4 逃亡者たち
スレイトン医師にしてみれば、その日は困惑することしきりであった。昼間に見慣れない来訪者があったかと思えば、その二人連れの片方が夕刻になって変わり果てた姿で転がり込んできたのだから、無理もない。
結局、アシュレー達がその晩エッシャー大尉に紹介された宿舎にたどり着くことはなかった。彼はすぐさま怪我の治療を受け、ミハルもそれに付き従って一夜を明かすこととなった。
瀕死の重傷と思われたアシュレーの身体は、一晩で目を見張るような回復を示した。翌日、正午近くになって意識を取り戻した彼の傍らには、ミハルが無言で控えていた。
「アシュレー」
「ん……何だか身体の調子がまだ戻らない」
「興味深い報告がありますよ」
「……なんだ?」
「メアリーアンの遺体から回収した例の黒い物質ですが、分析結果が出ました」
「何だって?」
「同じものがあなたの傷からも採取されたので、スレイトン医師が気にかけて成分比較を行ってくれたのです。照合の結果、成分は一致したそうです」
「俺の傷からという事は、あの羽虫か?」
「メアリーアンも同じ羽虫に襲撃されたとみて間違いないでしょう。あれだけの大きさですから単純に深い傷にはなるでしょうけど、あの黒い物質にも、相当量の麻酔成分が含まれていたそうです。かなりの即効性で、毒性も強い。……あなたがあの場でしばらく立っていられたのは、ある意味奇跡だったのかも」
ミハルはあくまでも冷静な表情のままだったが、アシュレーの無事が確認できて安堵しているのか、それとも有益な報告が出来たのがうれしいのか、どこか晴れがましくみえたのは、気のせいだったろうか。
「もう一つ。つい先ほどですが、昨日我々を送ってくれた伍長が、この資料を届けてくれました」
彼女の手の中に、ざらついた質の悪い再生紙の封筒があった。
「昨日私達が訪問した際、エッシャー大尉の方で念のため〈王都〉の情報省に照会をとったのだそうです。そうしたら、先方より我々の任務に関する資料一式を、夜中のうちに電信で送ってきたとの事です。ここにあるのが、そのプリントアウトの一式ということになります。私も今さっき目を通したところですが……」
どうぞ、と手渡された資料に、アシュレーはぱらぱらと目を通す。頭がまだ少し痛むせいか、それを精読するだけの集中力が戻ってこない。
だが隅々まで目を通さずとも、それが非常に興味深い内容であることはすぐに分かった。
「試作被験体に関する資料じゃないか」
「この街で消息を絶ったとされる追跡者は三チーム。彼らが追跡していた被験体に関する資料が、三体分すべてここに揃っています」
「機密文書じゃないか。こんなものを電信で送りつけてくるなんて、不用心もいいところだ」
そう言いながら、ざっと目を通していたアシュレーの手が、とあるページで止まった。
ミハルもそれに目を落としつつ、言う。
「試作実験体〈ライナ〉です。恐らく昨日、私達を襲ったのは彼女です」
「……」
「彼女は、同じく試作型の攻性生物である〈BEE〉を、精神感応能力で制御するために作られた個体です。BEEは複数個体で群れをなし、その群れ同士が精神感応で結ばれることで一つの個体のように思考し、状況判断、連携を取りながら標的を撃破していくことが出来る……とその資料にはあります。そのBEEを統括する、司令塔のような役割を持つのが、この〈ライナ〉なのですね」
「……そのライナが、この街にいるというわけか」
「昨日のBEEが何よりの証拠です。あれは自然発生した生物ではありませんよ。……それに」
「それに、何だ?」
「その資料によれば、ライナは精神感応能力の研究ベースとして開発された純粋な試験体であって、厳密には正式採用を前提としたプロトタイプではないとされています。ほら、資料のここに記述がありますが……彼女は人間で言えば十歳前後の子供に過ぎません。〈BEE〉の戦闘能力がいかに強大かは昨日見た通りですけど、この資料のままのスペックで、本体である彼女の方は、果たしてスタンドアローンでの運用に耐えうるでしょうか?」
「お前が何を言いたいのかは分からなくもない」
アシュレーは言葉を切ってひとつため息をつくと、先を続けた。
「要求されたスペックを満たしている事と、そいつが戦場で適切に運用されうるかどうかは別の問題だ。……逃亡という行為そのものが、試作被験体にとっては終わりのない実戦のようなものだからな」
「いかに〈BEE〉が強大と言っても、本体は普通の子供です」
「いくら何でも今まで追跡の手を逃れて旅をしてこられた事自体が奇跡なんじゃないか……お前はそう言いたいんだな?」
アシュレーは資料のページを行ったり来たりさせつつ、考えを巡らせる。
