第30話「それでも、朝はくる」
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翌朝、バックヤードの電気をつけたのはソウだった。
誰よりも早く来たのは初めてかもしれない。特に意味はない。ただ、昨夜からずっと眠れなかっただけだ。
ナナの「怖い」という声が、耳に貼りついて取れなかった。
「…気のせいか」
独り言を言いながらソウはロッカーを開け、エプロンを手に取った。自分でも何が気のせいなのかよくわかっていない。ただ口から出た。
ニュースは見た。踏切の異常が複数個所で同時発生しているという話。ナナの能力でも、誰かの能力でもない場所で、時間に穴が開いている。
(これ、なんか変じゃない?)
「うん、変だよ」
ソウは声に出して答えた。誰もいないバックヤードに向かって。
八時半。開店十五分前にナナが飛び込んできた。
「間に合った!」
息を切らして、頬が真っ赤だ。
「ナナさん、普通に来れたの?」
「うん!ちゃんと電車乗ってきた。踏切も、今日は普通に下りてたし」
ほっとした顔をしている。子どもみたいにわかりやすい。ソウはつられて少し息を吐いた。
「よかった」
「うん」
ナナはロッカーを開けながら、ちらっとこちらを見た。
「神崎さん、早いね。今日」
「眠れなくて」
「あ、わたしも。なんか、いろいろ考えてたら」
「ナナさんが眠れないって珍しいな」
ナナは少し笑った。困ったような笑いだった。
「眠れなかったんだけど、朝になったらちょっとだけ落ち着いた。なんでだろ」
「朝って、そういうもんじゃない」
「そういうもの?」
「なんか、暗い中で考えてると、でかく見えるじゃないですか、問題が。明るくなったら少しだけちっちゃくなる」
「……神崎さん、それ、昨日も眠れなかった人の顔してる」
「してる?」
「してる」
二人ともしばらく黙った。それがなぜか不快じゃなかった。
九時ちょうど。レイが来た。
いつもと同じ完璧なスーツ、いつもと同じ表情、いつもと同じ歩幅。何も変わっていないように見える。
「おはようございます」
「おはようございます、レイさん」
「昨夜は眠れましたか」
問いながら棚のデジタル時計を確認している。業務の一環みたいな聞き方だった。
「眠れてないです」
「そうですか」
「レイさんは?」
レイは少し間を置いた。
「三時間ほど」
「それ眠れてないの?」
「私の必要量は二時間なので、十分です」
「…なんか変じゃない、その体」
「仕様です」
言い切って、レイは売り場に出た。ソウはその背中を見ながら、変なことに気づいた。
今日のレイはいつもよりわずかに歩幅が狭い。ほんの少しだけ。言わなければ誰も気づかないくらい。
(気のせいかな)
気のせいじゃない気がした。
十時過ぎ。カイとテルが一緒に来た。珍しい組み合わせだ。
「なんで二人で来てるの」
「電車で鉢合わせた」とカイが言った。
「偶然」とテルが言った。
「偶然なんだ」
「確率で言うと低くはない」
「どのくらい」
「うーん」テルは少し考えた。「まあ、低くはない」
「それしか言えないじゃん」
カイはソウの肩をばしっと叩いた。
「ソウ、お前顔色わるいな」
「眠れなかった」
「俺も」カイが言った。「というかあんなこと聞かされて眠れるわけないだろ。普通に腹立つ」
「誰に?」
「……誰にもじゃないけど」
カイは少し口を曲げた。腹を立てたいのに立てる相手がいない。そういう顔をしている。
テルはその隣でふかあくびをした。
「テルさん眠れた?」
「まあまあ。考えすぎても仕方ないし」
「考えなかったの?」
「考えたよ。でも、考えても今日は変わらないから。考えるなら情報が揃ってから」
「達観してるな」
「そう?」テルは首をかしげた。「ただ、今日の自分にできることをすればいいと思って」
カイが「お前それ強がってるだろ」と言った。
テルは「強がってるかもね」と言った。否定しなかった。
ミオが来たのは開店から三十分ほど経ったころ。
バックヤードに入ってきたミオの手には、いつも通りタッパーがあった。
