第37話「それでも、開店する」
月曜の朝というのは、いつも誰かに恨まれながら来る。
神崎ソウは自転車を駐輪場に押し込みながら、空を見上げた。晴れていた。雲がうっすら、まるで誰かが消しゴムで消しかけてやめたみたいに、ぼんやりとした輪郭のまま浮かんでいる。
……気のせいか。
いや、気のせいにするな、と先週あの謎のおじいさんが言っていた。でも今は店に入らないといけない。
ソウは駐輪場からモールへの短い坂を歩きながら、ポケットに手を突っ込んだ。先週から自分の中に居座り続けているざらつきがある。テルが調べていた。ミオが知っていた。世界の崩壊は、能力の自制が始まる前からすでに動き出していた。
その事実が、ちょうどうまく消化できないまま月曜になっていた。
バックヤードに入ると、すでにレイがいた。
制服姿でロッカーに向かって立っており、背中だけが見えている。ソウが「おはようございます」と言うと、「おはようございます」と間を置かずに返ってきた。声だけで、振り返りはしない。
いつも通りだ。ソウはそれに妙にほっとして、自分のロッカーを開けた。
「今日、全員いますよ」とレイが言った。
「え、テルも?」
「はい。八時五分前には来ていました」
それはかなり早い。テルが先週末からどういう状態なのか、ソウはまだ正確につかみきれていなかった。「なるようになる」と言いながらあれだけの資料を抱えて眠っていたテルが、今日どんな顔をしているのか。
「レイさん」とソウは訊いた。「テルって、今どんな感じですか」
少しだけ間があった。レイが振り返る。
「普通です」
「普通」
「自販機でコーヒーを三本当てていました」
ソウは制服の釦を留めながら「ああ」と言った。確率操作、当たりを引くやつだ。それはつまりテルがいつものテルだということで、なんとなく肩の力が抜けた。
「ミオさんは」
「弁当が七つあります。一つ多いです」
七つ。六人分より一つ多い。
ソウは訊こうとして、訊かなかった。ミオが誰かのために作る弁当が一つ多いとき、それは誰かに向けた言葉みたいなものだ。たぶん今朝、ミオは何かを考えながら包んだ。
休憩室に入ると、テーブルの周りに全員いた。
テルが椅子にだらんと座ってコーヒーを飲んでいる。カイは鏡を取り出して髪を整えていて、ナナはすでに弁当の包みを開けかけてミオに「まだ朝です」と止められていた。
「神崎くん、おはよ」とナナが言って、元気よく手を上げた。「ミオさんの弁当、今日は卵焼き甘めって聞いたんだけど食べていいかな、もうお腹すいてて」
「朝ですから」とミオが穏やかに繰り返した。
「もう九時前ですよ?」
「まだ九時前ですよ」
カイが「俺の票はナナに入れるぜ」と言って、ミオに静かに睨まれた。
テルがコーヒーを飲みながらソウを見た。目が合う。
「どうだ」とテルは言った。
「何が」
「整理ついた?」
直球だった。ソウは椅子を引いて座りながら「まあ」と言ってから「……まあ、は嘘かもしれない」と訂正した。
「正直でよろしい」とテルは言って、またコーヒーを飲んだ。「俺もまだ整理ついてないから安心しろ」
「安心ポイントそこじゃないんだけど」
テルはふわっと笑って、それ以上は何も言わなかった。
ミオが湯呑を並べながら「難しいことは、開店前でも開店後でも考えられますから」と言った。「まず、朝ごはんを食べる人は食べてください」
ナナが「やった」と言って弁当の包みに手を伸ばした。
ミオが「まだです」と言った。
「えっ」
「九時になってから」
「三分しかないじゃないですか!」
「三分待てます」
カイが「三分あれば俺は自分の重力を整えられる」と言った。誰も反応しなかった。
開店した。
月曜の午前というのは、たいてい来客が少ない。ソウはカウンターで開店直後の静かな時間を過ごしながら、ゆっくりと店内を見回した。
レイが売り場の端で機種案内のパネルを整えている。ナナが接客端末の確認を小走りでやっている。カイが「フロア担当」の名目で特に何もせずカウンター付近をうろうろしている。テルは棚の補充をしている。ミオはバックヤードで何かを仕込んでいる。
いつも通りだ、とソウは思った。
先週、世界が崩壊しつつあると知った。ミオが三週間前から気づいていたと知った。それでも月曜は来たし、開店した。
……なんか変じゃない?
