2.
藤枝先生が転校生を連れてくるという話は、前日のホームルームで聞いていた。誰が来るのか、どこから来るのか、クラスの何人かは朝から少し浮き足立っていた。紗良はその話題に加わらなかった。転校生が来る。クラスメイトが一人増える。それだけのことだと思っていた。
扉が開き、藤枝先生が入ってきた。教室のざわめきが少し弱くなる。先生の後ろに立つ男子生徒の姿が見えた。紗良は顔を上げたが、その時点ではまだ何も思わなかった。知らない制服姿の男子。ただ、それだけだった。
先生が黒板にチョークを当てる。白い線が、ひとつずつ文字の形になっていく。
篠原 悠真
最初に目に入ったのは、名字だった。
【 篠原 】
その二文字を読んだ瞬間、教室の音が遠くなった。椅子を引く音も、誰かの囁き声も、雨の気配も、全部が水の中に沈んだように鈍くなる。紗良は黒板を見たまま、指先が冷たくなっていくのを感じた。
忘れるわけがなかった。
新聞記事の切り抜き。裁判所の廊下。祖母が消したテレビ。父方の伯父が低い声で読んでいた書類。大型トラックの運転手の名前。その家族の名字。何年も口にしなかったのに、忘れたことは一度もなかった。
篠原。
紗良は息を吸うタイミングを失った。胸の奥に薄い膜が張ったように空気が入ってこない。それでも、机の下の両手は動かさなかった。視線も逸らさなかった。ここで何か反応すれば、周囲が気づく。気づかれれば、説明しなければならなくなる。
説明する言葉なら、昔からいくらでもあった。事故で家族を失った。自分だけが生き残った。右足に傷が残っている。今も治療は終わっていない。けれど、その言葉を口にすると、自分の一日が全部その事故の続きに変わってしまう。紗良はそれが嫌だった。
だから、まばたきをひとつした。指先に力を入れ、膝の上で握りこまないように手を開いた。机の木目を視界の端に置き、呼吸の速さを数える。吸って、止めて、吐く。それだけに意識を集中させる。保健室で教わったわけではない。何度も過去に引き戻されそうになるたび、自分で覚えたやり方だった。
藤枝先生の声が、遠くから戻ってきた。
「今日からこのクラスで一緒に勉強することになった、篠原悠真くんです」
篠原悠真。先生が口にしたその名前は、黒板に書かれた文字よりもさらに現実味を持って紗良の耳に届いた。字なら、目を閉じれば消える。けれど声になった名前は、教室の空気に混ざり、机の上や窓枠や制服の布地にまで染み込んでいくようだった。
前の学校ではサッカー部だったらしい。先生がそう説明すると、教室のあちこちで小さな声が起きた。誰かが「サッカー部だって」と言い、別の誰かが「背、高いね」と囁く。紗良はその声の方向を見なかった。見れば、自分も同じように彼をただの転校生として扱わなければならなくなる気がした。
ただの転校生。隣の市から来た男子。サッカーをしていたらしい人。昨日の始業式には間に合わず、今日から同じ教室で授業を受ける同級生。そう考えれば、何もおかしくないはずだった。けれど、紗良の中では、その前に別の言葉が必ずついた。
あの事故を起こした人の息子。
その言葉が頭の中で形になった瞬間、右足の奥が熱を持ったように疼いた。雨のせいだけではない。タイツの下で傷跡が急激に存在を主張し始める。椅子に座っているだけなのに、皮膚の境目が布に擦れている感覚がはっきり分かった。
「じゃあ、篠原くん。ひと言、お願い」
藤枝先生がそう言うと、教室の空気が少しだけ前に傾いた。紗良は視線を黒板の端に置いたまま、転校生の声を待った。聞きたくないと思った。けれど、聞かないでいることもできなかった。




