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アップデートしてください。〜うちのバイト先、なんか変な人しかいないんですけど〜  作者: ハル
このバイト先、なんか変じゃない?

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第29話「昨日のこと、覚えてる?」

ナナの「昨日の——」という言葉は、弁当箱のフタが閉まる音に掻き消された。


 掻き消した本人であるカイは自分が何をしたのか気づいていない様子で、「この卵焼き、甘さが昨日と微妙に違う気がする」などとのたまっていた。


「ミオさん、これ複製? それとも本物?」


「今日のは本物」とミオは言った。「複製は……しばらくやめようと思って」


 カイが箸を止める。


 ミオはそれ以上なにも言わなかった。


 ソウはナナのほうを見た。ナナは「あ、えっと」と口を開きかけて、また閉じた。何かを飲み込んだような顔だった。


「ナナ」とソウは声をかけた。「さっき何か言いかけてなかった?」


「えっ、あ、うん——」


 ナナはテーブルの端を指先でとんとんと叩いた。癖だ。考えがまとまっていないときの。


「昨日の、ことなんだけど」


 バックヤードが少し静かになった。


「昨日のシフト終わって、帰り道でさ」とナナは続けた。「なんか、変なことがあって」


「変なこと」とレイが繰り返した。反応が速い。


「うん。駅に向かってて、踏切の前で止まったんだよね。電車を待ってたら——」ナナは少し眉をひそめた。「気づいたら、踏切が上がってた。遮断機、いつ下りたっけ、って思って。電車、来た記憶がなくて」


 ソウは箸を置いた。


「電車が通った音、聞こえなかった?」


「それが——」


 ナナは首を振った。


「聞こえなかった。静かだったし、人もいなかった。踏切の向こうから自転車のおばさんが来てたけど、その人も一瞬キョトンとしてた。なんか、みんな一緒に『あれ?』ってなってた感じで」


 テルが弁当の最後の一口を食べながら、静かに言った。


「昨日、能力は使った?」


「使ってない」とナナはすぐ答えた。「昨日はシフト前から使わないって決めてたから。絶対に」


 ソウの頭の中で何かが繋がろうとした。繋がる手前で止まった。


「……なんか変じゃない?」と思わず口に出した。


「変だよ」とカイが珍しく真面目な声で言った。「ナナが使ってないのに、時間がおかしくなったってこと?」


「そういうこと、だよね」とナナは言った。少し怖そうな顔だった。「私じゃない原因で、何かがおかしくなってる、ってこと」


 全員がミオを見た。


 ミオは弁当箱のフタをゆっくり閉めながら、「そうかもしれない」と言った。


「世界が自分でおかしくなり始めてる、ってこと?」とソウは聞いた。


「私にも、まだわからない」とミオは答えた。


 その「まだ」という一言がソウには重かった。「わからない」じゃなくて「まだわからない」。調べている、ということだ。あるいは調べようとしている、ということだ。


 それはつまり、能力の使用をやめるだけでは足りないかもしれない、という話に近い。


 バックヤードの壁掛け時計が午後三時を示した。


 午後のシフトが始まる。



 



 客は少なかった。


 火曜日の午後は元々そういうものだ、とソウは接客しながら思う。月曜の活気も金曜の浮足立った感じもなく、ただ時間が淡々と流れていく。


 カウンターのひとつ向こうでレイが書類を捌いている。


 昨日と変わらない光景だ。でも昨日とは少し違う。レイの手元が、いつもより丁寧な気がした。書類を浮かせていない。棚の引き出しも手で開けている。


 能力を使っていない、ということが一目でわかった。


 カイはカウンター奥の端末操作をしながら、ひとつも重力を弄っていない。マニュアル通りに、手で、普通に操作している。


 テルはロビーのソファで少しウトウトしていたが、自販機のジュースを当てていなかった。百円入れて、普通に外れていた。外れたジュースのボタンをじーっと見てから、「……まあ、なるようになる」と言って炭酸水を買い直していた。


 全員が、普通にやろうとしていた。


 その一生懸命さが、ソウには少しだけつらかった。


「神崎くん、七番のお客様」とレイが声をかけた。


「あ、はい」


 ソウは気持ちを切り替えて、カウンターに向かった。



 



