどね」
「ご不便をおかけしております。現行プランにつきましては――」
接客は体が覚えている。頭の半分が動いていても、口と手は動く。ソウはそれをやや恐ろしいことだと思いながら、丁寧に説明を続けた。
昼前。
バックヤードに引っ込んだところで、テルがソウの隣に来た。
「なんか考えてた?」
「別に」
「うそ」
「……接客中に変なことを考えてた、という程度」
「変なこと」
「方角がずれた、ってニュース。コンパスの誤差がどうとか」
テルは小さく頷いた。
「見た。あれ、磁場のブレだと思う」
「磁場?」
「重力定数がずれると、電磁気に影響が出ることがある。カイの副作用の延長線上」
ソウは少し黙った。
「テル、そこまでわかってるの?」
「わかってるというか……仮説。でも、繋がりはある」
「それを今日ミオに言った方がよくない?」
テルはすこし困ったような顔をした。珍しい顔だった。
「ミオはたぶん、もっと知ってる。だから言いにくい」
「言いにくい?」
「うん。自分が一生懸命調べたことを、ずっと前から知ってた人に言うの、ちょっとむずかしい」
ソウはそれを聞いて、妙にわかる気がした。
「でも言った方がいいよ」
「うん、そうは思う」
「俺もいるし」
テルはソウを見た。
「……それ、意味あるの」
「ない。でも気持ちの問題で」
テルは少し笑った。ようやくいつものテルの顔になった。
「まあ、なるようになる」
「それな」
昼食は全員で食べた。
ナナが三分遅刻してきたのはいつも通りで、「絶対間に合うと思ったのに!」と息を切らしていたのもいつも通りだった。御堂カイは自分のミオ弁当を見て「今日の唐揚げ、昨日より大きくない?」と言い、「気のせいです」とミオに返されていた。
テーブルを六人で囲むと、なんとなく空気が落ち着いた。
ソウは自分でも不思議だと思った。地形変化が加速していて、磁場がブレていて、能力の副作用が面として広がっているかもしれないというのに、唐揚げの大きさが話題になっていて、なぜかそれが正しい気がする。
「カイ」テルがふいに言った。「最近、能力使った?」
カイは唐揚げを口に入れながら答えた。
「使ってない。先週から自制してる」
「何回?」
「ゼロ」
「本当に?」
「本当に!」カイは箸を置いた。「俺だって真剣にやってるんですけど!」
「確認しただけ」
「確認のしかたが疑ってる感じ」
「疑ってはいない」テルは平然と言った。「でも確認は必要」
ナナが手を挙げた。
「私もゼロです!今週は全部、普通に走って来ました!」
「それで三分遅刻は」
「……走り方が悪かった」
レイが静かに口を開いた。
「私は、一度」
全員が静かになった。
ソウは目を向けた。レイは箸を置いて、ごく普通の表情で続けた。
「月曜の朝、倉庫のシャッターが開かなくなりました。業者を呼ぶと時間がかかると判断し、一度だけ使いました」
「月曜……」ソウは何かが引っかかった。「俺、いなかったな、その時間」
「いませんでした」
「誰かいた?」
「私一人でした」
それだけ言って、レイはまた箸を取った。何事もなかったかのように。ソウは「なんで一人の時に」という言葉が出かけたが、飲み込んだ。飲み込む理由がよくわからなかった。
テルがスマホを取り出した。
「月曜朝、東京都内で『窓ガラスが一瞬消えた』って報告が三件ある」
「……」
「俺は追いかけてなかったけど、今見ると時間帯が重なる」
レイは静かに言った。
「申し訳ありませんでした」
「責めてない」テルはスマホをしまった。「ただ、繋がる」
ミオが弁当箱のふたをゆっくり閉めた。
「テル、今日言おうとしてたの、それだけじゃないでしょう」
テルは少し間を置いた。
「……磁場のブレについて、仮説がある。カイの副作用の延長で、重力定数がずれると電磁気に波及する可能性がある。コンパスのニュースはそれかもしれない」
「その仮説、ミオは知ってた?」とソウ。
ミオは少し目を細めて、テルを見た。
「知ってた。でもテルが自分で辿り着いたこと、ちゃんと聞きたかった」
テルは短く息を吐いた。
「……やっぱり先に知ってたか」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」テルは言った。「でも、次から先に言ってほしい」
ミオは頷いた。
「そうします」
カイがぼそっと言った。
「……俺たちって、じわじわやばい話してるのに、なんでこんな普通にご飯食べてんだろ」