「おはよう。今日はね、昨日より多めに作ってきたから」
テーブルに並べながら、ミオはさらっと言った。弁当の数は、ちゃんと五人分ある。
「ミオさん」
「なあに」
「複製じゃなくて?」
「うん。昨日の夜、作ったよ。本物」
ミオは笑った。ふだんの「複製弁当お裾分け」のときとは少し違う笑い方。少しだけ、照れくさそうな笑い方。
「なんで」
「昨日みんなにいっぱい心配かけたから。できることくらいしとこうと思って」
カイが「……べつに心配してないし」と言いながら弁当を受け取った。受け取る手が早かった。
ナナは素直に「ありがとうございます!」と言って蓋を開けた。
レイは「いただきます」と静かに言った。
テルは「やば、うまそう」と言いながら箸を持った。
ソウは受け取って、少しだけ黙った。
「ミオさん、昨夜何時に作ってたの、これ」
「うーん、二時ごろ?」
「眠れなかったんじゃないですか」
「そうね」ミオは自分のぶんを取りながら言った。「でも、手を動かしてたら落ち着いてきた。不思議ね」
「落ち着いた?」
「うん。なんか、目の前のことをやってると、頭がひとつのことに集中してくれて」
ソウはそれを聞きながら、弁当を開けた。卵焼きがあった。甘い匂いがした。
「…ミオさん、ずっと一人で知ってたんですよね」
「そうね」
「千年くらい」
「だいたいそのくらい」
「それって」ソウは少し言葉を選んだ。「しんどくなかった?」
ミオは箸を持ったまま、ちょっと上を向いた。
「しんどかったけど、この子たちと一緒にいたかったからかな。知ってしまったら、終わりに近づく気がして」
「でも話してくれた」
「神崎くんが聞いてくれたから」
「俺が聞いたから?」
「うん。あなたが聞いてくれると、なんか、答えられる気がした。なんでかはわかんないけど」
ソウは少し黙った。
(なんか変じゃない、それ)
変じゃなかった。なんとなく、わかった。
昼過ぎ。客足が落ちついたタイミングで、謎のおじいさんが来た。
毎週来る。スマホの使い方を聞く。毎回同じことを聞く。
「また来たよ。ワシ」
「いらっしゃいませ」
ソウが対応に出た。今日は何を聞くんだろう、と思いながら。
おじいさんは端末を取り出した。去年のモデルだ。少し古い。
「これ、なんか最近、重うなった気がするんじゃが」
「端末が重くなった?」
「うん。データか何かが増えとるんかな」
「確認しますね」
ソウが受け取って確認した。特に問題はない。容量も、動作も、普通だ。
「データはそんなに増えてないですね。問題ないと思いますよ」
「そうか」おじいさんは端末を受け取りながら、ソウをじっと見た。
いつも思う。このおじいさんの目は、なんか変だ。聞いていることより、ずっと深いところを見ている感じがする。
「最近、変なニュースが多いのう」
「ですね」
「気になるか?」
「…少し」
「気のせいにしておかんほうがええ」
おじいさんはそう言って、少し微笑んだ。昨日も同じことを言った。
「気のせいにしとかんほうがええっていうのは、どういう意味ですか」
ソウは直接聞いてみた。
おじいさんは少し間を置いた。
「気になっとるのに気のせいにするのは、自分の目を閉じることじゃろ」
「目を閉じたら?」
「見えなくなる」
「見えなくなったら?」
「気づくのが遅くなる」
「何に」
おじいさんはまた少し笑った。
「それはまだ、あんたが自分で見つけることじゃな」
そう言って、帰った。
ソウは見送りながら、首の後ろがじわっとした。毎回こうだ。毎回、聞いてもわからない。でも毎回、何かが引っかかる。
夕方。レイがバックヤードに引っ込んだタイミングで、ソウも手が空いた。
何気なく覗こうとした。
「少し待ってください」
レイの声がした。
「……あ、はい」
ソウは止まった。わかっている。この声のトーン、このタイミング。
布が落ちる音がした。
どさっ。
続いて、ずぶっという奇妙な音。壁の中に何かが入っていく音。
しばらくして、壁の向こうからレイの声が聞こえた。
「入ってきていいですよ」
ソウはバックヤードの戸を開けた。