「試作体〈ライナ〉、〈アイボリー〉、〈サラエサラス〉……イゼルキュロスにもメアリーアンというこれ以上ない旅の相棒がいたように、ライナが生き残ってこれたのも、やはり他に協力者というか、味方がいたんだろうな。か弱い女の子一人、かくまったり手助けしてくれそうな親切な人間が誰かしらいないこともないだろう。それが、この資料の他の二人のように、同じような境遇の逃亡者となれば、なおさらだ。……覚えているか? 昨日路地ですれ違った二人連れ。あの片方は、十歳くらいの小さな女の子だった」
「そうですね。確かに」
「資料によれば、この〈アイボリー〉の方は、外見は二十代半ばの女性となってる。……つじつまは合う」
そもそも完全に同種ではないにせよ、同じ研究機関で同じようなDNAをベースに作り出された生き物であるなら、人間の姿をしているときの顔立ちがそれとなく似てしまうということもあり得ない話ではなかっただろう。資料に顔写真まで付いていたわけではなかったが、似ている、という昨日の段階でのミハルの指摘はあながち的外れでも無かったのかも知れなかった。
「それに、メアリーアンの死体にあった傷と、あなたが受けた傷が同じものだったという事は……彼女たちは我々だけではなくて」
「イゼルキュロスらもまた、ライナたちに命を狙われた。その上でメアリーアンはイゼルキュロスをかばうなり、逃げ遅れるなりかして致命傷を負い、命を落とした。……でも、何故だ? 試作被験体達が結託して俺達のような追跡者に逆襲しようというのなら話は分かるが、イゼルキュロスはそういう意味じゃ、むしろ連中にとっては味方のはずだ。なんで狙われなくちゃいけない?」
「そもそもライナやアイボリーと言った被験体が、個人の判断でイゼルキュロス排除を必要とするでしょうか。我々の場合は新たな追跡者だと思われたのかもしれませんが……」
「仲間が三人も揃えば、個々人の思惑とは離れた、グループとしての思惑も色々出てくるんじゃないかな?」
「ライナやアイボリーとは別の人物の意向だと? そもそも同じ街に潜伏しているからと言って、連帯していると決まったわけでは」
「残る〈サラエサラス〉がどうかは分からんが、少なくともアイボリーとライナは一緒に行動している可能性が高いわけだし、三人一緒の方が敵に回すとなると厄介だ。あまり楽観せずに、そういう想定をしておいた方がいいだろうな」
「だとしたら、私たちはどうすればよいのでしょう?」
「まずは、傷を治すさ」
「それから?」
「イゼルキュロスの件はともかくとして、そのライナたち試作実験体グループの目的は、追跡者や俺たちを含む、彼らにとっての敵対勢力の排除と見て間違いないだろう。……つまり、俺がまだ無事に生きていることを知れば、連中はもう一度接触を試みてくるはずだ」
自信たっぷりに言い切ったアシュレーだったが、ミハルがすげなく言い返す。
「それはつまり、あなた自身が囮になるという事ですか?」
「別にお前を頭数に入れても構わないと思うが」
「次はこれだけの負傷で済むとは限りませんよ?」
「それもそうだが……仕方ないだろう。俺を邪魔に思うのは連中の都合なのだし、俺も手ぶらで街を退散するわけにもいかないし」
そう言って苦笑したアシュレーに、ミハルが憮然とした面持ちを見せた。
「……あまり、世話を焼かせないで下さい」
そんな折だった。アシュレーの病室に、昨日対面したスレイトン医師が慌ただしく駆け込んできた。医師は病室のベッドの上で半身を起こしているアシュレーの姿に、少し面食らった表情を一瞬垣間見せたが――無理もない、傷の具合から言えばそこまで回復しているはずがないのだ――挨拶もそこそこに、こんな事を言い出すのだった。
「……あんたは昨日、やけに例の遺体の事をしつこく訊いていたな?」
「ん? ああ、気を悪くしたんなら謝るが」
「いや、そうじゃない。ちょっと気にかかって、つい今しがた遺体の様子を見に行ったんだ。そしたら……」
「そうしたら? 一体どうなっていたというのですか?」
ミハルが促すと、医師は蒼白になりつつ、震える声で答えた。
「遺体が、消えていた」
「……」
その回答にミハルは思わずアシュレーを見やる。彼はそれを聞いて何やら複雑な表情を見せてはいたが……少なくとも意外に思っている風ではなかった。
「本当にきれいさっぱり消えていたか? 何かしら、痕跡を残してはいなかったか?」
「消えていたというか……あれはもしかしたら溶解した、とでも言うべきなのかも知れない。遺体が安置してあった場所が水浸しだった。……いや、まだ水と決まったわけではないから、無色無臭の液体というべきだろうが……あれは一体なんだ? 君はこうなることを知っていたのか?」
「だから」
アシュレーは苦笑いを浮かべながら、手短に答えた。
「だから、何か気付かなかったか、と訊いたんだよ」
(次章につづく)




