第25話「レイさんの、答えの話」
「わからない、じゃないですよね」
ソウが言ったのはその一言だけだった。
氷室レイは少し間を置いてから、カウンターの奥で書類を揃える手を止めた。動作が止まっただけで、表情は動かない。
「……続けてください」
「さっき、わからないとわかないを両方言ったじゃないですか」
ソウは棚の整理をしながら、目を向けないようにして言葉を続けた。向き合って話すのが正解な気がしなかった。こういうとき、レイは正面から来ると壁を作る。なんとなくそれがわかるようになっていた。
「どっちかが嘘なら、言えない、のほうが本当ですよね。わからないは、だいぶ余計だった」
「…鋭いですね」
「別に。普通に聞いてただけです」
ソウは棚の端末サンプルの向きを直しながら、ちらりとレイのほうを見た。レイは書類を持ったまま、何かを考えるように下を向いていた。
それ以上の言葉を待った。
店内に流れる保留音のBGMが一周した。
「ミオさんが何かを感じているとすれば」とレイが静かに言い始めた。「それは、私にも無関係ではない、ということです」
「……どういう意味ですか」
「ミオさんはここにいる誰よりも、長くこの世界を観ている。観続けているということは、変化に気づくということです。千年分の基準がある。私にはそれがない」
「レイさんには百年分がある」
「百年は短い」
言い切り方に迷いがなかった。ソウは思わず「そうなんだ」と呟いた。百年と千年の差を、ソウはうまく想像できない。二十年しか生きていない人間に、百年すら想像の外にある。
「じゃあ、レイさん自身は、何か感じてないんですか」
レイはまた少し黙った。
「感じる、という表現が適切かどうか分かりません」
「わかりやすく言ってください」
「……物質の境界が、前より曖昧になっている気がします」
ソウが振り返ると、レイが手元の書類を見たまま、静かに続けた。
「能力を使うとき、以前より抵抗が少ない。すり抜ける感覚が、軽くなっている」
「それって、いいことじゃないんですか」
「逆です」
レイは書類を棚に置いて、こちらを向いた。
「物質の境界が薄くなっているということは、世界そのものが薄くなっている可能性がある。私の能力が強くなったのではなく、世界のほうが弱くなっている。そういう感覚です」
世界が弱くなっている。
ソウはその言葉を、口の中で一度繰り返した。意味はわかる気がした。でもわかりたくないような感覚もあって、頭の中でうまく着地しなかった。
「それ、確かめる方法ってあるんですか」
「ミオさんに聞けば、わかるかもしれません。ただ」
「ただ?」
「ミオさんは、答えを知っているかもしれない。でも、言わないでいる理由も、あるかもしれない」
ソウは少しの間、棚に手を置いたまま止まった。
……なんか、変じゃない?
いや、変はずっと変だった。最初から変だった。ただ最近は、その変が別の次元にシフトしているような感覚が、うっすらある。
「とりあえず」とソウは言った。「今日の仕事終わりますか」
「終わります」
「じゃあ、続きは後で」
「……はい」
レイは元の表情に戻った。クールで、隙のない。それでもさっきより少し、どこかが違う気がした。
気のせいか。
午後五時すぎ。
バックヤードのテレビをナナが音量上げすぎて、店内に丸聞こえになっていた。
「岩手の海岸線に続いて、本日は静岡県沖でも海底地形の変動が確認されました。専門家は——」
「ナナさん、音量」
「あっごめんなさい!」
カチ、とリモコンが鳴って音が下がった。ナナがバックヤードから顔を出して、申し訳なさそうにソウを見た。
「見てたんですか?ニュース」
「見てたというか、聞こえてきたというか」
「最近ニュースって地震多いですよね。って思って」
「地震じゃないっぽかったですけど」
「え?」
「海底地形の変動、って言ってた」
ナナが「あー」と言って、首を傾げた。
「なんか最近こういうの多くないですか。先週も岩手で海岸線がずれたって」
「……聞いてました、それも」
「なんか変ですよね」
ナナはそう言って、ちょっと笑った。笑い方が軽かった。本当に変だとは思っていないのか、思いたくないのか、ソウにはわからなかった。
ナナがバックヤードに戻ろうとしたところで、引き戸がガラガラと開いた。
御堂カイだった。
「おつ。今日は余裕で時間通りじゃん、俺」
「珍しい」
「毎回言うじゃん、それ。傷つくんだけど」
カイはロッカーに荷物を放り込みながら、テレビをちらりと見た。
「なんかニュースやってんじゃん。何」
「海の話」
「あー海底がどうとかいうやつ?ニュース速報で出てたな、電車乗ってるとき」
「気になりませんでした?」
「んー……別に?海って広いし、なんか色々変わるじゃん。地球規模で」
「それは確かに」
ソウは曖昧に答えた。気になる、とは言えなかった。自分でも、どのくらい気にしていいのかがわからないでいた。
「そういえば」とカイが言った。「ミオさん、今日遅番じゃなかったっけ」
「そうですよ」
「なんか今日、複製使ってた?」
「……なんでそれ知ってるんですか」
「知り合いがさ、バッグ二個ある人見たって言ってた。一個消えたって。多分ミオさんじゃないかと」
「どういう目撃者」
「知り合いが偶然通りかかったらしい。で、一個消えたからびびったって」
ソウはため息をついた。
「ミオさんが街中で使ったんですか」
「使ったつもりはなかったんじゃないかな」とカイが言って、少し声を落とした。「最近、ミオさんって意図せず使うことない?」
「……ありますね」
「俺もなんか、たまに重力がふわっとなる時がある。使おうとしてないのに。なんか力の輪郭が最近薄い感じがするんだよな」
ソウはその言葉を聞いて、少し前にレイが言ったことを思い出した。物質の境界が薄くなっている。能力が強くなったのではなく、世界のほうが弱くなっている。
同じことを、別の場所でカイも感じていた。
