第38話「六人の、昼」
月曜の午後、客足がぱったり途絶えた。
モールの通路をぼんやり眺めながら、神崎ソウはカウンターの端に肘をついていた。正面のテレビは音量を絞った状態でニュースを垂れ流している。
「——南アルプス、北岳の標高について国土地理院は『誤差の範囲』と説明していますが、登山者からは実感として山が低くなっているとの声も——」
「……なんか変じゃない、また」
ソウは口の中でつぶやいて、すぐにやめた。考え始めると止まらなくなる。テルが広げていたあの資料。ミオが三週間前から知っていたあの顔。レイが昨日、壁から戻ってきたときの——
「神崎さん」
声がして、ソウは顔を上げた。
氷室レイが書類を片手に立っている。いつ通路から入ってきたのか、まったく気配がなかった。
「お昼、そろそろです」
「あ、はい」
ソウは腕時計を確認した。十二時四分。気づけばいつの間にかその時間になっていた。
「……考えすぎてた?」
レイが小声で言った。訊くというより、確認するような言い方だった。
「まあ」とソウは答えた。「ちょっとだけ」
レイはそれ以上何も言わなかった。ただ少し間があって、「行きましょう」とだけ言った。
休憩室は、いつもより少しだけ賑やかだった。
朱雀ミオがすでにテーブルの中央にお弁当を並べていた。蓋を開けたものと、まだ閉じたものが混在している。日向ナナが椅子に座ったまま飛び跳ねるようにして「今日の卵焼き、甘め?」と聞いていて、御堂カイが腕組みしながら「俺はどっちでもいい、でもどっちかと言えば甘め」と答えていた。霧島テルは壁に背中を預けて、目を半分閉じていた。寝ているのか起きているのか、相変わらずよくわからない。
ソウとレイが入ってくると、ナナが「あ、ソウくんどっちがいい?」と即座に聞いてきた。
「どっちって何が?」
「卵焼きの甘さ。多数決。」
「……甘めで」
「よし、三対一」とナナが言うと、カイが「俺は棄権だと言ったはずだが」と低い声で言った。
「棄権は棄権票だから」
「それは俺に不利では」
「カイくんには関係ないでしょ卵焼き関係ないでしょ」
「関係ある、俺は今朝から少し憂鬱な気分だ」
「甘めにしたら解決しない問題だよ」
テルが片目を開けて、何も言わずに笑った。
ソウはレイの隣の椅子を引いて座りながら、この会話の意味のなさに少し救われた気がした。
ミオが弁当を一つ一つ配り始める。
「はい、ナナちゃん」
「ありがとうございます!」
「カイくん」
「感謝」
「テルちゃん」
「……ん」
「レイちゃん」
「いただきます」
「ソウくん」
「あ、ありがとうございます」
最後に自分の分を取り出して、ミオはソウの斜め向かいに座った。六人が揃っている。いつもの光景。なのに、今日はどこか違う重みがある気がした。
「——みなさんに、少し話があります」
ミオが箸を持つ前に言った。声は穏やかだったが、誰も次の言葉を引き取らなかった。カイも、ナナも、箸を止めた。テルは目を開けた。
「難しい話じゃないです。ただ——聞いておいてほしくて」
ミオは一度弁当を脇に置いて、テーブルの上で両手を組んだ。
「世界が、変わっていますよね」
誰も否定しなかった。
「チリの件。アンデスの件。南アルプス。私が把握しているだけでも、もう六十三か所以上、地形に変化が起きています」
「六十三」とカイが繰り返した。「三週間で?」
「三週間で。ただ——」ミオは少し間を置いた。「これは、みんなのせいじゃないと思っています」
「……それって」ナナが首を傾けた。「どういうこと?」
「能力を使うことで世界に負荷がかかる、というのは事実だと思います。でも」ミオは静かに続けた。「世界がこれほど変化しているのは、能力の問題だけじゃない。もっと前から、何かが動いていた」
テルが小さく「そうだと思った」と言った。
「なんで言わなかったの」とカイが言った。詰問ではなく、確認するような声だった。
「言えなかった」とミオは答えた。「ちゃんと言える準備ができていなかった。それだけです」
ソウはミオの顔を見ていた。いつも世話焼きで、少し遠くを見ているような目をするミオが、今は真正面を向いていた。