「食べないと動けないから」とナナ。
「そういう話じゃなくて」
「でも食べないと動けないのは本当だよ」
カイは何か言おうとして、やめた。ソウはそのカイの顔を見て、なんとなく「カイが一番正直に怖がってる」と思った。言わなかった。
午後、ソウはレジに立ちながら、テルの顔を遠くから見ていた。
テルはカウンターの端で接客していた。いつも通りのマイペースな接客で、客の話をちゃんと聞いて、わかりやすく答えていた。能力を使っているわけでもない。ただ、働いていた。
「神崎くん」
ミオが隣に来た。ソウより少し背が低いミオは、視線を正面に向けたまま小声で言った。
「テルが休みに動こうとしてること、止めた方がいいかな」
「止める?」
「危ないかもしれない」
「危ない、って何が」
ミオは少し考えた。
「正直言うと、よくわからない。でも、変化が速くなってるところに近づくのは、何かあるかもしれない」
「何かって」
「地形がおかしくなってるところは、物理のルールが少しずれてる。人が踏み込んで大丈夫かどうか、私にもわからない」
ソウはその言葉を何度か頭の中で繰り返した。
「テルに言う?」
「あなたから言ってほしい」
「俺から?」
「テルは私の言うことを、少し遠くで聞く。あなたの言うことは、ちゃんと近くで聞く」
ソウは思わずミオの顔を見た。ミオは正面を向いたまま、穏やかに続けた。
「あなたは普通の人だから、テルにとってわかりやすい基準になる。普通の人が『危ないと思う』って言ったら、テルには届く」
「……それって」
「あなたにしかできないことって、たぶんそういうことです」
ミオはそれだけ言って、カウンターの向こうに戻っていった。
ソウはしばらくそこに立っていた。
俺にしかできないこと。
能力はない。特別なものは何もない。でも、ミオはそう言った。
入り口のモニターがまたニュースを流していた。
〈北陸地方の一部で、昨日と今日で海岸線の位置が変わったという報告。国土地理院、調査開始〉
ソウはテロップを三秒見て、テルの背中を見た。
……気のせいじゃないな、これ。
今日は「気のせいか」で流せなかった。
閉店後。
着替えを終えたテルがロッカーを閉めたところで、ソウは声をかけた。
「テル、次の休みって水曜?」
「うん」
「どこ行くつもり?」
「まだ決めてないけど、関東近郊で地形変化が出てるところ」
「一人で行くの、やめた方がいいと思う」
テルはソウを見た。
「なんで」
「ミオが言ってた。変化が速いところは、物理のルールが少しずれてるかもしれないって。普通の人間が踏み込んで大丈夫かわからない、って」
テルは少し間を置いた。
「……ミオがそう言った」
「うん」
「ミオが俺に言わないで、ソウに言ったのか」
「そう」
テルはロッカーに背を預けて、天井を見上げた。
「じゃあ、一人では行かない」
「それだけ?」
「それだけ」
「あっさりしてるな」
「ミオが心配してるのはわかってた。俺も一人じゃ限界があると思ってた」テルは目を下ろしてソウを見た。「ソウ、水曜、暇?」
「……俺、行くの?」
「何かあった時、普通の人間がいた方がいい気がする。俺の勘だけど」
ソウは少し呆れた顔をした。
「俺の何が役に立つの」
「わからない」テルはあっさり言った。「でも役に立つと思う」
「根拠は」
「勘」
「確率操作できるのに、それは確率で出せないの?」
「大事すぎて出せない」
ソウは小さく笑った。テルも少しだけ笑った。
バックヤードの電灯が、ふっ、と一瞬だけ揺れた。
二人はそれを見た。
「……気のせい?」とソウ。
「気のせいじゃないと思う」とテル。
ソウはそれを聞いて、今日二度目の「気のせいじゃないな」を思った。
「水曜、行く」
「うん」
「何も持って行くもんないけど」
「それでいい」
ソウはロッカーの鍵をかけて、出口に向かった。テルが後ろからついてきた。
廊下を歩きながら、ソウはそういえばと思った。
「ミオに言っとく? 俺も行くって」
「言った方がいい。安心する」
「ミオが?」
「ミオが」
ソウは頷いた。
明日、言おう。
外に出ると、昼間から続いていた雲がまだそこにあった。風がないのに、やっぱり雲だけが流れていた。コンパスがあったら確認してみたかったな、とソウは思ったが、持っていないので確認できなかった。
……なんか変じゃない、この空。
確認できないまま、ソウは自転車をこいで帰った。




