第19話 オンシエン王国の片隅で
「お先に失礼します」
ウルリカは室内に礼をして、職場を後にした。
家までの足取りは重い。後ろから歩いてきた老人が追い抜くまでの間に、手にした革袋の中から銅貨三枚を抜き取った。
銅貨三枚。パン一つも買えないが、それが旦那を欺けるギリギリの金額だった。
夜なべしてバッグの底に拵えた隠しポケットの中に銅貨を滑り込ませる。
道中には、売れ残った野菜のたたき売りや、それらを活用した総菜の販売がされていた。少し歩けばパン屋からも、焼けた小麦のいい匂いが漂ってくる。
胃を刺激するそれらから目を背けて、でも足早には通り過ぎれない。この通りを抜けた先が、ウルリカの家だからだ。
帰りたくない。でも帰らなきゃ。
石畳の上で足がゆっくりと前に出る。それを恨めしく思うのはもう何度目だろう。
「やーねえ」
どこからか聞こえてきた声に心臓が縮こまった。気取られないように、視線は地面に固定したまま、耳をそばだてる。
「そういう子には、びしっと言ってやるくらいがちょうどいいのよ」
明るい女性たちの声が飛び込んできた。子育ての井戸端会議のようで、ほっと詰めていた息を吐き出す。
雑踏の声が、自分に向けられているのではないか。そう神経を張り詰めるようになって、どれくらい経っただろうか。
やがて、路地の少し奥まった場所に辿り着いた。
通りを歩いていた時とは違う緊張感で、体が強張る。革袋を持つ手が汗ばむ。
深呼吸を三回して、息を止めてドアに手をかけた。
ゆっくりと、蝶番が鳴かないように祈りながらドアが明けられる。
「…………ただいま」
「遅いっ!!」
蚊の鳴くような声に対し、室内から怒号と酒瓶が飛んできた。目の前をかすめたそれが壁に当たって砕ける。
「さっさと寄越せ!」
大股で近付いてきた旦那のオリンドが、ウルリカの手から革袋を奪う。その場で中を検めて、舌打ちした。
「チッ、こんだけしか稼いでこれないのかよ」
「……ごめんなさい」
「あーあー、あいつの方がよっぽど稼いでいたぜ? もっと頑張れよ」
そう言い捨てて、オリンドは出て行った。乱暴に閉められたドアに背中を預け、その場に座り込む。
「……はあ」
ため息が出る。ため息をついたら幸せが逃げるなんて誰かが言っていたけれど、そうしなければやっていられなかった。
(ここまで横暴だとは思わなかった)
ウルリカは思う。
いや、結婚前からその片鱗はあった。けど、見て見ぬふりをしたのだ。
ウルリカがオリンドと出会ったのは偶然だった。働いていた酒場で絡んできた酔っ払いの一人だったが、その美貌に目を奪われた。
背が高くて、彫りが深い顔。切れ長の瞳。ちょっと長めに伸ばした髪。
どれもウルリカの好みにドンピシャだった。指輪がなかったから独身かと思い、猛アタックした。
後に既婚者だと知ったし、周りからも「やめなよ」と言われた。けれど、そう言われれば言われるほど、ウルリカは彼を手に入れたくなった。
一度、妻が営んでいるという店の前を通りかかった。
肌の手入れもロクにしない、薄汚い作業着に身を包んだ女。彫金師と言う変な職業についているのも気に食わなかった。
若さも、見目の良さも、すべて自分が上回っている。金がないとボヤくオリンドに同情し、自分の方がずっと稼げるのにと囁いた。
そうして奪ってやったのに、待っていたのは理想と程遠い生活だった。
オリンドは働いたことがなかった。いくつかの仕事を試した挙句、ことごとく追い出されたらしい。そのくせ、金遣いは荒かった。
ウルリカの生活費など考えておらず、あればあるだけ酒に消える。持っていたアクセサリーもいつの間にか質屋に入れられていた。近所の人が気付いてくれなければ、あっという間に餓死していただろう。
(今日は、なにか食べれるかな)
バッグの底を漁る。隠しポケットに溜めた小銭は数十枚。これなら閉店間際の安売りパンが買えそうだ。
オリンドは家の中にあるものすべてを自分の所有物だと思っている。大事に食べようと思っていたパンを、翌日すっかり平らげたのを見た時は膝から崩れ落ちそうになった。