「……カイさんもそれ、感じてるんですか」
「なんかそんな感じ、ってだけだけど。気のせいかもしんないし」
気のせいか。
ソウはもう一度その言葉を繰り返した。いつもなら自分が使う言葉だった。でも今日は、その言葉に乗っかれなかった。
夕方六時すぎ、ミオが出勤してきた。
「お疲れ様です」と笑って、バックヤードに入ってきた。エプロンをつけながら、ナナとカイに声をかける。普通だった。いつも通りの、穏やかなミオだった。
ソウはカウンターで接客の合間に、ミオのことを横目で見ていた。
動き方に変わりはない。複製を使っている様子もない。でもカイが言っていたことが頭にある。意図せず使っていることが増えている、という話。
接客が一段落した頃に、ミオが隣に立った。
「ソウくん、今日なんかずっと考えてる顔してますよ」
「してますか」
「眉間に線が入ってます」
ソウは思わず眉間を触った。ミオがくすくすと笑う。
「聞いていいですか」とソウは言った。
「聞いてみてください」
「最近、複製……意図してないときでも、使うことありますか」
ミオの笑い方が、少し変わった。消えたわけじゃない。ただ、笑顔の奥にあるものが、違うもので上書きされたような変わり方だった。
「……誰かに聞きましたか」
「カイさんに聞きました。街中で、ミオさんのバッグが二個あって、一個消えたって言ってる人がいたって」
「そうでしたか」
ミオはエプロンの端を少し整えてから、前を向いた。
「最近、少し制御がしづらいです。ずっとそうだったわけじゃない。ここ何週間かで」
「原因わかりますか」
「わからない、という答えは半分本当で、半分は……少し待ってほしいという気持ちです」
「……それ、レイさんと同じ言い方ですね」
ミオが「そうですか」と言った。驚いた様子はなかった。
「レイちゃんとは、同じことを感じているかもしれません。私たちは同じものの中にいるので」
「同じものって」
「この場所、という意味です」とミオは言った。それ以上は言わなかった。
ソウは何を返せばいいかわからなくて、とりあえず「そうですか」と言った。答えになっていないとわかっていても。
その時、バックヤードから霧島テルがのしのしと出てきた。休憩終わりの顔で、目がまだ半分閉じている。
「テルさん、また寝てたんですか」
「うん。あ、ミオさん来た」
「来ましたよ」
テルはカウンターに近づいてきて、ソウとミオを交互に見た。
「なんか話してた?」
「ちょっと」
「ふーん」テルは自販機のボタンを押しながら言った。「なんか今日、この店内、静電気多い気がする」
「……静電気?」
「うん。なんかパチパチする」
ソウは棚の端末を触ってみた。別に何も来なかった。
「感じないですけど」
「そう。まあ気のせいかも」テルはジュースを取り出してストローを刺した。「でも気のせいじゃない気もする」
「どっちですか」
「わかんない。でも、こういう感じ、前にもあった気がするんだよな」
「前にも?」
「うん。でも、いつかは覚えてない」テルはストローを吸いながら、のんびりと言った。「まあ、なるようになる」
ソウはそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。
なるようになる。
テルがその言葉を使うとき、投げやりには聞こえない。本当にそう思っているというよりも、そう思うしかない何かを知っているような、そういう響きがある。最初はただのマイペースだと思っていた。でも最近は、少し違う気もする。
「テルさんって」とソウは言った。「心配、しないんですか。いろんなことを」
「するよ」
「するんですか」
「でも、心配してたらきりないじゃん。千年分も三年分も、心配したらしんどい」
「…三年分が、テルさんの在歴ですよね」
「そう。短い。でも十分だよ」
テルはジュースを飲み終えて、空き缶をゴミ箱に入れた。放物線が綺麗に決まった。確率操作かどうかは、もうツッコむ気にならなかった。
「今ここにいるじゃないですか、みんな。それだけじゃ足りないですか」
テルがそう言った。
ソウは答えに詰まって、また棚を整え始めた。
今ここにいる。
確かにそうだった。レイがいて、ナナがいて、カイがいて、テルがいて、ミオがいる。バックヤードからナナの声がする。カイが誰かに文句を言っている。ミオが笑っている。
今は、確かにそうだった。
でも、それがずっとそうかどうかは——ソウには、わからなかった。
「お客さん」
レイの声がした。入口のドアが開く音がした。
ソウは頭を切り替えて、営業用の顔を作った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、よぼよぼとした、いつものおじいさんだった。毎週来る、あの常連だ。
「こんにちはね」とおじいさんは言って、ソウのことを見て、細い目をさらに細めた。「今日もちゃんといますね」
「います」
「それはよかった」
おじいさんはゆっくりと歩いて、端末の展示コーナーのほうへ向かった。毎回同じ場所を見る。毎回同じ端末を手に取る。
ソウは少し後ろからついていきながら、今日もいつものパターンになるのかと思った。
でもおじいさんは端末を手に取る前に、ふっと立ち止まって、天井を見た。
「……なんか、最近このお店、音が変わりましたか」
「音ですか」
「なんていうか。反響の仕方が、ちょっと違う気がして」
ソウは天井を見上げた。何も変わっていないように見えた。空調が回っている。BGMが流れている。
「……気のせいじゃないですか」
「そうかな」
おじいさんは端末を手に取って、いつもの「使い方を教えてください」を始めた。ソウは横に立って、丁寧に説明を始めた。
でも頭の中には、おじいさんの言葉が残っていた。
反響の仕方が、ちょっと違う気がして。
……なんか変じゃない?
——次回、おじいさんが珍しく「あなたに聞きたいことがある」と言い出す。




