第26話「ミオさんの、知っている話」
夕方五時を少し過ぎた店内は、ちょうど客が途切れた。
ソウは端末コーナーのディスプレイを拭きながら、バックカウンターにいるミオの背中をちらりと見た。
さっき、ミオに声をかけようとして、やめた。やめて、また声をかけようとして、やめた。それを三回くり返した。
ミオさんは、知ってる。
レイがそう言ったわけじゃない。でも、ソウにはそう聞こえた。
「ミオさん」
四回目は声に出た。
ミオは振り向いた。手元に複製した弁当箱のフタがあって、拭いていた布巾をゆっくり下ろした。
「なんですか、ソウくん」
「最近、複製の失敗が増えてる、って言ってましたよね」
「……言いましたね」
「それって、ミオさんが疲れてるとか、集中できてないとかじゃなくて」
ソウは一度、言葉を止めた。
「もしかして、世界のほうが変になってきてるから、じゃないですか」
バックカウンターの蛍光灯が、ほんの少しちらついた。気のせいかもしれない。
ミオは表情を動かさなかった。
でも、布巾を持ち直すときの指先が、ほんのわずか——止まった。
「座ります?」
ミオが言った。
バックヤードに移動して、丸椅子を並べた。ミオは折りたたみ机の上に湯飲みを二つ置いて、ポットからお湯を注いだ。お茶っ葉が開いていくのを二人で黙って見た。
「どこまで気づいてますか」
ミオが先に言った。
「ニュースで、変なことが続いてること」ソウは言った。「海岸線がずれたり、時計が狂ったり、島が消えたり。で、それが、たぶん、偶然じゃないこと」
「それだけ?」
「……レイさんとカイが、能力の輪郭がおかしいって言ってました。世界が弱くなってる気がするって」
ミオはお茶をひとすすりした。
「なるほど」
「なるほど、って」
「ソウくんは頭がいいですね。観察眼がある」
「褒められてる場合じゃないと思うんですけど」
ミオは少し笑った。千年生きてきた人間が浮かべるには、やけに柔らかい笑い方だった。
「……そうですね」
お茶が冷める前に、ミオは話し始めた。
「私がここに来たのは、千年以上前です。最初は誰もいなかった。草と泥と、たまに通る旅人くらい。そのうち村ができて、町になって、今みたいな街になった」
ソウは黙って聞いた。
「最初の百年は、私一人でした。次の五百年で、レイが来た。その後もぽつぽつと。カイが来て、テルが来て、ナナが来た」
「全員、ここに集まってきたんですか」
「集まってきた、というより」ミオは湯飲みを両手で包んだ。「引き寄せられた、というほうが近いかもしれない。お互いに気配がわかるんです。同じ種類の存在として」
「種類」
「普通じゃない存在、という意味で」
ソウは「普通じゃない」という言葉を頭の中でゆっくりくり返した。
「最初のうちは、何もなかった。私が複製しても、レイがすり抜けても、ナナが時間を止めても、世界はちゃんとそこにあった。毎日、同じように朝が来て、夜が来て、変わらない繰り返し」
「それが、変わってきた?」
ミオはうなずいた。
「いつからかははっきりしない。でも——少しずつ、世界が答えなくなってきた気がしていました」
「答えない、って?」
「たとえば」ミオは机の上に湯飲みを置いて、人差し指を立てた。
コトン、と湯飲みが浮いた。数センチ、中に浮かんでいる。複製じゃない。ただの重力の変化——カイの仕事みたいに見えたけど、店にカイはいなかった。
「これは、私の能力じゃないんです」ミオは言った。
「え」
「カイが今朝、練習で局所重力を触りすぎた影響がこの辺りに残っています。私の複製に干渉して、物理境界が薄くなっている」
湯飲みはゆっくり机に戻った。
「以前は、こんなことなかった。誰かが能力を使っても、その影響はその場で収まっていた。でも最近は——」
「残る」
「残る」
ソウは頭の中で何かが整列し始めるのを感じた。
ニュース。島が消えた。海岸線がずれた。時計が狂った街。カイが意図せず発動した、と言っていた。レイが「世界のほうが弱くなっている」と言った。