 夕方になって、謎のおじいさんが来た。


 田所店長の表情が「またか」と「ありがとうございます」を同時に表していた。


「先週教えてもらった動画の見方なんじゃが」とおじいさんは言った。「見られんくなってしもうて」


「どのアプリでしょうか」とソウは聞いた。


「あれじゃよ、赤いやつ」


「YouTubeですね」


 ソウはおじいさんのスマホを受け取って、確認した。アプリが落ちているわけでも、設定が変わっているわけでもない。ただ、画面の輝度が最低になっていた。


「見えなかっただけみたいです。明るさをここで調整すると」


「おお」とおじいさんは言った。本当に嬉しそうな顔をした。「そうか、そうか。若いものはすぐわかるのう」


「慣れればすぐわかりますよ」


「慣れる、のう」とおじいさんは繰り返した。なぜかその言葉を味わうように。「慣れる、か」


 おじいさんはソウの顔をしばらく見た。


 ソウは少し落ち着かない気持ちになった。見られているというより、何かを確かめられているような感じがした。


「最近、ニュースを見ておるか」とおじいさんは言った。


「一応は」


「どんなことが流れておる」


 ソウは少し考えた。


「えーと……九州で空の色が変だったとか、長野で方位磁石が逆転してるとか。あとは……どこかの踏切で、何人かが同時に記憶を飛ばしたとか」


 最後の一言を言ってから、ソウははっとした。


 昨日のナナの話だ。ニュースになっていたのか。


「気になっておるか」とおじいさんは言った。


「……少し」


「そうか」


 おじいさんはスマホを受け取って、画面の明るさを一度確認した。それからゆっくりとカウンターを離れながら、振り返りもせずに言った。


「気のせいにしておかんほうがええかもしれんのう」


 ソウが返事をする間もなく、おじいさんは出口を出ていった。


 ガラスドアが閉まる。


 ソウはしばらくそのドアを見ていた。


「……気のせいか」と口から出た。


 でも今回は、自分でもそれが嘘だとわかった。



 



「踏切の話、ニュースになってたよ」


 閉店後、片付けをしながらソウはナナに言った。


 ナナの手が止まった。


「え」


「さっき常連のおじいさんが来て、なんとなく最近のニュースの話になって。気になって調べたら、昨日の——たぶん昨日の夕方、複数の踏切で同時に、利用者の数人が電車の通過を認識していなかった、っていう報告があって」


「それ、私の踏切も入ってる?」


「地名が一致してた」


 ナナはカウンターに両手をついた。


「私、能力、使ってないよ」


「わかってる」


「本当に使ってないの。帰り道で時間が足りなくなりそうって思ったけど、それでも使わなかったの。だから絶対に——」


「ナナ」


 ソウはナナの言葉を遮った。


「誰もナナのせいだとは言ってない」


 ナナは口を閉じた。少しの間、目の端が赤かった。


「怖い」とナナは言った。小さい声だった。「私が使ってないのに、同じことが起きてるって、それって——」


「やめても、もう追いつかない、ってこと?」


 ナナは答えなかった。


 ソウは答えが返ってこないことが答えだと思った。


 バックヤードの奥でレイが書類の整理を続けている音がした。カイはすでに帰っていた。テルはロビーのソファで体を丸めている。


「ミオさんに話す?」とソウは言った。


「……うん」とナナは言った。「話す。でも」


「でも?」


「ミオさん、今日すごく疲れてる顔してた。私、気づいてた。だから——」


「明日でいい」とソウは言った。「今日は早く帰って寝なよ」


 ナナは一瞬だけソウの顔を見て、それから頷いた。



 



