2 待ち伏せ(その1)
一人ホバーサイクルに乗って屑鉄平原に向かうノイエを、道行く人々は何事かと思いながら見送ったが、無理矢理に制止しようという者はいなかった。
工場街を抜けて屑鉄平原が見えてくると、往来で通り過ぎる人の姿も無かった。その界隈まで来るとわざわざ積もった結晶を除去しようと作業している者もいない。むしろ旧市街や工場街で回収した結晶を屑鉄平原に廃棄しに来たのだろう、その帰途と思しき空荷のトラックと数台すれ違ったりもするのだった。
やがてそんな車両の影も見えなくなってくる。ノイエはただ一人、無言でホバーサイクルを走らせた。
ところどころに白い結晶の吹き溜まりが残っているものの、地肌が露出している部分もあり、確かに過去に比すれば影響のほどはそれほどでも無かったのだろう。嵐は屑鉄平原の全域を覆う前に、そのほんの入り口でその勢いを失ってしまったのかも知れなかった。
それでも、運悪くホバーサイクルで転んで、その吹きだまりにでも突っ込んでしまおうものなら、命の保証は出来ない。ノイエは慎重に地面の露出しているところをなるべく選んで、先へ向かうのだった。
イゼルキュロスは一体どうなっただろうか。つい昨日通ったばかりの道を、ノイエは進んでいく。〈ブリザード〉が景色を変えていたから不安はあったが、どうにかこうにか迷わずに、イゼルキュロスと別れた場所にたどり着けたようだった。
ホバーサイクルを止め、緩やかな斜面の中ほどを見上げると、銀色に光る例のスーツケースは結晶に埋もれることもなく、確かに今日もそこに残されていた。
ノイエは空のリュックをよいせと背負い直して、昨日と同じ斜面をゆっくりと上っていく。はやる気持ちを抑えながら、転ばないように慎重に歩をすすめて、やがて少年は穴だらけのケースの脇に立った。
「イゼルキュロス……?」
そっと呼び掛けてみたが、返事は無かった。しゃがみ込み、重いグローブにくるまれた手で表面をうっすらと覆う白い結晶をざっと払うと、恐る恐るケースを開けてみた。
だがその中に、イゼルキュロスの姿はなかった。ただ透明な水のようなものが、なみなみと湛えられているばかりだった。
ノイエはしばし呆然となった。
グローブのままに手を差し入れ、すくい取ってみる。水、というには若干とろりとした重い液体のようにも思えたが、何にしても固形物らしいものは何もなかった。イゼルキュロスが自力でここから這い出していったか、それとも誰かが彼女を持ち去ったか……だがノイエ自身がそこにイゼルキュロスと一緒に残したはずの、彼女の身体を包んでいたタオルが、包んだ形状そのままに折り重なってスーツケースの底に沈んでいるのが見えた。それがゆらゆらとたゆたっていたのを見やれば、彼女がどこへ居場所を移したわけでもない事は確かだっただろう。
となれば、やはりイゼルキュロスはあの時本当に死んでしまったのだろうか。別れた時点で生きていたにせよそうでなかったにせよ、〈ブリザード〉の毒素と何らかの化学変化でも起こして、結局このような状態に変化してしまったとでも言うのだろうか。
いや……思い返してみれば、別れ際の彼女の身体は随分とべとついていた。だから少年もここにタオルごと残していったのであって、こういう風に変化するであろう予兆は、あの時すでにあったのではなかったか。
次の瞬間、笑いがこみ上げてきた。
ひとしきり笑った。自分ではどうにも止められないまま、声をあげて少年は笑った。
笑いながら、目の端に涙のしずくが浮かんでくる。
結局、どうにもならないのだ。
メアリーアンを助けたいと願っても、結局はイゼルキュロスに頼ることさえ適わない。誰かの力になりたいと思っても結局はこうなるしかないのだ。ただおのれの無力さを嘆くしかなかった。
どうすればいい。
足元に少しばかり白い結晶が残っているのも構わずに、斜面の中腹にどかっと座り込む。
曇天をぼんやりと見上げても、答えは何も浮かんでは来なかった。
見上げる空を、一羽の鳥のようなものがゆっくりと横切っていく。その羽ばたきをノイエはただじっと眺めるしかなかった。
いや――それが鳥ではないことに、少年はすぐにでも気付くべきだった。
「――!?」
ノイエはその場で飛び跳ねるように立ち上がり、ホバーサイクルをめざして斜面を一気に駆け下りようとする。
そう、上空にいるのは確か、あの日イゼルキュロスを追いかけていた、あの巨大な羽虫ではなかったか。
大慌てで走ろうとするが、分厚い防護服は少年が思うほどには動きやすくはなかった。ノイエがもたもたしているうちに、羽虫はノイエに向かって、ものすごい速度で急降下を始めていた。
走って逃れられるような速度ではなかった。次の瞬間、羽虫は少年のすぐ眼前をかすめるように落下した。いや、落下したのではない――次の瞬間、虫の毒針がノイエの足首をまるで地面に縫い付けるように、少年の左足の甲に深々と突き刺さったのだった。
「――!」
激痛に、声にならない苦悶の叫びが漏れる。
見れば、虫は一匹ではなかった。二匹、三匹、四匹と……一体どこに隠れ潜んでいたものか、続々集まってきては、ノイエに襲いかかってくるのだった。
足首を貫通したのと同じような勢いで狙われたら一たまりもなかっただろうが、虫たちは少年を愚弄するように、毒針を使わずに重い体当たりで突き飛ばそうとするだけのものもあれば、防護服をあっさりと切り裂いて、右の二の腕を深くえぐるように刺しては、素早く飛び去っていくものもあった。
「……ッ!」