いや、変だ。でも何が変なのかを上手く言葉にできない。
ソウが考えていると、テレビが聞こえた。
店内の隅に設置してある小型のモニターが、朝のニュースを流している。
「——南アルプスの主要三峰について、先週末の気象測量で全体的に高さの低下が確認されたとの報告が気象庁から——」
ソウはそのまま聞き流した。聞き流してから、ほんの少しだけ引っかかった。南アルプス。富士山。山が、また。
でも今は客が来た。
「すみません、機種変更なんですけど」と四十代くらいの女性が言った。ソウは「はい、こちらへどうぞ」とカウンターに案内した。
午前の接客が一段落した頃、バックヤードからカシャン、という音がした。
次いで、どさっ、という低い音。
ソウは一瞬で何の音か分かって、反射的に壁の方を向いた。
「……少し待ってください」
レイの声だった。落ち着いた、いつも通りのトーン。
ソウは視線を正面に固定したまま動かなかった。壁を向いているのか、なんとなく斜め上の空中を向いているのかよく分からない状態で、両手を腰に当てて、合法的に何も見ていない姿勢をとった。
音がした。ずぶ、という重くて静かな音。物質と物質が溶け込むときの音。
壁の向こうから声が聞こえた。
「棚の上段に資料が落ちています。在庫の確認書類です。回収してきます」
向こう側からレイの声が届いてくる。
壁を貫通して会話をしているという状況が、もう何度目なのかソウには分からなかった。でも毎回、心臓が一拍増える。それだけは変わらない。
「わかりました」とソウは言った。「ゆっくりどうぞ」
「そんなに時間はかかりません」
「いや、そういう意味じゃなくて——あの、急がなくて大丈夫っていう意味で——」
「はい、承知しました。少しだけかかります」
壁の向こうで、静かに衣擦れの音。
ソウは天井を見上げた。頭が、何かを思考しようとして、でも思考の前に別の何かがあって、うまく回らなかった。手が少し、湿っていた。
どすっ、という音がして、壁の反対側で足音がした。それから、衣擦れの音。
スライドドアが開いて、レイが書類を持って戻ってきた。完璧なスーツ姿だった。黒い長髪が肩の上で落ち着いて、乱れた様子は一切ない。
「回収できました」とレイは言った。
「……お疲れ様です」
「ご覧になりましたか」
「見てません」
「そうですか」
レイは書類をテーブルに置いて、さらっと確認を始めた。完全に、何事もなかった顔だ。
ソウは自分の右手を見た。手のひらが、まだ少し湿っている。
「あの」とソウは言った。
「はい」
「毎回思うんですけど、レイさん、全然——」
「仕様です」
「はい」
「慣れてもらっても、慣れてもらわなくても、どちらでも構いません」
ソウは「……はい」ともう一度だけ言って、カウンターに戻った。
背後でレイが書類をめくる音だけが続いた。
昼前になって、常連の老人が来た。
白いシャツに薄いグレーのカーディガン。たぶん今日も「スマホの使い方」を訊きに来たのだろう、とソウは思っていた。でも今日は違った。
老人はカウンターに来て、ソウの前に座って、スマホを出すでもなく、ただ静かに言った。
「最近、空が変じゃないかね」
ソウは少し間を置いた。
「……変、といいますと」
「形がな」と老人は言った。「雲の形が、こう——うまく言えんのだが、前より薄い。全体的に、薄くなっとる気がする」
ソウは今朝の空を思い出した。消しゴムで消しかけたみたいな雲。
「気のせいかもしれませんけど」とソウは言った。
「かもしれんな」と老人は言った。「でも気のせいにするのは、もったいないかもしれんぞ」
ソウは何か言おうとして、何も言えなかった。
老人は「まあ、いい」と言って立ち上がった。今日はスマホの使い方を訊かないのか、とソウが思っているうちに、老人はゆっくりと出口の方へ歩いていった。途中で振り返らなかった。
ソウはその背中を見ていた。
……なんか変じゃない?
