(7)貧相な男
柳沢家は、もともと甲斐武田家の一支族であり、巨摩郡を本拠とする武川衆に属していた。武田家滅亡後、徳川家の家臣となったが、保明の父、安忠は、経緯があって三代将軍家光の四男、徳松(元服後、綱吉と改名)付きとなった。やがて徳松が上州館林二十五万石の藩主になると、そのまま館林藩士として仕えた。
延宝三年(一六七五)、安忠は当時十八歳の保明に家督を譲った。このときの知行は五三〇石であり、保明は小姓組の一人として綱吉に側仕えすることとなった。
延宝八年(一六八〇)五月、四代将軍家綱が薨去した。家綱には嗣子がいなかったため、その弟の館林藩主、綱吉が五代将軍に就任した。すると柳沢保明は幕臣となり、かつ綱吉側近の小納戸役として江戸城へ詰めることとなった。
それ以後、保明は、綱吉の寵を得て異類の出世を遂げる。
翌年には三百石が加増され、その二年後に二百石加増、そのまた二年後に千石加増、そして元禄元年(一六八八)、保明三十一歳のとき一万石が加増され、柳沢家は初めて諸侯に列した。官位は従五位下出羽守、合わせて保明は側用人に補せられ、身分は若年寄の上席に位置付けられた。
さらに加増は続き、元禄七年(一六九四)には七万二千余石を領して武州川越藩主となり、官位は従四位下侍従、老中格となった。
桐江が柳沢家に仕えた元禄十二年(一六九九)には、保明の封地は合計九万二千余石であり、官位は従四位下左近衛少将、大老格にまで上り詰めていた。
保明の威勢は老中を凌いでおり、大名小名からの贈答、付け届けは引きも切らなかった。将軍家へ具申が必要なときには、老中を通すよりも、側用人の保明へ取り次ぎを依頼する方が近道、というのが公儀の通例となっていた。
柳沢家へ仕官することになった桐江は、そんな保明に初めて拝謁した。
「田中よ、そなたが蓄積した学識を腹蔵なく披瀝し、当家のため、はたまた将軍家のために尽くせ」
桐江は、保明からそう言葉をかけられた。
「浅学非才の身ではありますが、粉骨砕身、御屋形様にお仕え申し上げる所存です」
桐江はそう言って平伏した。
つい先日まで陋居暮らしをしていた桐江は、
(粉骨砕身とは、我ながら芝居がかったことを口上したものよ)
と、退室後に一人苦笑した。
桐江の主な仕事は、柳沢家に寄宿している綱吉の小姓衆に儒学を教授することであった。桐江のほかにも柳沢家には儒学者が何人も仕官しているが、講師一人が二名の学生を受け持って四書五経を素読させ、かつその解釈について講じた。
桐江にとって、仕事内容自体は苦もなかったのだが、定められた講義の時間割は想像をはるかに超えており、何と明け六つ(午前六時)から夜四つ(午後十時)までの十六時間にも及んだ。しかも原則、休日はなく、毎日行うことを強いられた。これは綱吉の指示によるものであるため、桐江の上役も、はたまた保明でさえも改変することはできなかった。
さすがに桐江も学生も、連日の長時間にわたる拘束で、疲労が蓄積した。多分に形式的ながら、「粉骨砕身お仕えする」と保明の面前で申し述べた手前、桐江は音を上げるわけにもいかず、しばらくは学舎と長屋との往復だけの日々であった。それ以外に何をする気力も体力も残っておらず、雙鳴鋏を振る元気もなかった。
(これは肉体労働だ)
知的労働などとは決して言えない。桐江は撃剣の修行に臨むような心持ちで、長い講義時間に耐えた。
「まったく、やっておれぬわ」
ある日のこと。桐江が講義の合間に厠へ立ったとき、廊下の隅にいた男が、伸びをしながらそうつぶやくのを耳にした。
桐江は同感した。自分一人だけではない、そう思って微笑を浮かべた。
(年齢は、わしと同じぐらいか?)
桐江は、学生である綱吉の小姓かと一瞬思ったが、すぐに違うと打ち消した。小姓であれば、もっと容姿端麗であるはずだが、この男はそうではなく、瘦身で、貧相ですらある。
目が合うと、男は、まずいところを見られた、といった表情をした。
「おっと、これは失言」
男は肩をすくめた。
「いやいや、私も同感」
桐江は、男が講師であると判断した。
「あなたも講師ですが?」
男は、桐江へ質問した。
「はい、先日から当家へ仕官しましたが、上役に指示された通り、朝から晩まで日々講義に明け暮れております」
桐江がそう言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
「お初にお目にかかります。私は荻生惣右衛門、字は茂卿、号を徂徠と申します。いちおう江戸生まれではありますが、故あって、物心ついてから上総の田舎村で十三年間過ごしました。七年前に事情が変わって再び江戸へ参り、三年前から当家へ仕官し、かように儒学を講じている次第です。して、あなたは?」
「私は田中平右衛門、字は省吾、号を桐江と申します。出身は出羽庄内で、十六歳のときに江戸へ出てきました。私の意志で、と言うよりも、父に家から追い出されたと言った方が正しいかもしれません」
二人はまた顔を見合わせて笑った。
それから二人は、お互いの出自や、これまでどのように学んできたかについての話柄に花が咲き、一刻(約二時間)あまりも廊下の隅で立ち話をした。




