第34話「服が落ちる音がした」
金曜の朝、神崎ソウは開店三十分前に出勤した。
バックヤードに入ると、すでに氷室レイがスーツのジャケットをハンガーに掛けているところだった。
「おはようございます」
「おはようございます、神崎さん。早いですね」
「最近なんか、早く起きちゃって」
嘘ではなかった。ここ一週間ほど、六時前に目が覚める。夢を見るわけでも、物音がするわけでもない。ただ、目が開く。
レイはロッカーに向き直り、何も言わなかった。
それでいい、とソウは思った。無言が気まずくない関係というのは、案外少ない。
ロッカーを開けながら、ソウは横目でレイを確認する。昨日より少し、背筋が張っている気がした。疲れているのか、逆に気を張っているのか、判断がつかない。
……気のせいか。
制服に着替えていると、バックヤードのテレビが自動的に点いた。田所店長がタイマー設定したらしく、毎朝七時になると起動する。
画面にはニュースキャスターが映っている。
「――南米チリ沖で観測されていた海底山脈の一部が、最新の調査で確認不能となっています。専門家によれば、地殻変動では説明のつかない急激な――」
「あ、チリ」
ソウが呟くと、レイがわずかに振り向いた。
「何か」
「いや、チリって南米だっけ。なんか地図のどこかわからなくなってきた、最近」
「南米の太平洋側です」
「ですよね」
レイが前を向いた。ソウも制服のボタンを留めた。
テレビはそのまま流れ続ける。
ソウはそのニュースを、うっすらと胸のどこかに引っかかったまま、とりあえず棚の奥に押し込んだ。
開店してすぐ、日向ナナが駆け込んできた。
「間に合いましたっ」
息が上がっている。額に薄く汗をかいている。
レイが時計を確認した。
「七分遅刻です」
「え゛」
ナナが固まった。
「時間を使わなかったので」と、ソウが横から補足した。「七分遅れてる」
「そんな、そんな、能力なしだとこんなに遅れるんですか私」
「電車、乗り間違えましたか」
「乗り間違えてはないんですけど、乗り換えで方向を間違えて。あと信号が全部赤で」
「テルがいないので」
「テルさんいないと信号まで……?」
ナナがしゅんとした。ソウは少し笑った。
霧島テルは今日、午後からのシフトだった。テルがいないだけで職場の運気が変わる気がするのは、おそらく気のせいではない。
ナナはそのまま制服に着替えて、「七分分、お昼休憩短くします」と宣言してカウンターに立った。真剣な顔で言うので、誰も笑えなかった。
午前中は客足が落ち着いていた。
ソウはカウンターの端で、新プランのパンフレットを整理しながら、レイが客の対応をするのをぼんやり眺めていた。
端末の画面を指差しながら、レイが静かに話す。声のトーンが均一で、抑揚が少なくて、でもなぜか聞いていて飽きない。あの喋り方をソウは最初から不思議だと思っていた。感情を抑えているのではなくて、もともとそういう構造なのかもしれない。
……変な言い方だけど。
客が帰った後、レイがソウの横に来た。
「在庫の確認をしたいのですが、上の棚にSC-Xの後継機種が三台あるはずで」
「取りましょうか」
「いえ、私が」
レイがバックヤードに向かった。ソウも少し遅れて後に続く。
物品の棚は高さが三段あって、一番上は脚立を使わないと届かない。レイが脚立を引き寄せた。
そして、止まった。
「……少し待ってください」
ソウの動きが止まった。
合図だ。
「あ、はい」
ソウは反射的に壁に向き直った。後頭部に気配を感じながら、視線を壁の一点に固定する。
どさっ。
聞こえた。布が落ちる、あの音。
ソウの首が、勝手に熱くなる。何もしてないのに。壁を向いているのに。
ずぶ、という感触的な音は聞こえなかったが、気配が急に薄くなった。レイが壁の向こうに行ったのだとわかる。
……なんで毎回こんなに心拍数上がるんだ俺は。
ソウはパンフレットを持っていたことに気づいた。意味なく壁の前でパンフレットを持っている自分が、じわじわとシュールだった。
数秒後。
壁の向こうから、ごとん、という音がした。
「神崎さん」
「はい」
レイの声が、壁の向こうから聞こえた。妙に近い。
「SC-Xの後継機は二台しかありません。システム上の在庫と合いません」
「……ここから話すんですか」