「つまり」ソウは言った。「みんなが能力を使うたびに、世界のどこかに影響が出てる、ってこと?」
ミオはまっすぐソウを見た。
「そうです」
沈黙が数秒あった。
店の方から、ドアベルの音が聞こえた。客が入ってきた音だ。でもどちらも動かなかった。
「ミオさん、それ、みんなは知ってるんですか」
「知らないと思います。薄々感じているかもしれない。でも、こうして言葉にしたのは、ソウくんに対してが初めてです」
「なんで今まで言わなかったんですか」
ミオは少し間を置いた。
「言ったとして、どうなりますか」
「……どうなる、か」
「レイは能力を使うのをやめるかもしれない。カイも、ナナも、テルも。でも」
ミオは指先で湯飲みの縁をなぞった。
「それで世界が元通りになるかどうか、私にはわからないんです。能力を使うのをやめれば安定するのか、それとも、もう手遅れなのか。わからないのに、言えなかった」
ソウは「手遅れ」という言葉が胸の中にどすっと落ちてくるのを感じた。
「ミオさんは、どっちだと思ってるんですか」
長い沈黙だった。
千年分の記憶がその沈黙の中に入っているような気がして、ソウは急かせなかった。
「……わからない、が本当の答えです」ミオはゆっくり言った。「でも、わからないと言いながら、私が一番怖がっているのは——手遅れじゃない方の答えかもしれない」
「手遅れじゃない方?」
ミオは答えなかった。
でもその沈黙が、なんとなく、答えのように聞こえた。
バックヤードのドアが開いた。
「あれ、二人ともここにいたんだ」
ナナだった。エプロンをつけながら入ってきて、壁の時計を見て「一分前! 間に合った!」と言った。
その一分前という表現が今日は妙にズシッと来たが、ソウは何も言わなかった。
「ソウくんとミオさん、なんか話してた?」
「お茶飲んでました」ミオが言った。
「いいなー、私も」
ナナは棚から新しい湯飲みを取り出して、ポットに手を伸ばした。天真爛漫な手つきだった。何も知らない、という感じだった。
ソウはその背中を見ながら、「言ったとして、どうなりますか」というミオの声を思い返した。
なんか変じゃない?
でも、今はまだ。
「ナナさん、今日遅刻しなかったんですか」
「したよ! 一分!」
「それ遅刻です」
「でも一分だよ! 三分じゃなくて! 進歩じゃん!」
ミオが小さく笑った。ソウも笑った。さっきまでの空気が少しだけ薄まった。
それがいいことかどうか、ソウにはわからなかったけど。
夜八時すぎ、閉店作業を終えてレジを締めていると、休憩室のテレビが点けっぱなしになっていた。
ニュースキャスターが画面の中でニコニコしている。
『——続いてこちらのニュースです。宮城県沖の観測所が、昨夜から今朝にかけて、海底地形に新たな異変を確認。専門家は「過去に例のない速度で変化が進んでいる」と——』
ソウはリモコンを取って、テレビを消した。
気のせいか。
そう思いかけて、今日初めて、思いかけてやめた。
店を出ると、夜風が思ったより冷たかった。
駐輪場でチャリのカゴに荷物を入れていると、隣に人が立った。
レイだった。
ロングコートを着て、長い髪を後ろにまとめていた。いつも通りの完璧な立ち姿で、でも今日はなんとなくその輪郭が、普段より少しだけ静かに見えた。
「ミオと話しましたか」
問いじゃなくて確認みたいな言い方だった。
「話しました」ソウは言った。
「どこまで」
「能力の影響が世界に残り始めてる、ってこと。ニュースのやつが全部繋がってる、ってこと。それからミオさんが一番怖がってる答えがある、ってこと」
レイは少し目を細めた。
「最後のやつは」
「ミオさんは教えてくれなかったです」
「……そうですか」
レイは前を向いたまま、しばらく黙っていた。街灯の光が髪に当たって、細かい光が散っていた。
「レイさん」
「なんですか」
「ミオさんが一番怖がってるのが何か、レイさんは知ってますか」
