第28話「やめる、って、どういうこと」
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沈黙が、妙に長かった。
バックヤードの蛍光灯がひとつ、ちかちかと瞬いている。誰も直しに行かない。
ソウは六人の顔を、順番に見た。
カイは腕を組んで壁に背中を預け、床のタイルを睨んでいる。ナナは両手を膝の上に置いて、指先だけをもじもじと動かしていた。テルはパイプ椅子の上で体育座りをして、膝に顎を乗せている。眠っているのか起きているのかわからない顔で、でも目だけはうっすら開いていた。
レイは立ったまま、ロッカーに片手を添えて、どこか遠くを見ていた。
ミオは、座っていなかった。いつもは誰かの隣に割り込んで、気づいたら弁当を配り始めるミオが、今日はバックヤードの一番奥、流しの横に立ったまま、両手で自分の肘を抱いていた。
「やめる」
最初に口を開いたのは、カイだった。
「やめる、ってどういうことだよ」
声のトーンは低い。怒っているわけじゃない。ただ、言葉の意味を咀嚼しきれていない感じがした。
「能力を使わなければ、世界は今以上に壊れない」
レイが静かに言う。
「それは、ソウから聞いた話ね。だから、今後は使わない。ということ」
「簡単に言うな」
カイが顔を上げた。
「簡単に言ってるのか?」
「……ごめんなさい」
レイが少し黙った。それが謝罪だとわかるくらいには、彼女の声は普段と違った。
ソウは何も言えなかった。言えるわけがない。俺はNPCで、消えないし、消えるリスクもない。ただ「やめたほうがいい」という結論だけを持ってきた側の人間だ。
「聞いていいか」
ナナが、細い声で言った。
「やめたら、わたし……普通の人になるの?」
ミオが、初めて口を開いた。
「わからない」
「わからない、って」
「千年、ずっとそうだったから」ミオはゆっくりと首を振った。「やめた仲間を、私は知らない。みんな……使い続けながら、消えていったから」
ナナがゆっくりと息を吸い込んだ。
「使わなかったら消えないの?」
「わからない」
「消えるの?」
「……わからない」
ミオの「わからない」は、三回とも、少しずつ色が違った。ソウにはそれが、全部本当のことに聞こえた。
「ちょっと待ってください」
レイが、ロッカーから手を離した。
「整理します」
全員がレイを見る。
「能力の使用をやめれば、世界への干渉は止まる。これはソウとの会話から、私も妥当だと判断しています」
「ああ」とカイが頷く。
「能力を使わなかった場合、私たちがどうなるかはわからない。これはミオも把握していない」
「ええ」とミオが言う。
「つまり、やめることのリスクは不明。続けることのリスクは、世界が壊れる」
「……そういうこと」
「なら」
レイは一拍置いた。
「議論の余地はない気がしますが」
カイが「いや」と低く言った。
「レイ、お前はそれでいいのか」
「よくはないです」
はっきりと、レイは言った。
「よくないけど、それが正しいという話をしています」
カイは何も言わなかった。
ソウは、カイの顔を見ていた。ナルシストで、チャラくて、「重力すら俺には従う」が口癖の男が、今は子どもみたいな顔をしていた。
テルが、膝から顎を離した。
「なあ」
眠そうな声だった。
「俺さ、自販機の当たりとじゃんけんと信号しかできないじゃん」
「そうね」とレイが答える。
「それすら、やめんの?」
「……」
「べつに、コインの表裏が並んだって、信号がちょっと長く青でも、誰も傷つかないじゃん」
「確率論が崩壊する」とレイが言う。
「でもそれって、誰かが気づく?」
「気づかなくても、崩壊は崩壊です」
テルは、ぼんやりとした顔で少し考えた。
「まあ、そうか」
それだけ言って、また膝に顎を戻した。
ソウには、テルが怒っているようには見えなかった。ただ、確認したかっただけだ、という感じがした。