「移動するより効率的です」
「は、はあ」
「データを確認してもらえますか」
「あー、確認……えっと……端末、端末は」
端末はカウンターの上にある。ソウはそこまで行って、タブレットを開いて、在庫管理の画面を出した。
手が微妙に震えている。
「SC-X後継、三台で登録されてます」
「やはり合いませんね」
「……合いませんね」
そのまま五秒ほど沈黙があった。壁の向こうでレイがもう一度確認しているのだろう。
「棚の一番奥に隙間があります。落ちているかもしれません」
「取り出せますか」
「少し奥すぎて手が届きません。戻ります」
また数秒の間があった。
どさっ。
また聞こえた。なんで戻るときにも音がするんだ、とソウは思った。仕様だとわかっているのに慣れない。
気配が戻ってきた。
「神崎さん、顔をこちらに」
「着替えてますよね」
「着替え終わっています」
ソウがゆっくり振り向くと、レイはもう完璧なスーツ姿だった。ジャケットのボタンまで留まっている。どのタイミングで着たのか、毎回わからない。
「SC-Xの在庫は後で脚立で確認します。おそらく奥に落ちているだけです」
「了解です」
「ご覧になりましたか」
「向いてました」
「そうですか」
レイはそれだけ言って、カウンターに戻った。
ソウはしばらくパンフレットを持ったまま、バックヤードに立っていた。
……頭の整理が追いつかない。
昼休憩は、いつものようにバックヤードに折り畳みテーブルを出して、六人で囲んだ。
朱雀ミオが今日持ってきたのは、豚の生姜焼きと、白和えと、ごはんだった。ただし豚の生姜焼きは本物で、白和えが複製品だった。
「白和えは本物っぽい見た目が難しくて」とミオが言った。「最近、なるべく複製は減らしているので、一品だけにしました」
「ミオさん、全部本物でいいですよ」とナナが言った。「手間でしょう」
「手間は好きなんです、料理の」
「本物すぎて逆に申し訳ない」
「そんなことないです」
カイが生姜焼きを一口食べて、「これは絶対複製じゃない」と言った。「肉の繊維が違う」
「わかりますか」とミオが少し嬉しそうにした。
「俺、味覚は鋭いんで」
「それは重力と関係あるんですか」とソウが聞いた。
「全然ない」
テルが白和えを食べながら、端末で何かを調べていた。画面を伏せているので内容はわからない。
「テル、さっきから何見てるの」とソウが聞いた。
「科学系のやつ」
「また?」
「うん。チリ沖の話」
ソウが手を止めた。
「朝のニュース?」
「同じやつ。海底山脈が確認不能になったって。いくつかの調査機関が別々にやって、全部同じ結論だったって書いてある」
テーブルが静かになった。
ミオがごはんをよそいながら、「それは」と言いかけて、止まった。
「何か」とソウが聞いた。
「いいえ」
ミオは何も言わなかった。
レイが白和えを食べた。
ナナが生姜焼きを口に運びながら、「海底山脈って、なくなるものなんですか」と首を傾げた。
「通常は」とレイが答えた。「なりません」
「じゃあ変ですよね」
「変です」
変です、とレイがはっきり言うのは珍しかった。ソウは少しだけ意外に思った。
「最近ニュースが変じゃない?」
ソウが言うと、カイが「ずっと変じゃない?」と返した。
「ずっと変なのは知ってる。でも最近、変の種類が増えてる気がして」
「能力を使ってないのに」とナナが小さな声で言った。
全員が、言葉の続きを待った。
ナナが続けた。
「私たちが止めても、変なことが起きてる。それが一番怖い」
誰も何も言わなかった。
ミオがごはんを全員の茶碗に追加した。それが今できることだというように。
午後、テルが出勤してきた。
いつも通りの顔で、いつも通りのまま、「よー」と言いながらバックヤードに入ってきた。
「信号なかったら七分遅刻した」とナナが即座に言った。
「それはかわいそうに」とテルが言った。反省の色はなかった。
「テル、チリ沖のニュース知ってる?」とソウが聞いた。
「海底山脈の? 知ってる」
「どう思う」
テルが少し考えた。
「なるようになる」
「そういう話じゃ」
「でも、なるようになるしかないじゃん。私らが能力やめて、それでも起きてるなら、もう私らにはどうしようもない部分もある」
