4.
「水瀬さん、静かでしょ」
自分の名前が出た瞬間、紗良はペン先をノートに押しつけた。芯が小さく折れる音がした。誰かが気づくほどの音ではない。けれど、自分の中ではひどく大きく響いた。
『静かでしょ』と言った仁科の声に悪意はなかった。むしろ、転校してきたばかりの相手にクラスの人間関係を教えようとする、いつもの親切さがあった。紗良はそれを知っている。仁科は必要以上に踏み込まない。けれど、距離を置きすぎて冷たくなることもない。その加減を、たぶん感覚で分かっている人だった。
それでも、自分のことが後ろで説明されているというだけで、紗良の背中は薄くこわばった。静か。感じ悪いわけではない。話しかけづらい。成績がいい。提出物が早い。そういう言葉で自分という存在が形作られていくのを、本人だけが前を向いたまま聞いている。
朝倉が何かを言い、仁科がそれに軽く返す。森の低い声も混じった。三人のやり取りはいつも通りだった。紗良を笑いものにしているわけではない。噂話をしているわけでもない。むしろ、転校生が不用意に距離を詰めすぎないように、柔らかく道案内をしているのだと分かった。
分かっているのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。自分はいつから、説明が必要な人間になったのだろう。近づき方を誰かに教えてもらわなければならない存在になったのだろう。そう思ってしまう自分が嫌だった。みんなは気を遣ってくれている。その気遣いに救われたことも何度もある。
けれど、救われるたびに、自分が普通ではないのだと思い知らされる。普通に扱ってほしい。けれど、普通に扱われすぎると耐えられない。踏み込まれたくない。けれど、誰にも見られないまま過ぎていくのも、ときどき息が詰まる。その矛盾を、紗良は誰にも説明できなかった。
「水瀬さんは、無理に話しかけないほうが話しやすい人っていうか」
仁科の声が少しだけ低くなった。紗良はその変化を聞き逃さなかった。仁科はたぶん、自分を守ろうとしてくれている。知らない相手に、いきなり距離を詰めないで、と遠回しに伝えてくれている。
転校生がどんな顔をしているのか、紗良は見なかった。見なかったが、自分の方へ視線が向いた気配は分かった。人に見られる感覚は、事故のあとから少し鋭くなった。病室で、診察室で、親戚の家で、学校で。知らない大人たちに何度も見られてきた。かわいそうに、という目。大丈夫そうでよかった、という目。どう接すればいいか分からない、という目。そういう視線を、身体が先に覚えている。
篠原悠真の視線は、そのどれとも少し違う気がした。直接見たわけではない。ただ、背中の後ろにある気配が、迷っているようで、探っているようで、どこか安心したがっているように感じられた。紗良はその感覚をすぐに打ち消した。相手のことを勝手に決めつけるのはよくない。自分がされて嫌だったことを、同じように返してはいけない。
けれど、胸の奥の冷えは簡単には消えなかった。
「話しかけたらちゃんと返してくれるし。嫌われてるとか、そういうのじゃないから」
仁科のその言葉に、紗良は小さく息を吐いた。嫌われているとか、そういうのではない。確かにそうだ。紗良は誰かを嫌いたくて距離を取っているわけではなかった。朝倉がうるさいから避けているわけでも、森が無愛想だから苦手なわけでもない。仁科の明るさが嫌なのでもない。
ただ、長く話すと、相手がいつか自分の話を聞きたがるのではないかと思ってしまう。家族のこと。足のこと。体育を見学する理由。夏でもタイツを手放さない理由。病院へ行くために早退する日がある理由。尋ねられたくないことは、生活のあちこちに散らばっている。
だから、最初から少し離れている方が楽だった。離れていれば、説明しなくて済む。説明しなければ、相手の顔が変わる瞬間を見なくて済む。かわいそうに、という目をされる前に、普通の距離で終われる。
けれど、その普通の距離を保つことにも疲れる。紗良はノートの端に、折れた芯で小さな点をいくつも打った。意味のない点だった。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えている間だけ、後ろから聞こえる篠原という名前を少し遠ざけられる気がした。
次の授業のチャイムが鳴る直前、紗良はようやく折れた芯を取り替えた。深く息を吸い、吐く。後ろの席にいる転校生を振り返ることはしなかった。振り返らないことだけが、その時の紗良にできる、唯一の平静だった。




