3.
「篠原悠真です。前は隣の市の高校にいました。サッカーを少しやっていました。まだ分からないことばかりなので、よろしくお願いします」
声は、思っていたより普通だった。低すぎるわけでも、高すぎるわけでもない。緊張して少し硬くなっている、どこにでもいる高校生の声。そのことが、紗良にはかえって苦しかった。怪物のような声ならよかったのにと思った。憎むための形がはっきりしていれば、もっと楽だったかもしれない。
けれど、教卓の前に立っているのは、ただ緊張した転校生だった。自己紹介の最後に軽く頭を下げ、拍手を受けて少しだけ肩の力を抜く。周囲の生徒たちはそれを見て、普通に受け入れようとしている。教室の中で、過去を知っているのは自分だけなのではないかと紗良は思った。
藤枝先生はどこまで知っているのだろう。学校は知っているのだろうか。祖母は、転校生の名前を知らされていたのだろうか。いくつもの疑問が胸の中で重なったが、どれも今ここで確かめることはできなかった。確かめれば、教室の床が急に割れて、十年前の場所へ落ちていきそうだった。
「席は、後ろから二番目の空いているところね。窓側から三列目」
先生の声に続いて、彼が歩き出す気配がした。教壇を下りる足音。鞄の金具が小さく鳴る音。机の間を通るとき、生徒たちがわずかに身体を引く気配。紗良は、絶対に振り返らなかった。
彼が近づいてくる。自分の列の横を通るわけではない。それでも、同じ教室の中で距離が縮まっていくことが分かった。背中ではなく横顔で感じる圧迫感。空気の温度が少し変わるような錯覚。紗良は教科書の角を見つめ、右足の指だけを靴の中でそっと丸めた。
怖い、とは思わなかった。怒り、と呼べるほど形のあるものでもなかった。ただ、身体が覚えているものがあった。燃えた車の匂い。窓の外で揺れる赤い光。誰かが自分の名前を叫んでいた声。思い出したくないものは、思い出すより先に身体の方へ戻ってくる。
彼が席に着く音がした。椅子の脚が床をこする短い音。それだけで、紗良はようやく呼吸をひとつ深く吐いた。終わったわけではない。むしろ、始まってしまったのだと思った。
この教室に、篠原という名字がある。黒板から消されても、出席簿に閉じられても、もうそれは今日の朝の出来事として紗良の中に残ってしまった。忘れられない名前が、同じ教室の後ろの席に座っている。
ホームルームが終わると、教室はいつもの教室に戻っていった。藤枝先生が出ていく音、椅子を引く音、机の上に筆箱を置く音。誰かが笑い、誰かが転校生の方へ身体を向ける。数分前まで紗良の中で水の底のように遠のいていた世界が、急に輪郭を取り戻していく。
紗良は席を立たなかった。立てなかった、というほどではない。けれど今立ち上がれば、膝の力が抜けるかもしれないと思った。だから、次の授業の教科書を机の上に出し、ノートを開き、シャープペンシルの芯を出した。いつも通りの動作を、いつもより丁寧に繰り返す。
後ろの方から、朝倉の明るい声が聞こえた。
「篠原って呼んでいい? 俺、朝倉。朝倉圭太」
その声に続いて、篠原悠真の返事がした。短く、少し緊張した声。紗良はペン先をノートの端に置いたまま、文字を書かずに止まっていた。聞かないようにしても、耳は勝手に拾ってしまう。
サッカー部だった。隣の市から来た。家の都合で転校してきた。会話の断片が背中の後ろから流れてくる。どれも、転校生に向けられる普通の質問だった。普通すぎて、紗良は少し息が苦しくなった。
普通の質問には、普通の答えが返る。そこに十年前の事故は入ってこない。誰も知らないのだから当然だった。朝倉も、森も、仁科も、篠原悠真という名前を今日初めて聞いた転校生として受け取っている。それを責めることはできない。
責めることはできないのに、紗良はひとりだけ別の場所に取り残されている気がした。同じ教室にいて、同じ机に座り、同じチャイムを聞いている。それなのに、自分だけ十年前のあの事故現場に片足を置いたまま、ここにいる。




