第36話「ミオが、知っていた」
朱雀ミオが到着したのは、昼前の十一時五十分だった。
バックヤードのドアが開いた瞬間、ソウはテルの調査資料から顔を上げた。ミオはいつもと同じペースで、いつもと同じ笑顔で入ってきた。手には保温バッグ。今日の弁当は、昨日の深夜に仕込んだやつだろう。
「おはようございます、ソウくん」
「おはようございます」
「テルちゃん、またここで寝てたんですか」
「さっきまで。今は店頭です」
「そうですか」
ミオは保温バッグをロッカーの上に置き、ソウの手元のコピー用紙を一枚だけ見た。
視線が、一瞬だけ止まった。
ほんの一秒。でもソウは見ていた。
「……それ」とミオが言った。「テルちゃんが調べてたやつですね」
「知ってたんですか」
「今朝、声をかけようとしたら、もう寝てたので」
笑いながら言う。でもその笑顔は、いつもより少しだけ疲れていた。目の下の影が、心持ち濃い気がした。
「ミオさん」とソウは言った。「テルが調べてた内容、見ますか」
ミオは少し黙った。
「……見なくても、だいたいわかります」
その一言が、バックヤードの空気をすっと変えた。
昼休憩は十二時半からだった。
今日はカイが客対応で遅れ、ナナが補充業務でまだ戻れないということで、最初にバックヤードに揃ったのはソウ・ミオ・テル・レイの四人だった。
ミオが弁当を並べる。今日は肉じゃがと鶏の照り焼き、ほうれん草のおひたし。ラップのかかったどれもが、複製品とは思えない完成度だ。
「ミオさん」とテルが言った。眠そうな目をしているのに、声だけはしゃんとしている。「チリ沖の話、知ってましたよね」
「……そうですね」
「いつから」
「三週間くらい前から、兆候は見えていました」
テルが箸を持ったまま動きを止めた。ソウも止まった。
レイだけが、静かに照り焼きを口に運んでいた。
「三週間」とソウは繰り返した。「でも、それは」
「能力を止める前から、です」とミオは言った。「みんなが自制を始める前から、もう動いていました」
テルが「だよね」と呟いた。どこか、確認が取れたような声だった。
「だよねって、予測してたの?」
「してた。でも早かった。もう三週間前には始まってたのか」
テルは視線を天井に向けた。何かを計算しているのかもしれないし、ただ疲れているだけかもしれない。
「ミオさん」とレイが口を開いた。「なぜ、黙っていたんですか」
問い詰めているわけではない。でも答えを求めているのはわかった。
「みんなに伝えたところで、できることが変わるわけじゃなかったから」とミオは言った。「それに。もう少し、普通のままでいさせてあげたかったんです」
誰も何も言わなかった。
ソウはほうれん草のおひたしを一口食べた。出汁が効いていた。なんで複製品がこんなにうまいんだろう、とぼんやり思った。
「三週間前から加速していたとして」とソウは言った。「これ、止まりますか」
ミオは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ナナとカイが遅れて戻ってきたのは、十三時をまわったころだった。
「ただいまーっ! 今日の接客めちゃくちゃ長かった。プランの移行で一時間かかったよ、一時間!」
ナナが鞄を投げるように下ろして席につく。隣でカイがため息をついた。
「俺は別の客に捕まってた。機種変か新規かで延々と迷われて、最終的に『やっぱり今日は帰ります』で終わった」
「お疲れ様です」とミオが弁当を差し出した。「冷めてしまいましたけど、よかったら」
「ありがとうミオさん! あ、今日肉じゃが! 好き!」
ナナが勢いよく蓋を開ける。カイも受け取って、ひと口食べて、ふっと表情が緩んだ。
しばらく、誰も話さなかった。
食べる音だけがある。箸の音、汁物をすする音、ナナが「おいしい」と小声で言う声。
ソウはその光景を、少しゆっくり見た。
別に特別なことは何もない。六人がせまいバックヤードで弁当を食べているだけだ。でもなんかこれ、いつかなくなるんだろうなという予感が、じわじわと胸の底を押していた。
気のせいか。
……いや、気のせいじゃない。それはわかってた。
「なんか暗くない?」とナナが顔を上げた。「今日のみんな」
「そう?」とカイが言った。
「そう。テルちゃんはいつも眠そうだから除くとして、ソウくんとレイさんがなんか静かだよ」
「静かなのはいつもでしょう」とレイが答えた。
「レイさんのはいつもの静かさと違う。なんか、考えてる静かさ」
レイが少し止まった。
「……よく気がつきますね」
「なんでよ。褒めてるの? 怖い」
ナナが首をすくめる。カイが「ナナ、鋭いとこあるよな」と言った。
「えっ、カイくんに言われると照れる」
「褒めてないけど」
「ひどっ」
テルがくすっと笑った。ミオも口元を緩めていた。
ソウも、少しだけ笑えた。
午後の接客が始まってから、ソウは一度だけバックヤードに戻った。
ミオが一人でいた。保温バッグを畳んで、ロッカーの前に立っている。
「ミオさん」
「あ、ソウくん」
「少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
ソウは少し間を置いた。何を聞くか、昼休みからずっと考えていた。
「止まらないとしたら、どうなりますか。最終的に」
ミオは答えるのに時間をかけた。急いでいないというより、正確に言葉を選んでいる感じだった。
「世界が薄くなっていきます」とミオは言った。「景色が溶けて、物が消えて、人の記憶が飛んで。最終的には」
「最終的には」
「形を保てなくなる」
ソウはそれを聞いて、何も言えなかった。
「でも」とミオが続けた。「まだ時間はあると思ってます。それだけははっきり言えます」
「どのくらい」
「……それは、わかりません」
ミオが振り返った。表情は穏やかだった。穏やかすぎるくらい穏やかだったので、ソウは逆に胸が痛かった。
「ソウくん」
「はい」
「今日も、お客さんとちゃんと話せてましたね。さっき見えました」
「え、そうですか」
「難しい質問をされてたのに、丁寧に答えてた。すごいと思って」
なんでこのタイミングでそんなことを言うのか。ソウは少し戸惑った。
「……ミオさん、話ずらしてますよね」
「ずらしてないです」とミオはあっさり言った。「ただ、それも本当のことだから言いました」
ミオが保温バッグを手に取って、バックヤードのドアに向かう。
「あ、ミオさん」
「なんですか」
「また明日も弁当ありますか」
ミオは少し止まって、それから笑った。
「もちろんです」
夕方、閉店一時間前になって、店内のテレビが切り替わった。
夕方のニュースだ。ソウはカウンター越しにちらっと見た。
『本日、気象庁は国内各地で観測された「光の散乱異常」について会見を開きました。複数の地点で、日光が通常とは異なる角度で屈折する現象が確認されており――』
キャスターが淡々と読み上げる。映像が切り替わって、街の映像が映った。確かに、建物の影の向きがどこかおかしい。
ソウは少し見た。
……なんか変じゃない?