レイはすぐに答えなかった。
夜風が吹いた。
「……少し待ってください」
その言葉を聞いた瞬間、ソウの脳内に「やばい」というアラートが鳴り響いた。
この「少し待ってください」は、答えを考えている「少し待ってください」じゃない。ソウはもう知っていた。この言葉のあとに来るものを。
「え、ちょっ——!」
レイはコートを肩から落とした。どさっ、と音がした。
「いや待って待って待って——!」
ソウはとっさに全力で視線を上に向けた。夜空。星。雲。どこか遠い場所。どこでもいいから上。上。上。
「すみません、向こうの壁を確認したいことがあって」
レイの声が聞こえた。
続いて、ずぶっ、という音がした。
壁の中に入っていく音だった。
ソウは上を向いたまま固まっていた。耳が熱かった。顔も熱かった。脳みそが何かを処理することを放棄しかけていた。
「——確認しました」
壁の向こうから声が聞こえた。
三十秒ほどして、レイが駐輪場に戻ってきた。きちんとコートを着ていた。髪も直っている。なんなら姿勢まで完璧だった。
「お待たせしました」
「……いや」ソウはしばらく声が出なかった。「一言言ってほしいんですけど。一言」
「言いました。少し待ってくださいと」
「それは違う! そういう意味の言葉じゃなかった!」
「ご覧になりましたか」
「見てない! 見てないけど! 見てないけど——!」
ソウは両手で顔を覆った。何かが根本的に間違っている気がしたが、何が間違っているのか言語化できなかった。
「スペアはいつも持っています」レイは静かに言った。「問題ありません」
「問題だらけです」
「これが私の仕様なので」
「仕様!?」
夜の駐輪場にソウの声だけが響いた。
レイはまっすぐ立っていた。一ミリも動じていなかった。
「——で、壁の向こうで何を確認したんですか」
ソウがようやく聞けたのは、もう少し後だった。
レイはすこし間を置いた。
「ミオが怖がっているもの、という話でしたね」
「そうです」
「壁の向こうに、倉庫があります。そこに古い荷物が積んであるのですが」レイは少し声のトーンを落とした。「先週、確認したときより、段ボールの数が増えていました」
「ミオさんが複製したやつ?」
「おそらく。ただ——」
レイは一度、息を吐いた。
「24時間で消えるはずのものが、消えていませんでした」
ソウは何も言えなかった。
「複製したものが消えない。ということは——」
「世界の、ルールが」
「狂い始めているかもしれない」
レイの声に感情はなかった。
でも、その静けさがかえって、ソウには重かった。
二人はしばらく黙ったまま並んで立っていた。
ミオが「一番怖がっているもの」がなんとなく形になってきた気がした。
能力を使えば世界が壊れていく——それは怖い。
でも、能力を使わなくても世界のルールが変わり始めているなら。
ソウは夜空を見上げた。
星がひとつ、ひとつ、ちゃんとそこにある。
……今は、まだ。
「また明日も聞かせてください」
ソウが言った。
「何を」
「何でも。ミオさんのことも、レイさんのことも。変なこと全部」
レイはソウを見た。
「変なこと、が好きですか」
「好きかどうかはわかんないですけど」ソウはチャリにまたがった。「俺、なんか流せなくなってきたんで」
レイは少しの間、ソウの顔を見ていた。
「……そうですか」
そう言った声が、いつもより少しだけ柔らかかった気がした。
気のせいかもしれないけど。
ソウは帰り道、スマホでニュースを開いた。
『——宮城県沖の海底地形、専門家「前例のない速度で変化」——』
スクロールした。
『——北海道・帯広市の一部地区で、昨日の記憶がない住民が十三名。当局は原因を調査中——』
スクロールした。
『——物流倉庫で「自然に増えた」段ボール二百個、会社側は原因不明と発表——』
ソウは画面を閉じた。
夜風の中で、自転車を漕ぎながら、ひとつだけ思った。
ミオさんが怖がってる答えって、何だろう。