 全員が帰った後、ソウは一人でロビーの椅子に座っていた。


 田所店長は「鍵閉めといてくれ」と言い残して先に上がっていた。信頼されているのか、雑なのか、たぶんその両方だ。


 スマホで昨日のニュースをもう一度確認した。


 踏切の話。


 長野の磁石の話。


 九州の空の話。


 それから——三週間前のニュースをさかのぼった。ペルー沖の島が消えた話。富士山が三メートル低くなった話。東京の一部地区で記憶のない住民が続出した話。


 全部、繋がっている気がしていた。


 でも昨日の踏切は、ナナが能力を使っていない。


 それが怖かった。


「……なんか変じゃない?」


 誰もいないロビーでソウは言った。


 店内の照明が半分落ちている。スマホの画面だけが明るかった。


 おじいさんの言葉が耳に残っていた。


 「気のせいにしておかんほうがええかもしれんのう」。


 ソウはスマホをポケットに入れて、天井を見上げた。白い天井。何の変哲もない。


 世界は今もここに、ある。


 当たり前に、ある。


 でも当たり前のものが、少しずつ欠けていっているのだとしたら。


 それを誰が止めるのか。


 アップデートたちが能力をやめても止まらないなら、いったい何が——


 バックヤードのドアが開く音がした。


「神崎くん」


 レイだった。コートを腕にかけていた。帰り支度が済んでいる。


「まだいたんですか」とソウは言った。


「書類の整理が終わりませんでした」とレイは答えた。「あなたこそ」


「ちょっと考えてた」


 レイはロビーに入ってきて、ソウの向かいのソファに腰をかけた。


 しばらく沈黙があった。


「踏切のニュース」とレイは言った。「見ましたか」


「見た。ナナにも話した」


「ナナが能力を使っていないのは確認しました」


「確認したんだ」


「直接聞きました。夕方のうちに」


 ソウはレイを見た。


「レイさん、どう思う」


「正直に言います」とレイは言った。「私たちが能力の使用をやめることに意味がなくなってきているかもしれない、と思っています」


「世界が自分でおかしくなってる?」


「正確には——私たちの干渉が、世界の自己修復力を超えてしまった、という可能性です。もし世界が自力で安定を取り戻せなくなっているなら、私たちがやめるだけでは足りない」


「じゃあ、何が必要なの」


 レイは少しの間、黙っていた。


「ミオが知っているかもしれない」とレイは言った。「明日、全員で話しましょう」


「昨日も全員で話したけど」


「今日また状況が変わりました」とレイは言った。「情報を更新しなければ判断が狂います。最新の状態で考えないといけない」


 ソウは頷いた。


 レイが立ち上がった。コートを肩にかけながら、珍しく少し迷うような間があった。


「神崎くん」


「うん」


「あなたは——怖くないですか」


 ソウは少し考えた。


「怖い」と正直に答えた。「でもなんか、逃げる感じがしない。気のせいかもしれないけど」


 レイはソウの顔を一秒ほど見た。それから、ほんの少しだけ口元が動いた。微笑んだのかもしれなかった。


「……少し待ってください」


 ソウは背筋が伸びた。


「え、待って、今? ここで?」


「抜け道を確認しておきたいだけです。この建物の裏側の構造が気になっています」


「気になるのはわかるんですけど、確認って——」


 どさっ、という音がした。


 レイのコートとスーツが、床の上に綺麗な形で落ちた。


「ちょ——」


「すぐ戻ります」


 ソウは視線を全力で天井に固定した。白い天井だった。三週間前から何も変わっていない天井だった。今この瞬間だけ、この天井が世界で一番重要な場所だった。


 壁の向こうから、静かな足音が聞こえた。


「……構造はシンプルですね。非常口は二つ。問題ありません」


 壁の中から声がした。


「よ、よかったね」とソウは天井に向かって言った。


 どさっ、という音がまた聞こえた。服が落ちる音ではなく、服を拾い上げる音だった。


 ソウは目の置き場が分からないまま、ゆっくりとカウンターの端末のほうに体を向けた。背中を向けた、とも言う。


 一分後、レイがコートを着てソウの横に並んだ。


「お待たせしました」


「……ひとつ聞いていい?」


「どうぞ」


「今のって、世界のどこかに影響が出た?」


「おそらく」とレイは答えた。「ただ、緊急の確認でした」


「緊急」


「明日、全員で話すために、脱出経路を把握しておきたかった」


「脱出?」


 レイはそれには答えなかった。


「お疲れ様でした」とだけ言って、出口に向かった。


 ガラスドアが開いて、夜の空気が少し入ってきた。


 ソウは一人、ロビーに残った。


 スマホがバイブした。ニュースアプリの通知だった。


 画面を確認すると、速報だった。


 「北海道・日高沖にて謎の磁場異常を観測。専門家『原因は不明』」。


 ソウはその通知を一秒見てから、ロックボタンを押した。


「……明日、全部話そう」


 独り言だった。


 それでも声に出さずにはいられなかった。


 電気を消して、鍵をかけた。

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