「俺、正直に言っていいか」
ソウが口を開くと、全員がこちらを向いた。
「俺はここにいる人間の中で、唯一消えないやつで、唯一失うものがないやつで、だからこそ言いにくいんだけど」
「言え」とカイが促した。
「ありがとう、って言いたかった」
カイが眉をひそめた。
「何が?」
「今まで、ここで一緒に働いてた時間」
ソウは少し俯いた。
「俺は、ここのバイトが好きで。みんなのこと、変な人だとは思ってたけど……なんか、居心地よかった。俺の周りにこんな人たち、いなかったから」
「なにそれ」ナナが、鼻をすすった。「急に。びっくりする」
「だから、もしやめることで何かが変わるとしても、俺はここにいるから。変わった後でも、俺はここにいるから」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。
ソウはそういうことを言い慣れていない。
「……神崎くんって」カイが頭をかいた。「なんかたまに、恥ずかしいこと普通の顔で言うよな」
「ほっとけ」
「でも、まあ……そうか」
カイは腕を解いて、壁から背中を離した。
「俺も、ここ嫌いじゃないしな」
ミオが、ふっと笑った。
こじんまりした、静かな笑い方だった。ミオの笑い方は、いつもそうだ。大声で笑うことが、あまりない。
「ほら、お昼食べよう」
「え、今そういう空気じゃない」とナナが言う。
「そういう空気のときほど、ご飯が必要なの」
ミオはエコバッグを開いた。中から、弁当箱が五つ出てきた。
「今日は唐揚げ。複製だけど、食べ比べたらわからないから」
「手作りのほうが正確なんじゃないか」とカイが言う。
「どっちも私が作ったようなものよ」
「どっちも一から作ってないじゃないですか」とレイが言う。
「……それはそう」
テルがするりとパイプ椅子から降りて、弁当箱を一つ取った。
「唐揚げ、好き」
当たり前のようにそれだけ言って、箸をつける。テルに感染したみたいに、カイも「まあ食うか」と手を伸ばした。
ソウも、弁当を受け取った。
蓋を開けると、唐揚げが四つ入っていた。ちゃんと揚げたての匂いがした。二十四時間で消えるはずの、複製した唐揚げだ。
それが今は、ただの唐揚げに見えた。
バックヤードのドアの外で、テレビの音がしている。
誰かが音量を少し上げたのか、今日はよく聞こえた。
「——本日、気象庁は九州南部において、空の色が約三十分にわたって通常と異なる帯状の光を観測したと発表しました。原因については調査中としており——」
ソウは箸を止めた。
「——また、昨夜から今朝にかけて、長野県内の複数の地点で方位磁石の示す方角が通常とは逆転していたとの報告が相次いでいます。国土地理院は——」
「……なんか変じゃない?」
ソウは小声でつぶやいた。
「気のせいか」
テルが、唐揚げを咀嚼しながら言った。
「気のせいじゃないと思う」
「……だよな」
ソウは弁当箱を膝に置いた。
「空の色が変わった?」
「私のせいではないです」とレイが言った。
「俺でもない」とカイが言った。
「わたしも、昨日は一回しか使ってないし……でも、あ」ナナが顔を上げた。「昨日の夕方、バスに乗り遅れそうで、ちょっとだけ……」
「ちょっとだけ」とソウが繰り返す。
「三分、止めた……」
「長野の磁石か」
「わからないけど……ごめん」
「謝らなくていい」ソウは首を振った。「まだわかってないし」
レイが、テレビの方向をじっと見た。バックヤードからは画面は見えない。音だけだ。
「方位磁石が逆転したのは、私の能力とは直接関係しないと思います」
「でも、可能性は?」
「……ゼロではないです」
それで、また黙った。
ミオだけが、弁当のご飯をゆっくりと食べていた。
その横顔を、ソウはしばらく見ていた。
「ミオさん」
「ん?」
「さっき、やめた仲間を知らないって言ってましたよね」
「ええ」
