第27話「みんなに、言わなきゃ」
バックヤードのパイプ椅子に座ったまま、ソウはしばらく動けなかった。
ミオの言葉がまだ頭の中でぐるぐるしている。
手遅れではない場合の答えを、一番恐れている。
それがどういう意味なのか、ソウにはまだわからなかった。ただ、軽い話ではないことだけは確かだった。ミオは答えを知っていて、知っているから黙っていた。そういうことだ。
テレビは相変わらず点けっぱなしで、夕方のニュースが流れている。
「……続いてのニュースです。気象庁の発表によりますと、昨日午後から今日の未明にかけて、長野県内の複数地点で重力加速度の計測値に微細な変動が確認されました。同庁は『観測機器の誤差範囲内である』としながらも、詳しい原因を調査中としています——」
ソウは顔を上げた。
「……重力加速度?」
思わず声に出してから、首を振る。気のせいか、と言おうとして——言えなかった。
もうそれで流せる気がしなかった。
夕方の客足が落ち着き、フロアにはレイとソウだけが残っていた。カイは一時間前に上がっており、テルは奥のカウンターで端末の画面を眺めながら半分眠っている。ナナはさっき補充作業に入ってまだ戻ってこない。
レイはPOPの貼り替え作業をしながら、チラリとソウのほうを見た。
「ミオさんと話しましたか」
「……した」
「そうですか」
それだけ言って、レイは手元に視線を戻した。何も聞かないし、何も言わない。それがかえって重く感じる。
ソウは陳列棚に体重を預けながら、腕を組んだ。
「レイさん。ミオさんが言ってた『手遅れじゃない場合の答え』って」
「……」
「何だと思う」
レイの手が止まった。一秒か二秒か。それからゆっくりと体ごとソウの方を向いた。
「神崎さんは、もう気づいているんじゃないですか」
「気づいてるから聞いてるんだよ」
ソウは自分でもその言葉の語気が少し強かったことに気づいたが、取り消さなかった。レイは怒りもせず、ただ静かに考えている顔をしていた。
「……手遅れではないなら」
レイが口を開いた。
「私たちが能力を使うことをやめれば、世界の干渉は止まります。理屈の上では」
「それで世界は元に戻るの」
「……戻らないものもあるでしょう。消えた島は戻らない。ずれた海岸線も。でも、これ以上ひどくはならない、ということです」
ソウはその言葉を嚙み砕くように黙っていた。
「……じゃあ、みんなに言わなきゃいけないね」
「そうなりますね」
レイの声は相変わらず平静だった。ただ、目線がわずかに床に落ちたように見えた。
翌日、開店前。
バックヤードに六人が揃うことは、それほど多くない。けれどその日は店長が棚卸しのために全員を早出させていたため、珍しくフルメンバーがそこにいた。
ミオが人数分のおにぎりを並べている。複製じゃない、コンビニの袋がある。今日は本物を買ってきたらしかった。
「あ、ツナマヨだ」
ナナがぱっと顔を輝かせた。
「ナナちゃんの好きなやつ、ちゃんと選んだわよ」
「ミオさん天才……」
「俺は?」
カイが身を乗り出す。ミオは片手でカイの顔を押し返した。
「梅。ダイエット中でしょ」
「梅じゃなくて鮭が——って、なんで知って——」
「千年生きてれば顔を見ればわかるの」
テルがカウンターの隅でぼんやりしながら鮭のおにぎりを受け取り、「これカイの」とカイに差し出した。ミオは目だけで笑った。
「それはテルちゃんのよ」
「……そうか」
テルはまた黙って食べ始めた。
ソウは自分の手元のおにぎり(シーチキン)を握ったまま、みんなの顔を見ていた。
ナナはツナマヨを幸せそうに食べている。カイはミオに梅を押しつけられながら何か言っている。テルはもうほとんど寝ている。レイは少し離れたところで静かにおにぎりを食べていて、ソウと目が合うとわずかに頷いた。
ミオは——何も言わずに、みんなの顔を順番に見ていた。
ソウは立ち上がった。
「みんな、ちょっといいか」
笑い声が止んだ。