でも、今日はうまく流せなかった。
カウンターの隣でレイが書類を整えていた。ソウはそちらを見た。レイはテレビを見ていなかった。でも耳は向いている気がした。
「レイさん」と小声で言った。
「なんですか」
「光が屈折するって、何かの能力の副作用になったりしますか」
レイは少し考えた。
「直接的には、そうではないと思います」と答えた。「ただ、物質境界が不安定になれば、光の通り道も変わる可能性はある」
「なるほど」
「ソウ」
「はい」
「怖がっていますか」
ソウは少し止まった。正直に考えた。
「……怖い、というより」と言った。「どうすればいいか、まだわかんないって感じです」
「そうですか」
「レイさんは」
「私は」とレイが言いかけて、止まった。
数秒あって、続けた。
「私も、まだ答えが出ていません」
その声は、いつもより少しだけやわらかかった。
閉店作業は、いつも通り全員で分担してやる。
今日はカイが床の清掃担当で、ナナが在庫確認、テルとソウが展示品の電源を落とすことになった。
テルと並んで端末を一台ずつシャットダウンしながら、ソウは横を見た。テルは眠そうな目をしたまま、淡々と画面を消している。
「テル」
「うん」
「論文、全部読んだの」
「読んだ。ほぼ」
「しんどくなかった」
「なった。でも、知っておきたかった」
テルが画面を一台消した。展示台がひとつ暗くなる。
「俺さ」とテルが言った。「確率を操作する能力があるでしょ」
「うん」
「あれってさ、どうでもいいことしか操作できないじゃん」
「そうだね」
「自販機の当たりとか、信号とか。世界が崩れるのを止めるのには、絶対使えない」
「……そうかもね」
「でも」と言って、テルが次の端末のボタンを押した。「なるようになる、でも着地点による、って言ったじゃん。昨日」
「言ってた」
「着地点を決めるのは、確率じゃないんだよね」
ソウは何も言わずに次の端末を消した。
展示台がまたひとつ暗くなった。
「そっか」とソウは言った。
「そっか、じゃないよ」とテルが笑った。「なんか言いなよ」
「なんか言えって言われても、俺なんも能力ないし」
「それがいいんじゃん」
テルがふっと目を細めた。
「俺たちの能力、全部この世界に悪さしてるじゃん。ソウの『なにもない』だけ、悪さしてないんだよ」
ソウはその言葉を、一拍おいてから受け取った。
「……それ、慰めてる?」
「慰めてない。本当のことを言ってる」
「どっちでもいいけど」
「どっちでもよくない」
テルがまた笑った。こいつ、今日は珍しく喋るな、とソウは思った。
バックヤードの鍵を閉めたのは、ソウだった。
他のみんなは先に出て行って、ロッカーの前に残ったのはソウとミオだけだった。
「ミオさん、明日も早いんですか」
「そうですね。五時起きくらいで」
「毎日それですよ」
「慣れてます」
ミオがコートを羽織った。保温バッグを持ち、軽く振り返る。
「ソウくん」
「はい」
「今日、よく聞いてくれましたね。みんなの話も、私の話も」
「聞いてただけですよ」
「それが大事なんです」
ミオが先に出た。ソウは少し立ったままでいた。
蛍光灯の音だけが、しばらくしていた。
なんか変じゃない?
そう思ったけど、今日は流さないことにした。
翌朝、モールの入口の自動ドアをくぐったとき、ソウはスマホのニュースアプリを何気なく開いた。
一番上に出ていた記事のタイトルを、ソウは三秒ほど見た。
『インド洋の無人島、昨日から衛星画像に映らず。消滅か、誤作動か――専門家に見解を聞いた』
ソウはアプリを閉じた。
自動ドアの向こうから、ナナの「おはようございます! 今日は五分前に来ました!」という声が聞こえた。
一日が、始まった。