「消えずに、普通に生きてる人が一人もいないってこと?」
ミオは箸を止めた。
「……いないわけじゃない、と思う」
「思う?」
「私が知らないだけかもしれない」
「それって、希望があるってこと?」
ミオは少しの間、答えなかった。
「神崎くん」
「はい」
「あなた、さっき……ここにいるって言ったでしょ」
「言いました」
「その言葉、ちゃんと覚えておいてあげてね」
意味がよくわからなかった。
でも、ソウは「わかりました」と答えた。それ以外の返し方が思いつかなかったから、というのと、ミオの目がそれ以上の言葉を求めていなかったから、という両方の理由で。
昼休憩が終わる五分前、ナナが立ち上がった。
「一個、聞いていい?」
「なに」とカイが言う。
「やめるって、いつからやめるの?」
全員が少し黙った。
「今日から」とレイが言った。
「今日から?」
「今日、ここで全員で話した。だから今日から」
「それって、もう今日の出勤のとき使いましたってなったら」
「それはしょうがない。今日から、という意味」
ナナは少し考えた。
「……わたし、今日二回使った」
「今の時点から、ということで」とレイが言う。
「それ、わたしが今日の朝遅刻したとき使ったのは、ノーカン?」
「ノーカンです」
「よかった」とナナはほっとした顔になった。
「よかったじゃないだろ」とカイが言う。
「や、なんか……まじでやめられんのかな、って思ったら怖くなったから」
ナナは笑っているのか、泣きそうなのか、ちょっとわからない顔をしていた。
「わたし、遅刻しそうになったら毎回使ってたから。やめたら毎回遅刻するんじゃないかな、って」
「電車の時刻を調べなさい」とレイが言った。
「うん……調べる」
「前の日から」
「前の日から調べる」
「三十分前に家を出なさい」
「三十分前……」
「それができない人間は無数にいます。彼らは時間を止めずに生きています」
「……うん」
ナナは素直に頷いた。
ソウはなんか、この二人のやり取りがいつも好きだと思っていた。レイが誰かにこういう口を利くのは、ナナに対してだけだ。
テルが、空になった弁当箱の蓋を閉めた。
「俺は、じゃんけん普通に負けるわ」
「信号も」とカイが言う。
「信号は誰でも普通に待つよ」
「俺は重力使わないと書類の整理がめんどくさい」
「手で並べなさい」とレイが言った。
「わかってる。わかってるよ」
カイは大きく息を吐いた。
「……普通に生きるか」
その言葉が、バックヤードに少し残った。
誰も、何も言わなかった。
普通に生きる、ということが、どういうことかを、ここにいる五人のうち四人は知らない。知っているのはソウだけだ。ソウにとっての普通が、彼らにとっての未知だ。
「普通、そんなに難しくないですよ」
ソウは言った。
「……お前が言うな」とカイが笑った。
「俺はずっと普通だから」
「だから言うな」
午後の客足は少なかった。
ソウはカウンターの中で、スマホのディスプレイを磨きながら、表のニュースをぼんやり聞いていた。
「——なお、先ほどお伝えしました長野県内での磁石の逆転現象ですが、専門家によると自然現象として説明が困難であるとのことで——」
レイが隣に来た。
「今日、閉め作業一緒にやりますか」
「あ、はい」
「在庫チェック、昨日からずれてる可能性があるので」
「ミオさんの複製のやつですね」
「複製したものは二十四時間で消えます。昨日の在庫に複製が混じっていれば、今日の閉め作業の時点でずれるはず」
「なるほど」
ソウはディスプレイから目を上げた。
「レイさんって、働きながらそういうこと計算してるんですか」
「常にしています」
「……さすが」
「さすが、ではないです」レイは事もなげに言った。「単純な習慣です」
しばらく、二人で並んでカウンターに立っていた。
客は来なかった。テレビがかすかに鳴っている。
「レイさん、怖くないですか」
ソウは、聞こうか迷ってから聞いた。