「……仕事、は、今日は休みか」
顔を上げて、また伏せる。
オリンドがこんな風だから、ウルリカは昼と夜で仕事を掛け持ちしていた。夜の酒場の仕事は、面倒な客が多くても収入がいい。なにより賄いがある。ウルリカの大事な生命線だった。
それが今日はない。休みなく働く彼女を店長が気遣った結果だが、ウルリカにとっては有難迷惑だった。
でも働きづめでクタクタなのも事実。ベッドまでの距離が億劫だったが、ここで寝ても旦那に蹴っ飛ばされるだけ。ウルリカはドアに体を預けるようにして立ち上がった。
そこに、コンコン、とノックの音が響く。
「ウルリカ、いる?」
控えめに呼びかける声に、ウルリカは安堵した。
ドアを開ける。そこには年上の女性がかごを手に立っていた。彼女もまた、安堵したように顔をほころばせる。
「ああ、よかった。中に入っていい? お茶を持ってきたの」
「……ありがとう、トゥーナさん」
会釈をするように礼を言って、中に招き入れる。
空の酒瓶を片付けて、窓を開けて換気する。いくらか酒臭さが減ったテーブルに、向かい合って座った。
トゥーナは、ウルリカたちが追いだした元妻の常連だった。彼女が情報通だと知ったのはつい最近である。それまでは「なにかと気にかけてくれる優しいおばさん」という認識だったから、ウルリカは自分のおめでたさに頭痛を感じていた。
だが、お金を巻き上げられてひもじい思いをしていた彼女を助けてくれたのもまた、トゥーナだった。空腹で動けないウルリカが、オリンドの手で路地に投げ出された現場に偶然居合わせたのだ。トゥーナはオリンドに怒るよりも先に、ウルリカの手当てに回った。あの時に飲ませてくれたスープの味を、ウルリカは今でも覚えている。
「はい、お茶」
と言ってトゥーナは、かごからスープ皿とポット、そして野菜と肉がそれぞれ挟まったサンドイッチを取り出した。
「いつもすみません」
「いいのよ。あたしがやりたくてやっているから」
恐縮するウルリカと、けらけら笑って手を振るトゥーナ。このやり取りも恒例だ。
「では、いただきます」
ウルリカは迷って、肉のサンドイッチから手を取った。ほぼ一日ぶりの食事だ。これがあるだけで生きられる。
「今日ね、二つ隣の通りに住んでいるエリーザさんのところで子猫が生まれたんだって」
「……そうなんですか?」
「あたしも話に聞いただけなんだけどね? 夜中からにゃーにゃーうるさいなーと思ったら、母猫が四匹も子を産んでいたんだって!」
「すごい。育てるんですか? その人」
「どうだろう? 半分野良だって言うから、同じようにするかもしれないね。ネズミはどこにでもいるから」
ウルリカは食べながら頷く。特に食べ物屋でネズミは天敵だ。一般の家でもネズミ対策で猫を飼う家はある。ただやはりお金がかかるので、本格的に買う家は少なかった。
「そうだ、猫繋がりで言えばさー……」
トゥーナは情報通だから、職場と家を往復するだけの生活をしているウルリカに色々な話を提供してくれる。自分はそれに相槌を打つくらいしかできないが、数日もしないうちに入ってくる話はありがたかった。
どこそこの工房で弟子が師匠の作品を割って怒られた。野菜がちょっと値上がった。近所の坊ちゃんがついにおねしょをしなくなった……。
一つ一つはくだらなくても、疲れた心をほぐすようにしみ込んでくる。
(自業自得でも、こうして気にかけてくれる人がいるってありがたいなあ)
トゥーナがウルリカとオリンドの不倫を広めた張本人であることは、ウルリカも気付いていた。いや、酒場などでは公然の秘密扱いだったのだ。オリンドが離婚、再婚する直前から話は広まり、一時は職場でも同僚とギスギスしていた。
ウルリカがオリンドに投げ飛ばされた事件以降は、憐れみの視線の方が多くなったけど。
(……早く別れたいな)
早く自由になりたい。
そう思うたびに、左手の薬指がきゅっと締め付けられる。
指輪は嵌めたその日から、一度も二人の手を外れたことがなかった。