昼休憩は六人分の弁当と、もう一つの弁当だった。
「ミオさん、これ誰のですか」とナナが七個目の弁当を指して言った。
「余りです」とミオは言った。
「余り?」
「作りすぎました」
カイが「嘘くさい」とぼそっと言って、ミオに「余りです」とはっきり繰り返された。
テルがその七個目の弁当をしばらく見てから「誰かのために作ったんだろ」と静かに言った。
ミオは何も言わなかった。
「ミオさん」とソウは言った。
「はい」
「先週言ってた、まだ時間はある、って話」
「はい」
「その、時間って、どのくらいですか」
テーブルが静かになった。ナナが箸を持ったまま動きを止めた。カイが斜め前を向いた。テルがコーヒーを置いた。レイは手元の弁当箱を見ていた。
ミオはゆっくりと息を吐いた。
「正確にはわかりません」とミオは言った。「でも——そうですね。たぶん、こうして食事できる時間は、まだあります」
「まだ」
「はい。今は、まだ」
ソウは「そうか」と言った。
今は、まだ。
ナナが「じゃあ今日の弁当、おいしく食べます」と言って、卵焼きを口に入れた。「あっ、甘い」
「今日は砂糖を少し多めにしました」とミオが言った。
「なんで?」
「気分です」
テルが「うまい理由だ」と言って、また笑った。
カイが「俺の分、もしかして薄め?」と卵焼きをつついて「……いや、同じくらいか」と自己解決した。
レイが「おいしいですね」と短く言った。それだけだった。でもソウには、それがこの場の全員の言葉みたいに聞こえた。
午後、ソウは一人でカウンターに立ちながら、さっきのミオの言葉を反芻していた。
今は、まだ。
時間がある。崩壊は進んでいる。でも今日は月曜で、開店していて、昼ごはんを食べた。テルがコーヒーを当て続けていて、ナナが弁当を先に開けようとして止められていて、カイが鏡を出して、レイが壁をすり抜けて、ミオが一つ多く弁当を作ってきた。
ソウはカウンターの端を指先でとんとん叩いた。
何かが変わり始めていることは分かる。先週より、確かに何かが近づいている気がする。でも今は、まだここがある。
スライドドアが開いて、客が入ってきた。
「あの、機種変したいんですけど——」
「はい、こちらへどうぞ」とソウは言って、立ち上がった。
バックヤードからナナが「ソウくん、お客さん?」と顔を出して、ソウが「うん」と返すと「行きます!」と言って全力で小走りしてきた。
いつも通りだった。
ソウはそれを見ながら、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
閉店間際。
ソウが出口のガラスを拭いていると、外の空が橙から紺に変わりかけていた。
雲が、また薄かった。
老人の言葉を思い出した。形が、薄くなっとる。
……気のせいか。
いや、たぶん気のせいじゃない。
でも今日は、まだここがある。
ソウは窓ガラスに映る自分の顔を見た。それからその奥の、ガラス越しに見える夕空を見た。薄くて、でもまだ橙で、まだ光があった。
バックヤードからカイの声がした。「明日、俺のシフト変えてもらえないか神崎、ちょっと頼みがあって——」
「また重力ですか」とソウは窓を拭きながら返した。
「違う! 普通の頼みだ!」
「明日聞きます」
「今聞いてくれ!」
レイが「閉店作業中です」と静かに言って、カイが「はいっす」と引き下がった。
ソウはガラスを一拭き。橙が、少し濃くなった。
今日は、まだここがあった。
明日もきっと開店する、と思いながら、ソウは窓拭きを続けた。
その夜、帰り道でソウはスマホをスクロールしていた。
ニュースアプリが更新を知らせている。ちらりと見た。
「——南アルプス全体で標高の低下を確認。観測史上初の複数峰同時変動、原因は——」
ソウはスクロールを止めた。
画面を見た。
……なんか変じゃない?
そのまま、また歩き始めた。でも今夜は、「気のせいか」で終わらせることができなかった。