ナナがおにぎりを持ったまま首を傾げた。カイが「なに急に」という顔をした。テルは目だけ開けた。
ミオはソウを見て、何も言わなかった。
「昨日、ミオさんから話を聞いた」
ソウは言葉を選びながら続けた。
「俺なりの理解で言うけど、間違ってたら直してほしい。……みんなが能力を使うたびに、世界のどこかに何かが残る。島が消えたり、海岸線がずれたり、重力がおかしくなったり。最近ニュースで流れてる変なやつ、あれ全部それだと思う」
沈黙。
「……え」
ナナの声が小さく出た。
「俺が変なニュース気にし始めたの、わりと最初からなんだけど。ずっと気のせいかって流してたんだ。でも積み重なって、つながって、ミオさんが——」
「そうです」
ミオが静かに言った。
カイとナナがミオを見た。テルは動かない。
「私が一番長くここにいるから、一番わかってた。ずっと言えなかった。……ごめんなさい」
「え、待って」
カイが眉をひそめた。
「それって、つまり。俺らが能力使うせいで、世界がおかしくなってるってこと?」
「そういうことになる」
ソウが答えた。
「嘘だろ」
「……カイさんも、自分の能力の輪郭が薄くなってきてるって言ってたじゃないですか」
レイが静かに言った。カイが「それは」と口を開きかけて、止まった。
ナナが手元を見た。
「じゃあ、私が時間停止を使うたびに……どこかで時計がずれてるってこと?」
「うん」
「……そんな、知らなかった。全然知らなかった」
「知らなかったのは仕方ないと思う」
ソウは正直に言った。
「ミオさんも言えなかった理由があった。俺はそれを責める気はない。ただ、知った上でどうするか、みんなで考えたほうがいいと思って」
しばらく、誰も喋らなかった。
ナナが小さくしゃくり上げた。泣いているわけじゃないけれど、そういう顔をしていた。
カイは腕を組んで天井を見ている。
テルはずっとおにぎりを食べていたが、静かに包みを丸めてゴミ箱に投げた。入った。
「……テルは、知ってたの」
ソウが聞いた。
「なんとなく。でも確認はしてなかった」
「そうか」
「まあ」
テルはあくびをして、それからソウを見た。
「なるようになる、って思ってた。でも違ったな」
その言葉は、いつもよりほんの少しだけ重かった。
ミオが言った。
「手遅れじゃないと思ってる。……私が黙ってたのは、手遅れじゃない場合の答えが怖かったから」
「答えって?」
カイが目を向けた。
ミオはおにぎりを膝の上に置いて、まっすぐカイを見た。
「能力を使わなければ、世界はこれ以上壊れない。でも、それが私たちにできるかどうか」
「……できなくはない、だろ」
「そう。できる。でも、できたとして——そうしたら私たちは、ただの人間と同じになる」
その言葉が落ちた瞬間、空気がちょっと変わった気がした。
ナナが「ただの人間と同じ」を、もう一度口の中で繰り返した。
カイは天井を見るのをやめた。
ソウは黙って聞いていた。
正確には、能力を使わないだけでは「ただの人間」にはならない。ソウはそれを理解していた。能力があるまま使わないのと、能力がなくなるのは違う。
でもミオが言いたいのはそういうことじゃないんだろうなと、なんとなく思った。
能力を使わない日々の中で、何かが変わる。自分たちが何者か、という話になる。
それが怖い、ということだ。
「急いで答えを出さなくていい」
ソウは言った。
「今日きょうで決めなくていい。ただ、知っておいてほしかっただけ」
「神崎は」
カイが言った。
「怒ってないの」
「誰に?」
「……みんなに。世界がおかしくなってることを、俺たちのせいだって」
ソウは少し考えた。
「怒るかどうかは置いといて、みんながわざとやってたわけじゃないのはわかってる。カイだって遅刻ごまかしに時間停止——あ、それナナか」
「私です」
「カイは何だ、ゴミ袋浮かせてたやつか」
「そんな小さいこと言うな」
「いや、言いたいんじゃなくて、そういう話でしょってことだよ。誰も世界を壊そうと思ってたわけじゃない。ただ便利だから使ってた」
