(8)荻生徂徠の前半生
荻生徂徠は桐江よりも二歳年長の三十四歳であり、桐江の兄、理右衛門と同年であった。
徂徠の父は方庵と言い、綱吉が館林藩主であった頃、侍医として仕え、江戸神田の館林藩邸近くに一家で詰めていた。
ところが、誤解がもとで綱吉の怒りを買い、延宝七年(一六七九)、方庵は江戸御構に処せられた。やむなく方庵一家は方庵の妻、つまり徂徠の母の実家がある上総国長柄郡本納村へ退去した。このとき徂徠は十四歳であった。
徂徠は江戸在住の頃には林羅山の子、鵞峰と、孫の鳳岡に師事していたが、本能村では師に就くことができず、やむなく手に入る漢籍を独学で片っ端から読み砕いた。父や兄のように医師として身を立てようとはせずに、明けても暮れても読書に没頭した。これは桐江における漱石山房での陋居十年と酷似していた。
元禄五年(一六九二)、方庵が綱吉に赦されたときには、徂徠は二十七歳になっていた。方庵は六十七歳と高齢であったため、赦免されてもこのときは腰を上げずに上総に残ったが、徂徠は江戸へ出て、芝増上寺近くの長屋へ移り住んだ。
増上寺周辺は寺社町であり、徂徠は修行僧をあてこんで漢学塾を開いた。だが、漢文を読むのに訓点や捨て仮名を禁止し、素文を上から下へと流れるように読めと強要したため、塾生はほとんど集まらなかった。そのため、徂徠は一時、持ち金が底を突いて食うや食わずの赤貧状態に陥り、親切な豆腐屋からおからをただで譲ってもらってようやく命をつないだ。このときの逸話が後年、「徂徠豆腐」という講談となって語られるようになった。
保明は、知行が増えるに連れて新たに家臣を雇う必要に直面し、つねに有能な人材を求めていた。
元禄九年(一六九六)のある日、保明は、知人である増上寺の僧から、
「寺近くに、漢学塾を開いている荻生某なる人物がいて、漢籍を素文のまま読めるとうそぶいていると聞き及びます」
という話を聞いた。さらにその僧は付け加えて、
「荻生某の父は医師であり、かつて公方様の御側近くに仕えていた、などと公言しているそうです。これまた不謹慎なる妄言かと思われますが」
と笑いながら話していた。
館林藩で綱吉の小姓組に属していた保明は、当時侍医であった荻生方庵のことを知っていた。荻生某とは、方庵の子息ではないかと推測した。
さっそく、芝へ人を遣わして荻生某を神田橋の上屋敷へ呼び寄せ、保明みずから首実検すると、果たして方庵の次男であるという。
「方庵殿は息災であられるか?」
保明は、平伏している荻生某、すなわち徂徠に問うた。
「はい、上総の地で悠々、老を養っております」
「ところで、そなたは漢籍を素文のまま読めると聞いたが、それはまことであるか?」
「はい、幼少期からそのように研鑽を重ね、今では返り点も捨て仮名もなしに漢籍が読めるように相成りました」
保明はその真偽を確かめるべく、本邦ではまだ訓読本も注釈書も刊行されていない中国の史書「宋書」の素文を徂徠に渡して読ませた。すると徂徠は、つかえもせずにすらすらと読み上げた。
「そなたの学識、並々ならぬ」
保明は、徂徠の実力を認めたが、かつて綱吉が江戸御構にした方庵の子息を雇うことに一抹の不安を抱き、綱吉にそのことを伝えた。
「そなたが方庵の子を雇うのはいっこうに構わぬ。合わせて方庵を府内へ呼び寄せ、公儀の医官として仕えるように手配せよ」
綱吉は、かつて方庵を処罰したことに後ろめたさを感じていたため、この機会に方庵を復権させることにした。
こうして徂徠は柳沢家に仕えることとなり、初任給は十五人扶持であった。その三年後、桐江と学舎の廊下で立ち話をした時点では、二百石の知行を得ていた。
「二百石取りと言っても、ふだんはこの通り、早朝から夜分まで拘束される毎日です」
そう言って、徂徠は哄笑した。
「ただ、ときどき、公方様が当家へ御成になられるときには、われわれ儒者もその末席に侍ることとなります。その日ばかりは講義はありません」
柳沢家上屋敷には、綱吉御成のための御殿がある。綱吉は、多いときで年六回、少ないときでも年二回は柳沢邸へ足を運ぶという。
桐江は、綱吉御成の御殿に儒者も侍ると聞き、晴れがましいような、恐ろしいような気がした。粗相は許されず、万一諮問を受けた際、滞りなく答えなければ、あとでどういう始末になるか分からない。
加えて、万全の準備と緊張とを強いられる将軍御成を頻繁に、かつ無難にこなす柳沢保明という主君は、いったいどういう心胆の持ち主なのだろうかと思い、保明が想像以上の大人物であるような気がした。
これ以降、桐江と徂徠は、学舎の廊下の隅でときどき立ち話をするようになった。儒学と兵学の話題が多かったが、世間話や儒学者の消息、それに主家の悪口などもひそかにこぼし合った。




