第32話「景色が、溶けていく」
朝、ソウはコンビニで買ったコーヒーを片手に出勤し、シャッターの前で立ち止まった。
いつもと同じ景色のはずだった。
ショッピングモールの入口。タイルの床。柱の影。それらすべてが正しい位置に並んでいる。なのにどこか、薄い。フィルター一枚隔てて見ているような、輪郭がわずかに甘い感覚。
ソウはまばたきをした。
景色は普通に戻った。
「……気のせいか」
小声で言って、コーヒーの蓋を開ける。湯気が上がった。熱い。リアルだ。ちゃんとここにある。
ソウはもう一度だけ、モールの入口を見た。
何もなかった。普通の朝だった。
開店前のバックヤードは、珍しく静かだった。
ミオが奥のテーブルで弁当箱を並べている。昨日の複製品ではない。本物の手料理の匂いが漂っていた。だし巻き卵の甘い香り。ソウが中に入ると、ミオは顔を上げて「おはよう」と言った。目の下に薄くクマがある。
「また早かったですね」とソウは言った。
「目が覚めちゃって」
それだけ言って、ミオは視線を弁当箱に戻した。
ソウはロッカーに荷物を入れながら、昨夜のことを思い出した。ミオが言ったこと。「能力を止めても、もう間に合わないかもしれない」。テルが持ってきた科学誌の記事。景色が透ける、と報告した専門家たちの困惑した顔。
誰の能力も使っていないのに、世界は勝手に崩れ始めていた。
「ミオさん」
ソウは声をかけた。
「今朝、モールの入口を見たとき、ちょっとだけ景色が薄く見えたんです。一瞬だけ。すぐ戻ったんですけど」
ミオの手が止まった。
「どんな感じ?」
「フィルターがかかってるみたいな。輪郭がぼやけてる、みたいな」
ミオはゆっくり息を吐いた。弁当箱の蓋を静かに閉めて、テーブルの上に両手を置いた。
「昨夜ね」とミオは言った。「帰り道に空を見たら、星が二つ重なって見えた。同じ位置に、同じ星が二枚。片方はすぐ消えたけど」
「それって」
「描画のバグみたいなものだと思う」ミオは静かに言った。「世界が自分で、自分を修正しようとして、うまくいかない」
ソウはしばらく何も言えなかった。
ナナが飛び込んできたのは開店三分前だった。
「間に合った!」
息を切らしながら更衣室に直行するナナに、ソウは「能力使ってないよな」と声をかけた。
「使ってない! 普通に走ってきた!」
「なんで毎回ギリギリなんだ」
「それは永遠の謎」
ナナがロッカーをばんと閉める音がした。
カイは五分前には来ていた。珍しい。ソウが「どうした」と聞くと、「なんか今日はちゃんと来ようと思って」と言った。普段の軽さがわずかに欠けていた。
テルはすでにバックヤードの隅のパイプ椅子で目を閉じていた。寝ているのか起きているのか分からない。ソウが「テル、おはよう」と言うと、「おはよ」と即座に返ってきた。起きていた。
レイが来たのは開店一分後だった。
「申し訳ありません、少し手間取りました」
完璧なスーツ姿で、完璧に謝罪した。遅刻ではない。一分だ。でもレイが遅れることは珍しかった。ソウは何かを聞こうとして、やめた。レイの顔が平静すぎて、何かを聞いていいのか判断がつかなかった。
午前中は平穏だった。
客が来て、プランの説明をして、手続きをして、帰っていく。いつも通りの携帯ショップの朝。ソウは接客をしながら、何度か窓の外の景色を確認した。溶けていない。透けていない。普通の商業施設の廊下が広がっている。
十一時頃、常連のおじいさんが来た。
「はい、いらっしゃいませ」
ソウが顔を上げると、白髪のおじいさんがゆったりとした足取りでカウンターに近づいてきた。今日はいつもより少し時間が早い。
「また来てしまいましたよ」とおじいさんは言った。穏やかな声だった。「スマホの音量がまた変わってしまって」
「拝見しますね」
ソウは端末を受け取り、設定を確認した。サイレントモードがオンになっていた。解除する。三十秒の作業だ。
「はい、こちらです。ボタンの切り替えが」
「ああ、そうでしたか」おじいさんは目を細めた。「助かります。こういうのは、わかる人に聞くのが一番ですね」
「いつでもどうぞ」
おじいさんは端末を受け取りながら、カウンター越しにソウの顔をじっと見た。いつものことだった。でも今日は少し長い気がした。
「若い人は」とおじいさんは言った。「こういうお店に来て、何を売っていると思いますか」
ソウは少し考えた。
「通信の手段、ですかね。繋がるための道具」
「繋がる」おじいさんはその言葉を繰り返した。「そうですね。繋がっているというのは、どちらかが在り続けるということですから」
ソウはうまく返せなかった。
「まあ、失礼しました。歳をとると変なことを言いたくなってね」
おじいさんはまた穏やかに笑って、ゆっくりと席を立った。
「また来ます」
「お待ちしてます」
ソウはおじいさんが廊下の奥に消えていくのを見送って、カウンターの上に手を置いた。
繋がっているというのは、どちらかが在り続けるということ。
……なんか変じゃない?
