05 渇望
ユキは逃げ場のないマンションの部屋でただ、咲夜の帰りを待つしかない。
大体オートロックの扉相手にどうすればいいのか。
カバンの中のスマホを取り出す。こんなもの、一番最初に取り上げられるかと思ったが、以外や意外。まだ手元にある。電話のボタンを押すとずらりと一覧が出た。
これにかければ、もしかしたら…助けて貰えるかも。でも、もしもばれたらどうしよう。もしも?ううん……絶対にばれる。
きっと気絶するまで殴られて、その後はずっとベッドから出して貰えなくなる。
もう、こんな生活を続けて半年が経つ。仕事はとうに首になった。キャリアは積めなくても、生きてさえいければそれで良かったのに。
再び泣きそうになって立ち上がる。お風呂に行って身体を洗った。身体のあちこちについているアザ。一つ一つを痛みと一緒に思い出す。シャワーで汚れを流すと昨夜の情事の跡が綺麗さっぱり押し流されていった。身体の中で残っているもの以外は。
めちゃくちゃに酷くされた後はいつもとても優しくなった。声も、仕草も、面倒見の良さも段違いだ。
いつものように部屋着に着替えて、いつものようにご飯をほんの少し食べて、いつものように夜まで眠る。
毎日が夜勤みたいな生活でリズムが生まれた。
橘咲夜…彼はなぜ、私を選んだんだろう。奥の突き当たりにある彼の部屋に入って、そのあまりのおぞましさに顔をしかめたのを覚えている。
「私」「私」「私」「私」「私」……右を見ても左を見ても、「私」だった。
職場での私、スーパーで買い物をしている私、風呂に入っている私、友達と遊んでいる私、寝てる私。
初めて見たときは吐いた。
二回目に見たときは嫌悪した。
三回目に見たときは何も感じなかった。
そこにあるのは、ただの写真だ。
そう思った。
ユキはうたた寝から目が覚めて、空を見上げた。
咲夜の部屋に入る。ありとらゆる角度から切り取られ、精査され、補填された「私」がその部屋にはひしめいている。本棚を開ければまだ高校生の時の私が笑ってる。これは入学式の頃の写真だ。こんな時から私を知り、私を分析し、私を掴もうとしていた人間がいたことに、ユキは純粋に驚く。
外側から見た私達が自分に対して笑っていた。
ふと、何かを思い出しそうになった。
私には頭の中に小さな頃から響く声がある。不思議な旋律、不思議な歌詞。気づいた時にはそれを口にしていた。歌いながらユキはわかっていた。
私はこの歌を知っている、と。
橘咲夜が帰ってきた。面倒だから咲夜でいい。食事の後のゆっくりした時間。コーヒーが得意ではない私のために甘いココアを淹れていた。
そんな彼の後ろ姿を見ながら私は自分の携帯を見ている。逆らわなければある程度の自由は許されていたからまだ、マシだ。
気まぐれのように殴り、優しくし、自分をコントロールしようとしてくる男との生活に不思議な安堵を感じている。
当然だ。この閉じた世界では彼が支配者なのだから。
支配者に逆らえば逆らっただけの、従えば従っただけの結果がくる。
殴ることで身体に痛みを覚えさせ、甲斐甲斐しく世話を焼き、頭を撫でて甘やかすことで安心感を与える。
恐怖の後の安心は、この関係性を自分から手放せないものにする。
安心が恐怖から生まれているからだ。
そんな事を思いながらココアを飲んでいると咲夜が一枚の紙をカバンから取り出した。それを見てわずかに動揺する。
だけど、咲夜が見ている。何一つ、見逃さないとでも言うように。
彼は黙って、ボールペンを置く。私はそれを、震える手で取る。紙にサインする。
その瞬間から、私は橘ユキに変わった。
「偉い偉い。よく書けたね」
咲夜が嬉しそうに笑う。そしてユキを抱き抱える。そっとベッドに寝かせてのしかかった。
「これから、一生、一緒だね」
俺のことは「咲夜」って呼んでね、と耳元で囁く。「一生一緒」という言葉が自分の頭にリフレインする。
「……なんで、私なんですか」
ずっと聞きたかったこと。聞けなかったこと。
するりと口をついて出た。
「どうして私なの、か。知りたい?一目惚れだよ」
にっこりと笑って耳元で囁く。舌を自然に入れてきた。塞がれた脳内にぴちゃぴちゃという水音が響く。
「高校の入学式の日に、桜の下で笑いながら一人で花びらを掴もうとしていたね。覚えてる?」
「覚えてる」
夫になった男が妻となった女との出会いについて思い出話を語っている。ごく当たり前の出来事のように見えて、それはまた、加害者から被害者への告白でもあった。
「俺、それを見てた。そういうの、友達と一緒にやるもんだろ……普通さ。俺だって仲間とつるんで花びらシャワーにはしゃいだことくらいある」
ユキは自分の中に無遠慮に入ってくる大きな男が友人達と花びらを掴もうと無邪気に跳び跳ねる姿を想像した。
気色悪かった。
「はは、失礼なこと考えてるね。殺すよ?」
冗談でも比喩でもない。咲夜はきっと、殺すと言えば殺すだろう。
「でもユキは一人でやってた。たまたま偶然?いいや、違う。そこには全てがあった。俺は息を呑んでそれを見つめた。くるくると廻る女の子、桜の花弁、天に伸ばす両腕、笑い声…至福に満ちた……わかるかい?世界が完全だったんだよ。そのとき、俺の世界も完全になった。ユキは俺の運命……手に入れなければいけないんだ。この感覚、分かるだろう?」
……ごめんなさい、全く分からないです。
それが咲夜を狂気に駆り立てた理由らしかった。世界が完全だった、それに魂を鷲掴みにされた。
彼は確かにそう言った。