とくに、二の腕の裂傷は思いのほか深く、少年は苦悶に表情をゆがめた。
何より痛むのは、最初に受けた左足首への一撃だ。瓦礫の上を歩くのだから当然厚手の靴を履いてはいたのだが、それをすっかり貫通したまま地面にまで深々と刺さっているのだ。その場から足を上げる事も出来ずに、なおも次々と羽虫が襲い掛かってくる中、少年はその場についに膝をついてしまった。
そんなノイエの前に、斜面の上からゆっくりとこちらに下りてくる二人の人影があった。
母子のように見える二人連れは、今この場で遭遇するには実に似つかわしくない相手のように少年には思えた。まるで街角ですれ違うような、何でもないかのようなたたずまいの二人に、ノイエは痛みの中でも困惑を覚えるより他に無かった。
二人連れの母親に見える女性の方が、血を流してうずくまるノイエを冷ややかに見降ろすと、傍らの幼い少女に、諭すような口調で静かに告げるのだった。
「……ライナ。駄目じゃないの。今日の標的はこの少年ではないのよ?」
母親が子供をたしなめるような口調だった。あくまでもやんわりと言い含めるような物言いであって、決して厳しい叱責ではなかった。
少女はと言えば、怯えた瞳で痛みに呻くノイエをじっと見つめるだけだった。
今のやり取りから言えば、この羽虫をノイエにけしかけたのがこの少女という事なのだろうか。落ち着きのない眼差しで少年の様子をちらちらと窺っているが、それは決して、取返しのつかないことをして狼狽しているという風ではなかった。ノイエのような少年であっても、この少女から見ればおのれを脅かす敵として映っていたということか。
ライナと呼ばれた少女はノイエにも一言も声をかけなかったし、かたわらの女性の言葉にも返事を返そうとしなかった。そんな頑なな態度を見やって、女性の方は、しょうがない、と言いたげにため息をついた。
無論ノイエにしてみれば、とてもではないが、しょうがないと言って済ませられる状況ではなかった。
見れば左足首からは相当な量の血がすでに流れていた。失血のせいか、それとも虫の針に何か毒でもあったのか、爪先の感覚が徐々に無くなってきているのが分かる。
せめてこの足の甲の針を抜き去りでもしない限り、この場から這って逃げることすらままならないのだった。誰かに助けを求めようにも、虫達と自分を含めた三人以外、周囲に人影はまったくなかった。
女性――アイボリーはもう一度深々とため息をつくと、今度は実際に、仕方がない、と呟いてライナにそっと耳打ちした。
「虫達にこの少年を見張らせなさい。この怪我だったら何が出来るわけでもないけれど、万が一街に戻ってイゼルキュロスと連絡を取り合ったりしようものなら、少し厄介な事になるだろうから」
ライナはただ、静かにこくりと頷いただけだった。
彼女らの会話にイゼルキュロスの名が挙がって、ノイエははっと身を硬くした。
それを見て、女性の方が冷ややかな眼差しを少年に投げかける。
「その反応。何かが入っていると期待してそのスーツケースの中を確認したのであれば、まったくの通りすがりというわけではないわよね?」
「イゼルキュロスをあんな目に合わせたのは、あなたたちなの?」
彼女はその問いには何も答えなかった。むしろノイエの口からその名前が出たことで、彼女の中で何かしら確信が持てたのだろう、かすかにほくそ笑むと、今度は少年には聞こえない低い声で少女に耳打ちして、彼女はそのまま少年の元を離れていった。
一度降りてきた斜面を一人ゆっくりとした足取りで取って返して、丘陵の上に立つと彼方にある街の様子をじっと窺っているのが見て取れた。
倒れ伏しながらそんな彼女を見ているノイエの周囲に、虫達がさらに寄り集まって、威嚇するようなしぐさを見せる。少女はそんな虫達の様子を窺いつつ、冷ややかな目でノイエを見下ろしていた。
足首の出血はおびただしく、ノイエもそんな痛みにじっと耐えるのも段々と難しくなってくる。
「……もしかして、僕が死ぬまでそこで見張ってるつもり?」
軽口を叩くつもりで少女に話しかけてみるが、彼女は険しい顔を見せるだけで何も答えなかった。どうやら、あまり好かれてはいないみたいだな、とノイエは思った。
ホバーサイクルまで駆け寄ろうと思えば走れない距離ではない。だが傷の事もあるし、そもそもこの少女が少年を見逃してそのような猶予を与えてくれるくれるかどうか。けれどノイエ自身、こうやってここでじっとしていても、無事で済むとも思えなかったし、もし出来うる事なら彼女らの存在をメアリーアンに警告する必要があった。
倒れ伏したまま、ノイエはさり気なくライナの様子を窺う。最初のうちはじっとノイエを見下ろしていた彼女だが、少年がそれ以上何も言わずにぐったりと横たわっているのを見やって、次第にそわそわとよそ見をしたり、離れたところで背を向けてじっと立ち尽くしているアイボリーの方をちらりと窺うなど、注意が逸れつつあるのが見て取れた。
その一瞬を突くより他に無かった。
ライナが気もそぞろに視線を逸らした瞬間を狙って、ノイエは半身を起こし足首から針をえいやと抜き去ると、痛む身体でどうにか立ち上がった。
もつれるような勢いで、斜面を駆け下りていく。足首の怪我ゆえに、さすがに弾丸のように、というわけにはいかなかったが、それでもライナが虚を突かれて呆然としている間に、ノイエとホバーサイクルの距離はぐんぐん縮まっていった。
ハンドルに手を伸ばし、横倒しのまま始動レバーをひねる。エルに調整してもらったばかりのジェネレータは、一発で軽快なうなり声をあげた。