壁の前にスーツがきれいに畳んで置いてある。その横に、別のスーツが整然とスタンバイしている。スペアだ。いつも五セット持ち歩いている。
レイが壁の向こうから歩いてきた。というか、壁からずぶりと出てきた。
すでにスペアを着ている。
ソウは視線を天井に向けながら言った。
「何してたんですか」
「ロッカーの鍵を閉め忘れました。向こうの部屋に置いてきてしまったので」
「鍵のために…」
「普通に取りに行くと売り場を通らなければなりません。少し混んでいたので」
「…抜けたら世界がどこか消えるってわかってるのに」
「……」
レイは少し沈黙した。それから言った。
「習慣で、動いてしまいました」
習慣。その言葉が妙に響いた。
「レイさん」
「はい」
「怖い?」
「何が」
「能力、使えなくなること」
レイはスペアのスーツの襟を整えながら、少し間を置いた。
「怖いかどうか、まだわかりません」
「わからない?」
「使えなくなった私が、どういう私なのかを想像する材料が足りていないので」
「材料」
「私はずっと、この能力と一緒に存在してきた。それが前提だった。前提がなくなった自分を、うまく想像できない」
「…そっか」
「ただ」レイは続けた。「怖いとは別に、思っていることがあります」
「何を」
「使えなくなっても、ここには来られますか」
ソウはすぐに答えた。
「来られますよ」
「そうですか」
「田所さんが雇ってますし」
「田所さんに聞いたわけではありません」
「……俺に聞いてるの?」
「そうです」
ソウは少し黙って、それから言った。
「来てください。来てほしい」
レイはソウを見た。いつもと同じ顔だ。でもソウには、そのわずかな間が、少しだけ普通の人間っぽく見えた。
「わかりました」
閉店後。全員でロールシャッターを下ろす。
テルが「今日もなんか変なニュース出てた?」と言った。
ソウはスマホを確認した。
【速報】静岡県沖に観測史上例のない海面の隆起。直径約三百メートル、高さ二メートルの丘状地形が一時間で形成。原因不明。
「……出てた」
「どこ」
「静岡沖に海面が盛り上がった」
「盛り上がった?」
「島が出てきたとかじゃなくて、海面が丘みたいになってるって」
みんながスマホを覗き込んだ。カイが「重力か?」と言った。「俺のせいか?」
「カイ、今日能力使った?」
「使ってない。使ってない、本当に」
テルが「じゃあ俺たちのせいじゃない」と言った。
「じゃあ何が」
誰も答えられなかった。
ミオが静かに言った。
「……世界が、自分でおかしくなり始めているとしたら」
「能力と関係なく?」
「そう」
「それって、止められないじゃないですか」
ミオはゆっくりうなずいた。
「そうね」
沈黙が降りた。シャッターの外で、車が一台通り過ぎた。
ソウはスマホを見ながら思った。
能力をやめれば世界への干渉は止まる、とレイが言っていた。それは正しいかもしれない。でもその前提に、もうひとつ別の何かが動き始めているとしたら。
(気のせいか)
ナナが言った。
「……怖いけど」
「うん」
「でも、今日、朝来たら少し落ち着いたんだよ。さっきも神崎さんに言ったけど」
「言ってた」
「だからたぶん」ナナは続けた。「明日もとりあえず、朝は来ると思う」
「来るでしょ、朝は」
「うん。来るよね」
ばかみたいな会話だった。でも誰も笑わなかった。否定もしなかった。
テルが「じゃあ帰ろう」と言って立ち上がった。
カイが「飯どっか行こうぜ」と言った。
ミオが「いいね、私も行く」と言った。
レイが「少し付き合います」と言った。
ソウは最後にシャッターの鍵を確認して、振り返った。
謎のおじいさんの言葉が、また頭をよぎった。
気のせいにしておかんほうがええ。
(わかってる)
ソウは鍵をポケットに入れて、みんなの後を追った。
静岡沖の海面は、翌朝のニュースでは「自然に収まった」と報じられた。原因は依然、不明のままだった。
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