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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

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第33話「消えていくものと、ここにあるもの」

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モールの照明が、今日も少しだけ白すぎる気がした。


神崎ソウは出勤途中にそう思ったが、立ち止まらなかった。気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれない。どちらにせよ、午前十時の開店には間に合わせなければならない。


バックヤードに入ると、朱雀ミオがすでに弁当箱を並べていた。


「おはようございます、ソウくん」


「おはようございます。また本物ですか」


「また本物です」


ミオはそう言って、六人分のタッパーの蓋をきっちり並べた。茶色い煮物の香りが漂ってくる。昨夜の何時に仕込んだのかは聞かないことにしている。聞いたら答えてくれると思うが、答えを受け取る準備がまだできていなかった。


氷室レイがちょうどロッカーを開けるところだった。制服のジャケットを羽織りながら振り返り、ソウと目が合う。


「おはようございます」


「おはようございます。今日は早いですね」


「昨日、少し早めに寝ました」


「…そうですか」


レイが早く寝た。それだけのことなのに、なぜかソウは胸の中で何かが引っかかった。最近、レイの言葉の端々が少しだけ違う気がする。うまく言語化できないが、たとえるなら、ずっと高いところにあった棚が、気づいたらほんの少しだけ手の届く位置に下りてきているような感覚だ。


気のせいかもしれない。


いや、最近「気のせい」の精度が落ちてきている気がする。



 



開店してしばらくは穏やかだった。


来客が二組ほどあり、ソウが機種変更の手続きを担当している間、レイはカウンターで新しいプランの説明資料を整えていた。黙々と、でも無駄のない動作で。


テレビでは昼前のワイドショーが流れている。


「――続いてのニュースです。南米チリの研究機関が発表した報告によりますと、アンデス山脈の一部地帯で岩盤の消失が確認されました。専門家は地質的な侵食とは異なるパターンだと述べており、原因については引き続き調査中とのことです――」


ソウはちらりと画面を見た。


岩盤が消えた。


…なんか変じゃない? と思ったが、客がカウンターに来たので手を動かした。


「すみません、このプランって家族割できますか」


「はい、ご家族での御契約であれば対応可能でございます。少々お待ちください」


脳の一部だけがニュースのことを気にしながら、ソウは端末を操作した。



 



日向ナナが来たのは十一時を七分過ぎたあたりだった。


「間に合いました!」


ロッカールームに飛び込んできたナナが、胸を押さえながら宣言した。息が上がっている。


ミオが静かに時計を指さした。


「七分、過ぎてます」


「え」


「七分」


「………また?」


「また」


ナナはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。「今日は絶対間に合うと思ったのに」と小さな声で言っている。


ミオが穏やかな手つきでナナの頭を一度だけ撫でた。「急いで着替えてください。怒ってませんから」


「怒ってないだけで遅刻は遅刻では?」とソウは思ったが、口にしなかった。このバイト先では「怒っていない」は「許している」とほぼ同義で運用されている。


ナナが着替えを済ませてカウンターに出てきたのは五分後。顔だけはしゃんとしていた。切り替えの速さだけは抜群に優れている。


「今日は能力、使ってないんですか」とソウは聞いた。


「うん。ちゃんとやめてる」


「なのに七分遅刻した」


「……なのに七分遅刻した」


ナナがしおれた声で繰り返した。


「いつもは何分遅刻してたんですか、能力使ったとき」


「一分」


「………つまり能力なしだと六分余計にかかる」


「そういうことになる」


ソウは少し考えた。「じゃあ、六分早く家を出れば」


「試してみる」とナナは言ったが、その顔はあまり自信なさそうだった。たぶん明日も七分遅刻するだろうとソウは思った。そしてそれはそれでいい気もした。



 



昼休憩は六人そろった。


御堂カイが珍しく黙って弁当を開け、霧島テルが窓際の椅子で半分目を閉じながら箸を動かしていた。ミオの煮物は今日も味がきちんと入っていて、ソウは気づいたら全部食べ終わっていた。


「ミオさん」とカイが言った。


「なんですか」


「これ、昨日の夜に作ったんですか」


「そうです」


「何時に」


「二時ごろ」


カイがしばらく黙った。それからまた食べ始めた。何かを言いかけたような顔だったが、結局黙ったまま箸を置いた。


ソウには、カイが何を言おうとしたか、なんとなく分かった気がした。でも正解かどうかは分からないし、確かめる必要もないかもしれなかった。


テルがのんびりとした声で言った。


「今日のニュース、見た?」


「岩盤が消えたやつですか」とソウは言った。


「それも気になるけど、さっき昼のニュースで別のが出てた。オーストラリアの砂漠で、昨日まであった丘が今日の衛星写真に写ってない、って」


全員が少し静止した。


「……能力、誰も使ってないよね」とナナが言った。


「少なくともここにいる全員は」とテルが答えた。


「なら」


「なら、って言っても」


テルは特に慌てた様子もなく、自分の弁当の最後の一粒を食べ終えた。「まあ、なるようになる」


その言葉は、いつもなら少し軽すぎる気がした。でも今日はなぜか、軽くなかった。



 