「何が」
「やめること」
レイは少し黙った。
「怖いという感覚が、私に適切かどうかわかりません」
「でも、わからないんですよね。やめた後、どうなるか」
「ええ」
「それって、怖いと思う」
レイはソウを見た。横目で、少し。
「ソウさんは」
「はい」
「怖いと思うことがありますか」
「あります。普通に」
「どんなとき」
ソウは少し考えた。
「将来とか、就活とか。あと、大事な人がいなくなるとか」
「大事な人が」
「はい」
レイはまた前を向いた。
「それと同じかもしれません」
「どういう意味ですか」
「……いなくなるかどうかわからない。でも、いなくなる可能性がある。そのことを、考えている」
「誰のことを」
「ここにいる人たちの」
ソウは少し、言葉に詰まった。
レイが「ここにいる人たち」と言うとき、それにはソウも含まれているのか、含まれていないのか、聞けなかった。
「レイさん」
「なんですか」
「さっき、俺が言いそびれたこと」
「言いそびれた?」
「ありがとう、のあと。もう一個言おうとしたこと」
レイが、ほんの少しだけ体をこちらに向けた。
「みんなが普通になった後も、俺がここにいるって言いましたよね」
「ええ」
「俺、それ、嘘じゃないから」
レイはソウを見た。今度は、ちゃんと正面から。
長い沈黙があった。
「……少し待ってください」
レイが言った。
ソウはびくっとした。
その言葉が、何を意味するか、嫌というほど知っているから。
「え、今、ここで?」
「違います」
レイは静かに言った。
「答えを、少し待ってほしい、という意味です」
「あ」
「……能力ではないです」
「そ、そうですよね。はい、すいません」
「なぜ謝るんですか」
「いや、なんか、条件反射で」
レイが、ほんのわずかに、口の端を動かした。
笑った、と言えるほどじゃなかった。でもソウには、そう見えた。
「条件反射になるほど、驚かせてしまったんですね」
「驚きましたよ。何回でも」
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑とは言ってません」
今度こそ、レイはちゃんと前を向いた。
表のニュースが、また何かを言っている。ソウには聞こえなかった。
閉店間際、ドアが開いた。
「あら、今日も間に合った」
謎のおじいさんだった。
白髪で、小さくて、手には古い折り畳み式の携帯を持っている。毎週来る。毎週「スマホの使い方」を聞く。
「いらっしゃいませ」とソウが言った。「今日はどうしましたか」
「またこれが、よくわからんくなってしまってな」
おじいさんは携帯を差し出した。
「どのあたりがわかりませんでしたか」
「全部」
「……全部ですか」
「うん、全部」
おじいさんは、ソウの後ろをちらっと見た。
バックヤードのドアが少し開いていて、中でレイとナナが閉め作業をしているのが見える。
「にぎやかやねえ、ここ」
「そうですね」とソウは言った。
「ええ子たちが揃ってるんやろ」
「……そう思います」
おじいさんは携帯を見ながら、小さく笑った。
「そういう時間が、大事やからな」
「はい」
「大事にしいや」
「……はい」
おじいさんが帰った後、ソウはカウンターに肘をついて、閉まりかけたドアをしばらく見ていた。
なんかあのおじいさん、毎回変なこと言って帰るな、とソウは思った。
でも、今日のは、ちょっとだけ刺さった。
バックヤードから、ナナの声がした。
「ソウくーん、レジ締めどうやるんだっけー?」
「また忘れたんですか」
「ごめんー」
「行きます」
ソウは立ち上がった。
そのとき、テレビがまた何かを言った。
「——新たな報告として、北海道沿岸で、海の色が部分的に変色しているとの目撃情報が複数寄せられています。原因については——」
ソウはテレビを一瞬見た。
「……気のせいか」
呟いて、バックヤードへ向かった。




