第24話「午後三時の、静かな嘘」
午後三時を過ぎたあたりから、店は急に静かになった。
昼のピークが引いて、夕方のざわめきにはまだ遠い。その中途半端な時間帯が、ソウは嫌いじゃなかった。手を動かしながら何かを考えられる、ちょうどいい余白がある。
今日の作業はカタログの補充だ。什器の棚に並べる薄いパンフレットを一枚ずつ引き出しては向きをそろえ、引き出してはそろえる。単純な動作のくり返し。
「……これ、また三枚多くない?」
思わず口に出てから、ソウは自分で自分に首を振った。
昨日も同じことを言った。スマホケースの在庫が増えていた。ミオに聞いたら「試作です」と言って、夕方にはきれいに消えた。
今度はカタログだ。
在庫表には十五枚と書いてある。棚には十八枚ある。ソウはもう一度数えた。やっぱり十八枚。
「ミオさん」
バックヤードに向かって声をかけると、のれんの向こうから「はい」と穏やかな返事が来た。
ミオが出てきた。今日はグレーのカーディガンを羽織っていて、エプロンを前でしっかり結んでいる。いつも通りの、きちんとした格好だ。
「カタログ、増えてます」
「……あら」
ミオは棚をのぞき込んで、少し間を置いた。
「ごめんなさい。昨日の閉店後、ちょっと補充しようとしたら、余分に出してしまって」
「複製ですか」
「……はい」
嘘をついていない、とソウは思った。ただ、全部を言っていない。
昨日カイが言っていた。「最近、ミオさんの複製、増えてるよな」。その言葉が今朝からずっと頭の中にある。
「消えますよね、夕方には」
「消えます」
「じゃあ、在庫表は合わせておかないと」
「そうですね。気をつけます」
ミオはそう言って、柔らかく笑った。責められている感じも、言い訳している感じも、どこにもない。ただ穏やかに、謝って、次に進む。
千年生きているとこういう顔ができるのか、とソウは思った。それとも、千年生きているからこそ、何かを隠すのが上手くなるのか。
どちらなのか、まだわからなかった。
テルが出勤してきたのは三時半だった。
扉が開く音がして、ソウが振り向くと、テルはいつものようにあくびをしながら入ってきた。マフラーを首に二重巻きにして、目が半分閉じている。
「おつかれ」
「おつかれさまです。テルさん、昨日の夜から来てないですよね」
「うん。家で寝てた」
「十七時間くらい?」
「そんなもんかな。よく眠れた」
テルは制服のベストに着替えながら、あくびをもう一回した。
「あ、自販機の当たり、さっき出た」
「また使ったんですか、能力」
「使うって言うか……引けるってわかってたら引くじゃん」
「そのたびにどこかのコインが百回連続表になるんですよ」
「なるようになる」
ソウはため息をついた。テルは気にしている様子がまったくない。コーンポタージュのプルタブを引きながら、カウンターのそばの丸椅子に腰を下ろした。
「ミオさんが最近複製多いって、ソウくんも思う?」
唐突な問いだった。テルにしては珍しく、少し真面目な声だった。
「思います。今日もカタログが三枚増えてました」
「ふうん」
テルはポタージュを一口飲んで、天井を見上げた。
「……何か、感じてるのかもしれないね」
「何をですか」
「さあ」
また「なるようになる」とつぶやくのかと思ったが、今回はそれもなかった。テルは目を細めたまま、何も言わなかった。
四時を過ぎたところで、ナナが入ってきた。
「間に合った!」
腕時計を確認しながら、元気よく言う。シフト開始は四時。ソウが時計を見ると、四時〇一分だった。
「一分遅刻です」
「え、えっ、また?! なんで?!」
「時間を止めて走ってきたんじゃないんですか」
「止めました! 三回!」
「三回も使って一分遅刻って、もしかして止めなかった方が間に合ってたんじゃ……」
「そんなことあります?!」
ある、とは言えなかった。言っても納得しないと思ったし、実際のところソウにもよくわかっていない。ナナの時間停止が最終的になぜ遅刻に帰結するのか、論理的に説明できる気がしない。