「それで、ミオさん」ソウは言った。「何かできることって、あるんですか」
ミオはソウを見た。
「まだわからない。でも、わかろうとしている」
「……それって」ナナが小声で言った。「世界がなくなる、ってこと?」
誰も笑わなかった。
ミオはゆっくりと首を横に振った。
「形が変わる、ということだと思います。なくなるかどうかは——私にも、まだわからない」
沈黙がしばらく続いた。
最初に動いたのはテルだった。
「んじゃ、まず飯食おっか」
ナナが「え」という顔をして、カイが「そこは普通続きを——」と言いかけて、でもテルはもう箸を開いていた。
「どうせ考えても今すぐ答えは出ない。それならミオさんの弁当が冷める前に食べた方がいい」
「……そういうもんか」とソウは言った。
「そういうもんだよ」とテルは言って、卵焼きを口に入れた。「あ、甘め正解。」
ナナがくすっと笑った。カイが「……俺の意見も聞けよ」とつぶやいた。レイが静かに箸を取った。ミオが「食べて」と言うように、そっと笑った。
ソウも箸を取った。
いつも通りの弁当だった。卵焼きは甘かった。出汁巻きではなくて、砂糖がきいていて、なんか親戚の家みたいな味がした。
「ミオさん」とソウは言いながら食べた。「これ、今日も複製ですか」
「ううん、今日は全部手作り」
「違いわかんない」
「ありがとう」とミオは笑った。「最近、手作りの方が多いの」
「なんで?」
少し間があった。
「あると思ってたものが、次の日もあってほしいから」
ソウはその意味を考えながら、もう一口食べた。
昼食が終わって、各自が片付けをし始めたころ、ナナが急に思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。今朝ニュースで言ってたんですけど——」
全員がナナの方を向いた。
「なんか、山梨の方で、池が突然消えたって。昨日まであったのに、今朝見たら跡形もなかったって地元の人が言ってて」
「……また?」ソウはつぶやいた。「なんか変じゃない、最近」
「変だよね。普通じゃないよ。」
「……気のせいか、って思いたいけど、さすがにもう気のせいじゃないかな」
「ソウくんどれだけ気のせいって言い続けるつもりだったの」とカイが言った。「俺たちずっと横にいたんだけど」
「いや、俺は普通に考えて能力が存在する世界の知識がなかったので」
「それはそう」とテルが言った。「でも気づきかけてはいたでしょ」
「……まあ」
レイが静かに口を開いた。
「気のせいにしないで済む人間が、そばにいた方がいいと思っていました」
ソウが顔を向けると、レイはすでに別の方向を見ていた。さらりと言って、さらりと次の動作に移っていた。
「……それって、俺のことですか」
「他に誰がいるんですか」
「…………気のせいかと思ってました」
「いい加減にしてください」
ナナが「えー、ソウくんとレイさんいい感じ」と言い、カイが「俺にはそういうセリフ誰も言ってくれないが?」と拗ねた声を出し、テルが「カイには必要ない気がする」と言い、カイが「なぜ!」と言った。
ミオがそれを見て、また少し笑った。
午後のシフトが始まる五分前、ソウはロッカーの前で制服の胸元を直していた。
隣でレイがスーツのジャケットを羽織った。鏡に映る姿は、いつも通り完璧だった。
「レイさん」
「何ですか」
「なんでもないです」
「……それ、最近多いですね」
ソウは少し考えた。
「言いたいことがあるんですけど、まだうまくまとまってなくて」
「まとまったら言ってください」
「うまくまとまらないかもしれないです」
「そしたらまとまらないまま言ってください」
ソウはレイの顔を見た。レイは鏡を見ていたが、視線だけがソウの方に動いた。
「……はい」
「行きましょう」
二人でロッカー室を出た。廊下を歩きながら、ソウは後ろから声を掛けた。
「ミオさんの話、みんなどう思ったんですかね」
レイは歩みを止めずに答えた。
「それぞれ、考えていると思います」
「レイさんは」
少しだけ、間があった。
「——少し待ってください」