いや、変というより。ずっと変だった。あのおじいさんは最初から。
昼休憩に全員が集まった。
ミオの弁当は六人分あった。玉子焼きとひじきの煮物とごはん。全部本物。食べながら、ナナが「おいしい」と言って、カイが「毎日食わせてほしい」と言った。ミオは「作れるよ」と言って、テルが「本当に」と言った。
普通の会話だった。
ソウはそれを聞きながら、飯を食いながら、この時間を記憶に焼き付けようとしていることに気づいて、止めた。止めようとして、やっぱり見てしまった。
ミオが玉子焼きを切り分けている横顔。ナナが箸を落として「あ」と言う声。カイが自分の弁当の量に不満を言いつつ全部食べている背中。テルがパイプ椅子に半分もたれながら食べている様子。レイが行儀よく、でも確実に食べているのを、横目でちゃんと見ているミオ。
「ソウ」とナナが言った。「どうかした?」
「なんでもない」
「顔が変だよ」
「変?」
「なんか、しみじみしてる」
ソウは笑った。本当に笑えた。
「しみじみしてる歳でもないか」
「変な人」とナナは言って、またごはんを食べた。
レイがそれをちらと見ていた。
午後、バックヤードでテルがタブレットを広げていた。
ソウが覗くと、ニュースの画面だった。
「また何かあった?」
「うん」テルは画面をソウに向けた。「イタリアで、教会の壁画が半日だけ消えた」
ソウは記事を読んだ。フィレンツェの礼拝堂。四百年前のフレスコ画が、朝には消えていて、夕方には戻っていた。学芸員が証言している。カメラの映像では、壁が白い。でも翌朝には元通りだった。
「これは誰の能力でもないよな」とソウは言った。
「誰も使ってない」テルは静かに言った。「昨日も今日も、みんな封印してた。ぼくも、信号すら変えてない」
「……じゃあ」
「世界が勝手にやってる」
テルはタブレットを閉じた。
「ねえソウ、ひとつ聞いていい」
「うん」
「もし能力を手放した後で、ぼくたちが普通の人間になれたとして」テルは天井を見た。「記憶って残ると思う?こういうこと全部、覚えてると思う?」
ソウは少し考えた。
「残ると思う」
「根拠は?」
「ミオさんが千年覚えてるから」
テルはそれを聞いて、小さく笑った。
「たしかに」
それきり黙った。ソウも黙った。バックヤードの換気扇が回る音だけがしていた。
夕方、レイが倉庫の棚の整理をしていた。
ソウが補充の端末を持って入ると、レイは高い棚の前に立って、台を使わずに上段のケースを確認していた。背が高い。それでも少し背伸びしている。
「手伝います」とソウは言った。
「少し待ってください」
ソウは瞬時に固まった。
その言葉を聞くたびに、条件反射で身構えるようになっていた。待ってください、の次は服が落ちる音がする。そして壁をすり抜けていく。そういう流れだ。
どこを向けばいい。ソウは頭の中で素早く計算した。右の壁。左の棚。天井。床。全部選択肢に入れる。
しかしレイは、台を引き寄せて上に乗り、普通に棚の上段を確認し始めた。
「このケースをひとつ下ろしてもらえますか」
普通に言った。
ソウはゆっくりと力を抜いた。
「あ、はい」
ケースを受け取った。重かった。
「……能力、使わないんですね」とソウはつい言った。
「今は使いません」
「そうですよね」
