第35話「テルが、調べていた」
---
土曜の朝はいつも少し違う温度がある。
客の入りが多い分、開店前のバックヤードが独特の静けさを持つのだ。ソウはロッカーに荷物を押し込みながら、何となくそのことを考えた。
土曜だから、今日は忙しい。
それだけ考えていれば十分なはずだった。
「おはようございます」
レイが制服のジャケットのボタンを留めながら入ってきた。いつも通りの完璧な姿。いつも通りの低い声。でも今週のソウには、それが「いつも通り」だと確かめるのに一拍かかるようになっていた。
たぶん、昨日のせいだ。
服が落ちる音。壁越しに届いた声。自分の心拍数。
「おはようございます」とソウは返した。普通の声が出た。それだけで少し安心した。
「今日は混みますね」レイが手元の端末に目を落として言った。「土曜の午前中は機種変更の予約が三件入っています」
「そうですね」
「昨日のチリ沖の件、調べましたか」
唐突な話題転換に、ソウは一瞬ついていけなかった。
「……いえ、まだ」
「霧島さんが朝から来ているので、おそらく何か掴んでいると思います」
「テルが?」
レイは小さく頷いた。それきり端末に視線を戻す。
ソウは荷物の整理を済ませながら、廊下の向こうを見た。休憩室の明かりが点いていた。
霧島テルは、休憩室のソファで寝ていた。
科学誌とプリントアウトした紙束を胸の上に乗せたまま、安らかに眠っていた。いつも通り、何かを調べた形跡を残したまま別のことを始めていた。
「テル」
「…んー」
「テル、起きて」
「…起きてる」
起きていなかった。ソウは紙束が床に落ちないよう回収してから、肩を揺すった。
「朝から来てたって、レイさんが言ってたんだけど」
テルが薄目を開けた。いつでも眠そうな、でも何もかも見透かしているような目だ。
「あー」テルはゆっくり起き上がって、ソウが持っている紙束を受け取った。「読んだ?」
「落ちそうだったから拾っただけ。何これ」
「チリ沖の件」
ソウはテルの隣に腰を下ろした。
紙束の一枚目は、英語の論文らしきものを適当に翻訳した文章だった。テルの字で余白に走り書きがある。「これ変」「ここ重要」「なんか嫌」という感想が赤ペンで添えてあった。
「なんか嫌って何」
「字の通り。なんか嫌だった」
テルはそこだけ真剣な顔をした。こいつが真剣な顔をするのは珍しい、とソウは思った。
「チリ沖の海底山脈が消えただろ」テルが言った。「それだけじゃないんだ。同じ週に、アイスランド沖の海嶺が三キロ短くなってた。衛星データの話ね。あと、南太平洋の深海測量で、前回調査より海底が平均二十メートル浅い地点が複数箇所あった」
ソウは黙って聞いた。
「これ全部、一週間以内の話」テルが続けた。「能力を自制してから、もう二週間以上経つ。それなのに」
「止まってない」
「むしろ加速してるかもしれない」
テルはそう言って、また少し目を細めた。困っているわけではなさそうだった。ただ、事実を見ていた。
「どう思う」とソウは聞いた。
「なるようになる」
「……」
「でも」とテルは続けた。「『なるようになる』の着地点が、どこかによる」
それきり、しばらく二人とも黙った。廊下の向こうからレイの靴音が遠ざかっていった。開店準備が始まっている。
ソウはプリントアウトの束を、テルの膝の上にそっと置き直した。
「みんなに言う?」
「レイさんにはもう送った。あとはソウが聞いてくれたからよかった」
「俺が聞いてくれたらよかったって、ずいぶん気軽だな」
「気軽じゃないよ」
テルがソウを見た。
「ソウに言えば、ちゃんと受け取ってくれるから」
ソウは何も言えなかった。返事の代わりに立ち上がって、「とりあえず開店準備するか」と言った。
「うん」
テルはまたソファに沈んだ。さっきよりも深く。
「あと十五分寝る」
「早く来ておいて何してんの、お前」
開店と同時に、カイとナナが揃ってバックヤードに飛び込んできた。
「間に合った!」
「ナナ、今日は何分?」
「……ちょうど」
「ちょうどって何分よ」
「ちょうど、ゼロ分」
ソウはカウンター越しに振り返った。ナナが満面の笑みで制服のリボンを整えていた。カイが「珍しい」と言いながら自分のネームプレートを付けた。
「俺も今日は余裕だったけどな」カイが言った。「いや、余裕というか、最初から急ぐ気がなかっただけ? まあどっちでも同じか」
「全然同じじゃないけど」
「細かいこと言うな、ソウ」
カイは通り過ぎ際に軽く肩を叩いてカウンターの反対側に立った。今日は珍しく落ち着いていた。ナルシストのスイッチが入っていない。
「テルから連絡来た?」とカイが小声で聞いた。
「来てた。ここで聞いた」
「そっか」
それだけ言って、カイは前を向いた。いつものチャラい感じは鳴りを潜めていた。
午前中の客足は予想通りだった。機種変更の予約が三件、飛び込みの問い合わせが二件、それから「スマホが熱くなる」という相談が一件。ソウは接客をこなしながら、頭の中でテルの話を転がし続けた。
加速している。
能力を止めても、加速している。
それはつまり——