「え?」
「比喩的な意味で」レイは言った。「答えをまとめています」
ソウは「あ」と思って、それから少し笑った。
「わかりました」
カウンターに立つと、ちょうど常連の老人が入ってくるのが見えた。
いつもの水曜より二日早い。薄いベージュのコートを着て、特に急いでいる様子もなく、ゆっくりと入口からこちらへ歩いてくる。
「いらっしゃいませ」とソウは言った。
老人はソウを見て、少し目を細めた。
「今日は六人いるな」
「あ、はい。たまたま全員出勤で」
「ふむ」
老人はカウンターの前に立って、いつものようにポケットからスマホを取り出した。古い機種だ。画面の端に細かいひびが入っている。
「また文字の打ち方を教えてほしい」
「もちろんです」
老人は画面を操作しながら、ぽつりと言った。
「今日のニュース、見たか」
「山梨の池ですか」
「そうじゃない方だ」
ソウは顔を上げた。
老人はスマホの画面を見たまま言った。
「東京の西の方で、昨晩から空の色が少しだけおかしいと報告が出ている。行政は気象現象と言っているが」
「……そうなんですか」
「若い人間は夜に空を見ないからな」
老人は静かに続けた。「でも、見た方がいい。何かが変わっているときは、大体空に出る」
ソウは何か答えようとして、老人がすでに画面に視線を落としていることに気づいた。「文字の打ち方、ここを押すんですよね」と老人は言った。まるで今の会話がなかったかのように。
「……はい、そこです」
ソウはカウンターの向こうから老人の画面を覗き込みながら、窓の外にわずかに目をやった。
空は今日も、普通に青かった。
普通だった。
たぶん。
閉店間際、バックヤードで片付けをしていたソウは、奥の棚の前に氷室レイが立っているのに気づいた。
上の段に書類の束を戻そうとして——手が届かないのか、少し止まっている。
「手伝いますか」
「……いいえ」
レイは静かに言った。
「少し待ってください」
ソウは即座に後ろを向いた。
どさっ、という音。
スーツジャケットが落ちる音。続いてシャツ。
「——ご覧になっていませんね」
「全力で見ていません」
「結構です」
壁が、音もなく透過する気配がした。
ソウは背中を向けたまま、壁の向こうから聞こえてくるレイの足音を数えていた。
戻ってきたのは、三十秒後くらいだった。
「終わりました」
「……早いですね」
「慣れています」
ソウは振り向いた。レイはすでにスペアのスーツを完璧に着ていた。書類はちゃんと棚の上に収まっている。
「……一つ聞いていいですか」
「何ですか」
「毎回、こわくないんですか。壁に入るとき」
レイは少し考えた。
「こわいという感覚が、何を指しているかによります」
「暗い、とか。先が見えない、とか」
「——暗いです」レイは言った。「壁の中は基本的に暗い。でも」
「でも?」
「出口があることを、知っています」
ソウはそれを聞いた。
何も言わなかった。言えなかったというより、言う必要がなかった。
「そうですか」とだけ言って、ソウは棚の荷物を整理し続けた。
レイも隣に立って、残りの片付けを始めた。
二人で作業していると、バックヤードの小さなラジオが夜のニュースを流し始めた。
「——東京都西部の複数地点で観測された空の色の異変について、気象庁は現在原因を調査中としています。住民からは『夕方でもないのに空が赤みがかっていた』との証言が——」
ソウは手を止めた。
「……さっきのおじいさん、言ってたやつだ」
レイも聞いていた。
「……見ましたか、今日の空」
「見てないです」とソウは言った。「見ればよかった」
「また明日、見ればいいと思います」
「……明日も変わってるかな」
「わかりません」
レイは棚に書類を並べながら、小さな声で続けた。
「でも、明日も開店はします」
ソウは、それを聞いて少し息を吐いた。
「そうですね」
答えながら、ソウは棚の上の書類を一冊ずつ整えた。
隣にレイがいて、ラジオが話し続けていて、どこか遠い世界の空が赤くなっていた。
翌朝、ソウは出勤前に空を見上げた。
青かった。
普通だった。
……気のせいか。