カイが少し黙った。
「……それ、俺らの言い訳にはなんないよな」
「言い訳にはならないけど、責める理由にもあんまりならないと思ってる。少なくとも俺は」
開店五分前を告げるチャイムが鳴った。
ミオが立ち上がって、おにぎりの袋をまとめ始めた。
「ごはん食べなさい。冷めるから」
いつものセリフだった。
ナナがぱっと顔を上げて、ツナマヨにかぶりついた。カイは梅を「しょうがねえな」と言いながら食べた。テルはもう食べ終わっていた。レイは静かに半分残っていたおにぎりを口に運んだ。
ミオはみんなを見て、それから小さく笑った。
ソウはシーチキンを食べながら、その顔を見ていた。
千年間ひとりで抱えてたやつが、やっと吐き出せた顔だな、と思った。
開店してしばらくすると、例の常連のおじいさんが来た。
「ああ、今日もきたよ。また使い方がわからなくなってしまってねえ」
「どこですか、一緒に見ますよ」
ソウが声をかけると、おじいさんはにこにこしながらスマホを差し出した。いつも通りだった。
画面を確認しながら、ソウはふと思った。
このおじいさん、毎週来るのに全然スマホを覚えない。
……まあ、それはいいんだけど。
案内しながら、ソウは店内に目を走らせた。レイがカウンターで書類を整理している。ナナがお客さんに案内している。カイが鏡の前で髪を直している(仕事しろ)。テルがカウンターの端でうとうとしている。ミオが奥の棚を整えている。
ごく普通のバイト中の風景だった。
……いや、普通じゃないんだけど。
「神崎くん、聞いてるかね」
「あ、すみません。えーと、ここを押すと——」
おじいさんが画面を覗き込んでいる。その目が、かすかに細くなった気がした。微笑んでいるのか、考えているのか、ソウには判断できなかった。
「今日は、なんだかみんな顔つきが違うねえ」
「……そうですか?」
「うん。なんかこう——少し大人になった顔、というか」
ソウはおじいさんの顔を見た。いつも通りの、穏やかなお年寄りの顔だ。
「気のせいじゃないですか」
と言おうとして——
「……かもしれないけど、そうじゃないかもしれないですね」
なぜか、そう答えた。
おじいさんはにこっと笑って、また画面を覗き込んだ。
夕方、閉店間際。
テレビのニュースが流れている。
「——本日、気象庁は改めて調査結果を発表しました。昨日確認された長野県内の重力加速度の変動について、複数地点のデータを精査した結果、『観測誤差の範囲を僅かに超えている可能性がある』と見解を修正しました。原因については、引き続き——」
ソウはリモコンを手に取ってから、置いた。
消す気になれなかった。
変じゃない、とはもう言えない。
でも——まだ手遅れじゃない。
そうミオが言った。
その「まだ」がどれくらいの猶予なのかは、誰も言わなかった。
帰り際、バックヤードで着替えながら、ナナがソウの袖を引っ張った。
「ねえ、ソウくん」
「うん」
「私、能力使うの、しばらくやめてみる」
ナナはいつもとあまり変わらない顔で、ただ真っ直ぐに言った。
「明日から電車使って来る。時間停止なしで。……遅刻するかもしれないけど」
「田所さんに言っといてあげようか」
「え、それだと意味ないじゃないですか」
「早起きしろって話では」
「それが一番むずかしいんですよ!」
ナナが頬を膨らませた。ソウは笑った。
廊下の先で、レイがスペアのスーツを畳みながらこちらを見ていた。
目が合った。
何も言わなかったけれど、なんとなく通じた気がした。
ソウはバッグを肩にかけた。
今日は気のせいで流せないことが、一個増えた。
でも——明日また来れば、おじいさんがスマホの使い方を聞きに来るんだろう。
ミオがおにぎりを配るんだろう。
カイが鏡の前に立つんだろう。
テルがうとうとするんだろう。
それがいつまで続くのかは、まだわからない。
でも今日は——ちゃんと全員で、同じ方向を向いた。
それだけは、気のせいじゃないと思った。




