(9)将軍綱吉の御成(おなり)
柳沢家には儒臣が二十人以上いた。著名な者としては、細井芝山・広沢兄弟、志村楨幹、それに新進気鋭の徂徠らがいたが、桐江と同時期に歌人として雇われた服部小右衛門、字は子遷、号を南郭という十七歳の若者がいた。桐江は、この若者とは旧知の間柄であった。
南郭は十三歳のときに京から江戸へやってきたのだが、桐江が漱石山房に籠っていた頃にあるきっかけがあって知り合い、ときどき漢詩をやりとりする仲であった。その南郭を藩邸内で見つけたとき、桐江は驚きのあまり二度見した。
「そなたはなにゆえここに居るのだ?」
「私はこのたび、歌人として当家に仕官することとなりました。して、省吾殿はいかに?」
「私も当家へ儒臣として仕えることになったのだ。それにしても……」
南郭は和歌に長じていたのだが、この頃すでに、漢詩も桐江に引けをとらない逸品をものしていた。若年にしてこのできばえ乎と、桐江はその才能を末恐ろしく感じていた。そのため、南郭が大名家の目に留まることには何ら不思議は感じなかったものの、柳沢家の人材獲得にかける熱意には改めて感じ入った。
桐江が仕官してから約二ヶ月後、柳沢邸への綱吉の御成が行われた。柳沢家上屋敷内にある御成御殿は、中の屋、東・西・北御殿、調理場、庭園、納屋のほか、能の舞台や楽屋まである。桐江は他の儒臣たちとともに初めて御成の末席に連なった。
御成は綱吉とその側衆だけではなく、老中、若年寄、側用人ほか、幕閣の要人たちもみな供奉する。まずは綱吉から保明への引出物の授け渡しと、保明から綱吉への献上品の進呈が行われる。それから綱吉による「大学」の講義、次いで柳沢家儒臣による経書の進講、それから昼食休憩となる。この日は徂徠が「礼記」の一節を講じた。
昼食後は能楽の観覧が行われる。ときには綱吉みずからが舞台に上がって舞うこともあるという。
観覧後、しばらく休憩し、日暮れ前に綱吉は帰城した。
桐江は、公方という貴人がこの世に存在することを知識として知ってはいたものの、それを自分がじかに目にすることなど想像すらしていなかった。桐江は御成のあいだ中、ずっと熱に浮かされたような状態であった。また、つい数ヶ月前まで漱石山房でひとり陋居していた自分と、この日の御成に列座を許された自分とを引き比べ、そのあまりの落差に茫然とした。
さらには、自分がこのような晴れがましい場に居られることに喜びの感情が湧き出してくるのを抑えることができなかった。
そんな自分の感情を自覚した桐江は、大きく気分を沈ませた。
(わしは、俗物なのだろうか?)
後漢の厳光のように隠者として生きたいと望み、漱石山房に籠った十年間はまやかしであり、本心では華やかな表舞台に立つことを渇望していたのではないのか。それが容易ではないことを察知したために、あたかも自分は、晴れの場などに興味はない、という態度をとって現実逃避の謂にしていたに過ぎないのではないのか。
そんな厳しい自己観照で桐江は混乱していた。自分の本当の思いがどこにあるのかが分からなくなっていた。
「省吾殿、お疲れですかな?」
徂徠が桐江に言った。
「いやはや、なにぶん初めての事でしたので、ずっと目が泳ぎっぱなしで……」
桐江がそう言うと、徂徠は笑った。
「無理もありません。本日はこれで放免ですので、このあとは長屋でゆったりとお過ごしなされ。私は以前から読みたかった漢籍にでも目を通すこととします」
「徂徠殿は公方様の御前でのご進講でお疲れではないのですか?」
「私は疲れてはいません。御成の日は早く長屋に戻れますので、私はそれが楽しみです」
徂徠はさばさばしていて、疲労の色が見えない。決して強がりではなく、本心からそう言っていることが桐江にも分かった。
先刻の堂々とした進講ぶりとも重ね合わせながら、桐江は徂徠という男の心胆の強さを思い知らされた。物事に動じず、あくまで自分の歩調を崩さないその姿勢に敬意を抱いた。
綱吉から保明に下賜された品物は小部屋いっぱいになるほどの物量であった。逆に、保明が綱吉へ進呈した品物も、同程度はあったらしい。保明は御成の日の夜明け頃に登城し、本日の綱吉渡御のお礼を申し述べ、御成後の夜にも再び登城し、綱吉へ感謝の意を言上したという。
これほどの催事を年に何度も、それも瑕疵なくこなす保明という主君に対しても、桐江は尊敬の念を抱いた。気が遠くなるほどの事前準備と心配りとを尽くし、それでも神経がすり減らない強靭さ。世間が噂する、忖度迎合の達人だと断じてしまうのは簡単だが、保明が綱吉の寵愛を受け、公儀における揺るぎない地位を築くのさもありなんと、桐江は合点した。