「まあ、田所さんはまだ事務所だし」
「よかった……」
ナナは胸を撫で下ろして、制服に着替えに行った。
テレビが点けっぱなしになっていて、夕方のニュースが流れ始めている。ソウは作業の手を動かしながら、半分だけ耳を向けていた。
「——国土地理院は本日、岩手県の三陸沿岸部において海岸線が約二百メートル内陸にずれているという測量結果を発表しました。原因は調査中としており——」
ソウは一瞬、手を止めた。
海岸線が二百メートル。
それって、どういうことだ。地震? 津波の跡? でもそんなニュース最近聞いていない。
「……なんか変じゃない?」
テルがちらりとこちらを見た。
「何が?」
「海岸線がずれるって、普通あります?」
「さあ。俺、地理詳しくないし」
「詳しくなくてもわかる気がするんですけど……」
まあいいか、と思うことにした。ニュースの話はいつもそこで終わる。気になって調べようとして、でも検索するほどでもないかな、という気持ちになる。なんとなく、それでいつも流れていった。
今日も同じだった。
五時になって、カイとレイが揃って入ってきた。
珍しい組み合わせだ、とソウは思った。カイとレイがつるんでいるところをあまり見ない。
「どうしたんですか、二人で」
「駅で会った」とカイが言った。「レイさんも同じ電車だったんだよ」
「そうです」とレイが短く答えた。
カイはバックヤードに消えて、レイはカウンターの中に入ってきた。エプロンをつけながら、何も言わずにソウの隣に並ぶ。
少し、香水の匂いがした。華やかというより、静かな、冷たい感じの匂いだ。
「レイさん」
「はい」
「昨日テルさんが言ってたんですけど——ミオさんが最近複製をよく使うの、何か感じてるからじゃないかって」
レイは手を止めなかった。エプロンのひもを後ろで結びながら、静かな目でカタログの棚を見ている。
「……テルがそう言いましたか」
「はい」
「あの子が何かを言うときは、たいてい、もう答えを知っています」
「じゃあミオさん、本当に何か感じてるんですか」
レイはしばらく黙っていた。
棚の向こう、ガラス窓の外を路線バスが通り過ぎていく。車体が過ぎると、また静かになった。
「……私には、わかりません」
「それ、本当にわからないんですか。それとも言えないんですか」
レイが、ほんの少し、眉を動かした。
ソウは珍しいものを見た気がした。レイの顔が動くのを、こんなにはっきり見たことがなかった。
「……鋭いですね」
「どっちですか」
「両方です」
答えになっていない、とは思った。でも、レイがそれ以上言わないであろうことも、なんとなくわかった。
代わりにソウは別のことを聞いた。
「レイさんはどうなんですか。最近、何か変わりましたか」
「私が、ですか」
「はい」
レイはまた少し黙った。今度は長かった。
外がだんだん暗くなっていく。窓の向こうの電柱に、街灯がともった。
「……質問に質問で返すようで申し訳ないのですが」
「はい」
「神崎さんは、この場所が好きですか」
意外な問いだった。ソウは正直に答えた。
「好きです」
「なぜ」
「居心地がいいから。変な人ばっかりだけど、なんか……落ち着く」
「そうですか」
「レイさんは?」
また間があった。
「私は——」
レイは少し言いかけて、止まった。
バックヤードのほうから「ソウくーん、ポップ用のテープどこでしたっけ」というカイの声が聞こえてきて、その瞬間が終わった。
「二段目の引き出しです!」とソウが返す。「——レイさん?」
レイは何事もなかったように、カウンターの内側へ一歩踏み込んだ。
「今夜は閉店作業まで残ります。何か手伝えることがあれば言ってください」
聞こえなかったことにする気だな、とソウは思った。でも追いかけなかった。
夕方のラッシュが来て、それが過ぎて、七時を回ったあたりで店は再び静かになった。
ミオが複製した弁当を配ったのは七時半だった。
「今日は豚の生姜焼きです」