「でも」とレイは言った。台の上から降りながら、まっすぐソウを見た。「少し待ってください、と言うたびに身構えるのは、やめなくていいですよ」
「え」
「条件反射は正しい。私の仕様は変わっていないので」
レイは端末ケースをソウの手から受け取り、そのまま棚に収め始めた。
「使わないだけで、できなくなったわけではないので」
ソウはその背中を見た。完璧なスーツ。まっすぐな背筋。スペアの服が入っているらしい鞄が、棚の下にある。
……このひとは今、何かを失いかけているのに、それを表情に出していない。
「レイさん」
「はい」
「怖くないですか」
レイは手を止めた。
しばらく棚の前に立ったまま、何も言わなかった。換気扇の音がする。遠くでナナが何かを落とした音がした。
「怖いという感覚が、私にあるかどうか」レイはゆっくり言った。「正確には分かりません。でも今、胸のあたりに何かが詰まっている感じはあります」
「それが怖いだと思います」
「そうですか」
レイは棚の整理を続けた。
「では、怖いんだと思います」
それだけ言って、もう振り返らなかった。ソウは補充の端末を棚に並べながら、その横に並んで立った。二人で黙って作業をした。それで十分だった。
閉店後、六人がバックヤードに残った。
いつものことのようで、毎回少し密度が違う。今日はみんな、席につく前に一瞬だけ止まった。どこに座るか考えるみたいに。
ミオが言った。
「今日、出かけに空を見たら」
みんなが顔を上げた。
「向こうの空と、こっちの空の色が、三秒だけ逆になった。夕焼けが東から来た」
誰も笑わなかった。
カイが低い声で言った。「それ、ぼくの能力でもない」
「そう」
「じゃあ何が」
ミオは答えなかった。テーブルの上に手を置いて、ゆっくり呼吸した。
「できることから考えましょう」とレイが言った。「能力の封印は続ける。それが正しいかどうかにかかわらず、今できる最善はそれです」
ナナが「うん」と言った。カイが頷いた。テルは目を閉じたまま「そうだね」と言った。
ソウはみんなの顔を見た。
怖がっている。全員。それでも席に座っている。座って、ミオの弁当箱が並んでいたテーブルを囲んでいる。
「明日も来ますよね」とソウは言った。
誰に言ったわけでもなかった。
ナナが「来るよ」と言った。カイが「当然」と言った。テルが「来る」と言った。レイが「もちろんです」と言った。ミオが、一番最後に「います」と言った。
ソウは頷いた。
「じゃあ明日、ミオさんの弁当食べながら考えましょう」
ミオが笑った。力が抜けたような、でも本物の笑いだった。
「作ってくる」
帰り道、ソウはひとりでモールの外に出た。
夜の空は青黒く、星がいくつか見えた。
ソウはしばらく空を見た。
三秒、数えた。夕焼けは来なかった。星は重ならなかった。景色は溶けなかった。
普通の夜空だった。
「……気のせいか」
言って、歩き出した。
その背後、閉まりきったシャッターの向こうで、バックヤードの明かりがまだついていた。ミオが最後に電気を消すのだろう。いつもそうだ。千年そうしてきたように、今夜もそうする。
ソウはスマホを取り出した。ニュースのアプリを開いた。
一番上の記事を見た。
「世界六ヶ所で同時に、夕焼けの方角が逆転。気象学者困惑」
ソウはしばらく画面を見つめた。
アプリを閉じた。
ポケットに手を入れて、歩いた。
明日、みんなに言う。それだけ決めた。