テルが自販機のボタンを押した。当たりが出た。二本目のボタンを押した。それも当たりだった。
「……二連続」とソウが言った。
「今日は調子いい」
テルは何でもないように言って、ジュースを一本ソウに渡した。
ソウは受け取った。冷たくて、手のひらに汗がにじんだ。
夕方、謎のおじいさんが来た。
今日は珍しく、スマホを持たずに入ってきた。
カウンターに近づいてきて、ソウの前に立った。
「お久しぶりです」とソウが言った。
「うん」とおじいさんが言った。「今日は端末の話じゃない」
「何か」
「聞いたか。チリ沖」
ソウの背筋が冷えた。
「聞きました」
「あれはな」
おじいさんが言いかけて、止まった。店内をゆっくり見回した。レイがいる。テルがいる。ナナが客の対応をしている。
「あれはな」と、おじいさんがもう一度言った。「地図の話じゃない」
「どういうことですか」
おじいさんが、ソウの目を見た。
「全部、気のせいにするな」
それだけ言って、おじいさんは帰った。
今日は何も買わなかった。スマホも持ってこなかった。
ただそれだけを言いに来た。
ソウはカウンターの前に立ったまま、おじいさんが出て行ったドアを見ていた。
レイが横に来た。
「神崎さん」
「……なんでしょう」
「今日のおじいさん、いつもと違いました」
「気づいてましたか」
「はい」
レイが、続けた。
「観察しているというより、今日は何かを確認しに来たように見えました」
「確認」
「私たちが、まだここにいるかどうか」
ソウはレイを見た。レイは前を向いたままだった。
……なんか変じゃない?
ソウはそう思ったけど、今日は声に出さなかった。
閉店作業が終わったのは九時を少し回った頃だった。
田所店長が「お疲れ」と言い残して先に出た。ミオとカイとテルも順に帰った。
バックヤードに残ったのは、ソウとレイとナナだった。
ナナが制服を畳みながら、「ソウくん」と呼んだ。
「なに」
「あのおじいさん、怖くないですか」
「怖い?」
「悪い人じゃないのはわかる。でも、怖い」
ソウは少し考えた。
「怖いっていうより」
「うん」
「全部知ってる人みたいな感じがする」
ナナがうなずいた。「それが怖い」
レイがコートを羽織りながら、「正確に言えば」と言った。
「知っているというより、見ている、でしょうか」
「何を」とソウが聞いた。
「私たちを。この場所を。この状況を」
誰も返事をしなかった。
レイがコートのボタンを留め終えた。
「お先に」
レイが出口に向かいかけて、止まった。
手が、上着の前に伸びた。
「……少し待ってください」
ソウが即座に壁を向いた。
どさっ。
「何してるんですか」とナナが言った。
「出口から出ます」とレイが言った。
「普通に扉から出ればいいじゃないですか」
「少し早い方が」
「距離何メートルですか、扉まで」
「三メートル弱です」
「三メートルのために」
「効率の問題です」
ソウはずっと壁を向いていた。後ろでレイとナナが会話しているのが聞こえた。
ずぶ、というよりも、静かに気配が消えた。
壁の向こうから、コツコツとヒールの音がして、遠ざかっていった。
どさっ、とは違う音がした。外の廊下で制服を拾い直したのかもしれない。
ソウが振り向くと、ナナが呆れた顔で立っていた。
「なんで三メートルのために」
「……俺に聞かれても」
「毎回思うんですけど、レイさんって恥ずかしくないんですか」
「仕様らしいので」
「仕様って何ですか仕様って」
「俺も知りたい」
ナナが小さく笑った。
ソウも笑った。
久しぶりに、何でもないことで笑った気がした。
モールの外に出ると、空に星が見えた。
先週より少ない気がした。
……気のせいか。
ソウはスマホを取り出して、チリ沖のニュースを検索した。海底山脈の消失。調査機関の困惑。専門家のコメントは「前例がない」の一言に集約されていた。
前例がない。
この一年で、そのフレーズを何回聞いただろう。
ソウは歩き始めた。駅までの道を、いつも通りに歩いた。
明日も、ここに来る。みんながいる。店長がいる。おじいさんがまた来るかもしれない。
何かが変わりかけている。
でも今日は、ナナが笑った。それは本物だった。
ソウはスマホをポケットに戻した。
星の数を、もう一度だけ数えようとして、やめた。