午後の接客が一段落した三時ごろ、常連の謎のおじいさんが現れた。


「こんにちは」


「こんにちは」とソウは言った。「今日は何のご用件ですか」


「いや、特にない」


おじいさんはいつも通り、用件のない用件で来る。ソウはもはや驚かなかった。椅子を勧めると、おじいさんはゆっくりと腰を下ろした。


「最近、空の色が変だと思わんか」


「……少し、気になります」


「若いのに気づくんじゃな」


「変なことが続いてるので、感度が上がってるだけだと思います」


おじいさんはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。笑っているのか、何か別のことを考えているのかは分からなかった。


「繰り返しておくが」とおじいさんは言った。「気のせいにしておかんほうがええ」


「……何がですか」


「全部じゃ」


それだけ言って、おじいさんはまた静かに立ち上がり、杖をつきながら出口へ向かった。ソウは見送りながら、レイと目が合った。


レイは何も言わなかった。ただ、うっすら頷いた。



 



閉店作業の途中だった。


フロアの電気を落とし始めたソウが、ふと奥のカウンターを見ると、レイが立ったまま動かずにいた。


「レイさん?」


「……少し待ってください」


ソウの心臓が一拍分だけ早く動いた。


その言葉は、いつも「脱ぎます」の合図だ。


「え、ちょ、何か詰まりましたか。詰まったんですか、何か」


「奥に書類が落ちています。カウンターの壁の向こうに」


「普通に回り込めばよくないですか! ちゃんと扉がありますよね! あそこに!」


「回り込むと余分に三十秒かかります」


「三十秒!」


どさっ、という音がした。


ソウは全力で反対方向を向いた。視界の端だけで、スーツが床に落ちているのが見えた気がした。気がしただけで確認はしていないし、する気はなかった。


「あ、ちょっと待って待って、今日能力使うの止めてたんじゃ」


「書類なので判断しました。この程度の通過であれば影響は最小限かと」


「判断しないでください!」


壁の向こうから「少々お待ちください」という声がした。


いつもは完璧な敬語がこういうときにも出てくるのは、本当にどういう神経をしているのだろうとソウは思った。頭が真っ白になりかけているのを必死でこらえながら、視線をロッカーの隅に固定する。


ずぶっ、という音。


そして何秒かして、「取れました」という声。


どさっ、ではなく今度はさらさらと衣擦れの音がして、「戻りました」と言った。


ソウはゆっくりと振り返った。


レイは完璧なスーツ姿で、A4の書類を一枚持って立っていた。髪の乱れ一本ない。


「…これ、重要な書類でしたか」とソウは聞いた。


「明日の棚卸しの手順表です」


「明日でよかった」


「今日確認しておきたかったので」


「三十秒を惜しんだ結果がこれですか」


「効率的だったと思います」


ソウは深呼吸した。頭の中で何かがぐるぐるしていたが、深呼吸で全部流した。


「……スペアの服、何着持ってるんですか今日」


「四着です」


「一着使いましたね」


「一着使いました」


それだけの会話だった。でもなぜかソウは少し笑いそうになった。世界の岩盤が消えたり丘がなくなったりしている日に、レイが三十秒を惜しんで壁をすり抜けていた。


なんか変じゃない?


でも、それがいまの日常だった。



 



全員が帰り支度を終えたのは夜の九時半ごろ。田所店長が「よく働いた、おつかれ」と言って先に出た。ソウ、ナナ、カイ、テル、ミオ、レイの六人が、バックヤードに少しだけ残った。


誰が言い出したわけでもなかった。


なんとなく、すぐに帰る気になれなかっただけだ。


「今日の昼のニュース」とソウは言った。「オーストラリアの丘」


「見た」とカイが短く答えた。


「誰のせいでもない」


「そう」


「それが、いちばん怖い気がする」


誰も否定しなかった。テルが壁に寄りかかりながら、天井を見上げていた。ナナが自分の指先を見ていた。ミオが静かに立っていた。レイが、書類を制服のポケットにしまいながら、ソウの言葉のあとの間をそのまま残した。


「ここにいるうちは、まだここにいますよ」とミオが言った。


誰に向けた言葉か、ソウには分からなかった。全員に向けていたのかもしれないし、自分に言い聞かせていたのかもしれない。


「………そうですね」とソウは言った。


それ以上はなかった。


六人は無言のまま、モールの裏口から出た。秋の夜気が少しだけ冷たくて、空を見上げたら星が出ていた。


ソウはしばらく空を見ていた。


星の数が、昨日より少ない気がした。


気のせいかもしれない。


でも最近、「気のせい」がだんだん正解になっていく。



 



翌朝。


ソウがモールに着くと、入口の自動ドアのそばに張り紙があった。


「当施設内に設置されておりました案内板(北側壁面)が、昨夜より行方不明となっております。心当たりのある方はインフォメーションまでご連絡ください」


壁に埋まっていた案内板が、消えた。


ソウはその張り紙を、しばらく眺めた。


「…なんか変じゃない?」


返事はなかった。まだ誰も来ていなかったから。


ソウは一人でバックヤードに入り、ロッカーを開け、制服に着替えた。


今日も、何かが少しだけ消えている。


でも今日も、ここで働く。

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