「やった」とナナが言った。
「また複製か」とカイが言って、ミオに「失礼」と軽く叱られた。
バックヤードのテーブルを六人で囲む。折りたたみ椅子を引っ張り出して、肩が触れるくらいの距離で並ぶ。生姜の匂いが狭い部屋に広がった。
「美味い」
カイが言って、みんなが同意するように箸を動かした。
テルは相変わらずぼんやりしていて、ナナは「生姜入れすぎじゃないですか大丈夫ですか」とミオの顔を心配そうに見ていて、レイはきれいな所作でゆっくり食べていた。
ソウはそれを眺めながら、ふと思った。
この弁当は、二十四時間で消える。
ミオが言っていた。複製したものは必ず消えると。食べた後のことは気にしなくていいのか、体の中で消えたりしないのか気になるが、きっと大丈夫なのだろう、今まで問題なかったから、とソウは毎回そこで思考を止めていた。
でも今は、少し別のことを考えていた。
消えることを知りながら、毎日作る。
それはどういう気持ちなのだろう。
「ミオさん」
「はい?」
「弁当が消えるの、寂しくないですか」
テルが「急に哲学的」と言った。ナナが「そういう話になるんですね」とちょっと嬉しそうにした。
ミオは少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「……食べてもらえる間は、ここにあるでしょう」
「でも消えるじゃないですか」
「消えても——」
ミオは箸を置いて、テーブルの上に視線を落とした。
「——食べてくれた人の中に、残るでしょう」
誰も何も言わなかった。
ナナが「……なんかいい話じゃないですか」とぽそっと言って、カイが「急に感動路線にするな」と言って、テルが「なるようになる」とつぶやいた。
レイだけが、静かにミオを見ていた。
ソウはその顔を横目で見て、また何かを感じ取ろうとして、やめた。
閉店は九時だった。
シャッターを下ろして、清算して、バックヤードで着替えて、みんな順番に帰っていく。
ナナが最初に帰って、テルが「また明日」と言ってのれんをくぐった。カイが「ソウ、今度飯な」と言いながらジャケットを羽織った。
ミオは最後に残って、テーブルを丁寧に拭いていた。
「ミオさん、お先に」
「お疲れさまでした」
ミオが振り向いた。エプロンを外して、きちんと折りたたんで棚に置く。その動作が、なんだかとても丁寧に見えた。
ソウは出口の前で、少し立ち止まった。
「ミオさん」
「はい」
「……弁当、明日もありますか」
また、あの笑い方をした。
「ありますよ。何がいいですか」
「ハンバーグ」
「わかりました」
ソウはうなずいて、扉を開けた。
夜の空気が冷たかった。
歩きながら、スマホを取り出した。着信もメッセージもない。画面を閉じようとして、ふと目に入ったニュース通知を開いた。
『岩手・三陸海岸の測量異常、範囲が拡大。隣県でも同様の報告』
ソウは立ち止まった。
昼間のニュースの続きだ。範囲が拡大している。今日の昼から、もう広がっている。
——海岸線が、ずれる。
なんで。どうして。
……気のせいか。
いや、気のせいじゃないのはわかってる。でも何がどうなってそうなるのかが、まったくわからない。
ソウはスマホを閉じた。
また考えるのをやめた。でも今日は、いつもより少しだけ、やめるのが遅かった。
冷たい風が吹いて、マフラーを巻き直した。
明日もバイトがある。
ミオのハンバーグが、二十四時間で消えるまで食べるバイトが。
それでいい、とソウは思った。今のところは、まだ。
その夜、ミオはバックヤードで一人、テーブルを拭き終えた後に少しの間だけ動かなかった。
誰も見ていない。
窓の外に小さな光が瞬いた。街灯が一つ、また一つ。
ミオは静かに目を閉じた。
どのくらいそうしていたのかは、わからない。千年生きていると、短い時間の感覚がだんだんあいまいになる。
やがて目を開けて、棚から鍵を取り出した。
明日の弁当のことを考えながら、ミオはシャッターを完全に下ろした。




