21 もう1本の枯れ枝
ユキに手を引かれ、最後の部屋の前に立つ。涙が後から後から流れ続けた。この部屋が最後なんだと咲夜はもう、知っていた。
扉を開けて部屋に入る。ぐちゃぐちゃの部屋。血が飛び散って腐臭がする。血が転々と床に散り、真ん中の粗末なベッドに続いていた。
こんもりとした膨らみがガタガタと揺れている。違う、と咲夜は思った。あれは恐怖に震えているのだと…
でもそんなことない。それくらいのこと、咲夜は、分かっていた。
ユキにしがみつく。足の力がなくなった。がくがくと震えて、とうとう、細い白い足にしがみついた。
「……ユ、キィ…ユキッ……ユキ……いや…だ…たすけてっ……」
190cmの大きな男が幼い口調で150cmの女の足にしがみつき、怯えていた。
水音、呼吸音、皮膚の音、ギシギシと、安いベッドが鳴る。中で呻く声が聞こえる。
「……んっ…ああ…ふっ…んう……いいぜ……ああ……最高……最高に……気持ちいい……」
中で何が行われているのか、誰に聞かなくても分かる。それに……それに……この、声は。
シーツの中のかたまりが忙しなく動き、切ない声が中から響いた。
「ああッ…ああッ…ああああッ………出る…出すぞッ………」
甘く低い獣のような声が響いてしばらくは生々しい息の音が室内に響いた。
そうしてベッドの揺れが収まると、見覚えのある顔の男が出てきた。咲夜と顔が似た男。どこか野性味のあるそれは……彼の兄の顔だった。
彼は手早く身仕度を整えて満足したように一息つく。足元にすがりつく咲夜はもう、吐いていた。
ベッドの膨らみが小さくなり、枯れ枝のような手がヌッと突き出ている。同じ……兄と同じ、腕だった。
何の反応もないその手を見知った顔の男がそっと掴んだ。
「もっと食わねえとダメだぜ。俺は肉付きがいい方が好きなんだからよ」
手を大事そうに撫でた。ゆっくりと腕に手のひらを這わす。小さく脆い指を1本1本丁寧に開くと男は自分の指を絡めて唇を寄せた。
「じゃあ、またあとでな」
ユキがふわりと枯れ枝に近づいた。手を取った。咲夜はもう、止めなかった。
ユキもまた、枯れ枝の掌に口づけを落とす。咲夜は泣きながらそれを見ていた。枯れ枝の掌をユキの額にそっと押し当てると大きく一つ、息を吸った。
あの、小さな神の歌を歌った。全身を震わせて、燃え盛る業火は部屋の中でも燃えていた。真っ黒の煙がブスブスと音を立てて部屋の片隅で揺れていた。
「…………ユキ………」
咲夜が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。その目は暗く、暗く、暗く……諦めている。
「……もういい……もう十分だ。こいつは………もう壊れてる」
男が出ていった。枯れ枝は動かない。虚無を映したその瞳は絶望していた。しばらくして、するりと枝が引っ込んだ。
鉄格子のはまった窓から冷たい月の光が射し込む。布団の中で枝切れが途切れ途切れに呟いた。
「か、み…さ…ま……い……る、なら……ど、うか……ぼ、く、を………た、す……け……て……」
「………いねえよ、そんな奴」
咲夜が床を叩く。自分の吐瀉物が握った拳にペシャッとついた。
「いてたまるかっ!いてたまるかっ!いて…たまるかよう………」
シクシクと咲夜は再び泣き出す。ユキはその姿を静かに見つめていたがやがて枯れ枝の手のひらをゆっくりと撫でると取れそうに細い指先に口づけた。
「貴方の願い、天使ユキが引き受けた」
「………あ」
吐瀉物にまみれてしくしく泣いていた咲夜が小さく吐息のような音を口からこぼす。燃え尽きたはずの翼が、ぶわりと広がり背に純白が光った。
「………きれいだ」
咲夜が思わず漏らした心からの本音だった。
枯れ枝が神に祈ったのは後にも先にもたった一度きり
枯れ枝の目は、耳は、超常の現象など見えない。見えるわけがない。聞こえるはずも、なかった。
空から天のラッパが響き渡る。小さな窓のその向こうに切り取られた夜空があった。
空には何百、何千の天使の群れ。ユキが一言、天に告げた。
「見つけた。私は、行く」と。
ラッパの音が遠ざかり、空の天使が背を向けた。咲夜が叫んだ。鉄格子に向かって叫んだ。
「待って……待って!ユキを……連れていってくれえええ!」と
咲夜の祈りは届かない。天使の群れは既にない。枯れ枝は気絶していた。ユキも咲夜も天使も見えず枯れ枝はもう誰にも祈らなかった。
そして枯れ枝もこの家の流儀に従い悪魔になった。
枯れ枝の名は橘咲夜といった。