「神崎さん、後ろいいですか」
レイの声で我に返った。書類を持ったレイが、バックヤードの扉の前に立っていた。
「あ、はい。どうぞ」
レイは軽く頷いて扉を開けた。
ソウはそれを見送って、客の対応に戻った。
五秒後に気づいた。
扉の向こうから「ぱさっ」という音が聞こえた。
聞こえた。
聞こえて、ソウの脳が一拍止まった。
あの音だ、と体が先に理解した。頭が追いつくより早く耳が覚えていた。服が落ちる音。昨日も、その前も、何度も聞いた音。
「……あのー、神崎さん?」
目の前の客が不思議そうにソウを見ていた。
「申し訳ありません、少々お待ちください」とソウは言った。声は正常だった。顔は正常だったかどうか、自分では分からなかった。
壁越しに、足音が遠ざかっていった。
次に扉が開いたとき、レイは完璧な姿で立っていた。書類を手に持って、何事もなかった顔で戻ってきた。
「……」
「何か?」レイが静かに言った。
「……ちょっと聞いていいですか」
「どうぞ」
「今のって、書類のためだったんですか」
「ええ」
「壁の向こうに書類があったんですか」
「備品棚の裏に挟まっていました」
「……」
「問題でしたか」
ソウは首を横に振った。「いえ、ないです」と言った。そこで会話を切った。
レイはカウンターの別の区画に立って、普通に接客を始めた。
ソウはとりあえず客の対応を再開した。顔が熱かった。気のせいだと思いたかった。気のせいじゃなかった。
昼前にミオが来た。
「おまたせ」と言いながらバックヤードに入ってきたミオは、六人分の弁当を提げていた。今日は豚の生姜焼き定食らしく、廊下までいい匂いがした。
「ミオさん、ちょっといいですか」
休憩室に入る前に、ソウはミオを呼び止めた。
「テルから話は聞きましたか」
ミオは弁当を棚に置きながら、小さく頷いた。
「霧島さんからレポートが届いてた」
「どう思います」
ミオは振り返った。やわらかい顔をしていた。でも目は静かだった。
「急いでる気がした」と言った。
「世界が?」
「うん。……前は、ゆっくり崩れていく感じがしてた。でも最近は、なんか」
ミオは少し言葉を探した。
「自分から急いでるみたい」
ソウはそれを聞いて、何となく分かる気がした。うまく言葉にはできなかったけれど。
「ご飯、食べよう」とミオが言った。「食べながら考えればいい」
「そうですね」
「ソウくん、顔が赤い」
「気のせいです」
ミオが少し笑った。それ以上は聞かなかった。
昼の休憩、六人が小さな休憩室に収まった。
テルはソウの隣に座ってさっそく生姜焼きを食べ始めた。ナナはお茶を三回お代わりした。カイは一口食べてから「これ本物?」と聞き、ミオが「今日は本物」と答えると「なんか逆に複雑」とつぶやいた。レイは定位置の椅子で箸を使いながら、静かに食べていた。
テレビは点けていなかった。
誰かが消したのか、最初からそうだったのか、ソウには分からなかった。でも、今日は誰もつけようとしなかった。
「チリ沖の件」カイが言った。「朝、俺も確認した」
「うん」とテルが言った。
「どうにかなる?」
「なるようになる」
「それ、どっちの意味?」
テルは箸を止めた。
「なるようになる、は、どっちの意味でもある」
カイは黙った。
ソウは六人の顔を見回した。みんな食べていた。ちゃんと食べていた。生姜焼きの匂いがした。ミオが丹精込めて作った弁当を、六人で食べていた。
変な人たちだ、とソウは思った。
最初からずっとそう思ってきた。でも今は、それと同時に何か別のことも思っていた。うまく言葉にならないまま、ただそこに座っていた。
「ソウ」とナナが言った。「どう思う?」
「何が」
「全部」
ソウは少し考えた。
「テルが言ってたことが合ってるとしたら、加速してるんだろ。止めても止まらない。それは」
「怖い?」
「……怖いかどうかより」
ソウは弁当の蓋を閉めた。閉める必要はなかったけれど、何か手を動かしたかった。
「ちゃんと知りたい。何が起きてるのか。今まで流してたぶん、ちゃんと」
誰も笑わなかった。
ミオが静かに頷いた。
レイが少しだけ、ソウの方を見た。ほんの一瞬だったけれど、ソウは気づいた。
「おじいさん、今日来るかな」とテルが言った。
「土曜だから来るかもしれない」とソウは言った。「来たら聞く」
「何を?」
「全部」
テルは少し考えてから、「なるほど」と言った。そのまままたご飯を食べ始めた。
午後の接客が落ち着いた頃、カウンターの奥でソウはふとテレビが目に入った。
音を消したまま流れている映像の字幕に、さりげなく文字が並んでいた。
——『インドネシア・ジャワ島沖、海底地形の大規模変動を確認。国際観測チームが調査を開始』
ソウはそれを三秒見て、目を逸らした。
……なんか変じゃない?
でも今日は「気のせいか」で終わらせなかった。
代わりに、手元のメモ帳に「ジャワ島沖・海底」と書いた。
小さく、でもはっきりと。
閉店まで、あと三時間。
謎のおじいさんが来るかもしれない。来ないかもしれない。
どちらにせよ、ソウは今日、聞くことを決めていた。




