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(10)美濃守吉保の人となり


 元禄十四年(一七〇一)、柳沢保明(やすあきら)は、綱吉の(いみな)から「吉」の一字を賜り、(よし)(やす)と改名した。合わせて松平姓を許され、美濃守と称することとなった。

 綱吉が吉保を寵することますます厚く、その翌年には綱吉の母、(けい)昌院(しょういん)の従一位昇任をお膳立てした功により、吉保は二万石の加増を受けた。これで吉保の総石高は十一万二千余石となり、ついに十万石の大台に到達した。

 吉保のあまりの立身出世のめざましさに、世間ではやっかみ半分に、これには何か裏事情があるのではないかと勘繰る向きも少なくなかった。例えば、吉保の嫡男である吉里(よしさと)は、実は綱吉の御落胤(ごらくいん)ではないかという噂がこの頃から(ささや)かれ始めていた。綱吉が頻繁に柳沢邸へ御成するのは、実子の吉里に会いに行くためだという。

 この時期、桐江は、同僚の儒臣からの紹介を受けて、(かや)(むら)家から九歳年下の夫人を迎えていた。また、未亡人だった生母の松宮氏を庄内から上京させ、同居していた。

 しばらく音信が途絶えていた理右衛門ともまた行き来するようになっていた。理右衛門も妻帯し、すでに四人の子持ちになっていた。

「おぬしに相談がある」

 理右衛門は、四歳になる三男の()(すけ)を桐江のもとで養育してほしいと言う。

「どうも武助は武骨者のわしには似ておらず、かなり利発な質である。武助と名付けたのはわしの不覚だったと後悔しているが、いっそおぬしに養育してもらい、将来、学問で身を立てられるように鍛えてやってほしい」

 養子として出すわけではなく、あくまで少年期の学問修行を桐江に任せたい、というのが理右衛門の希望であった。

 桐江はそれを了承し、武助、字は子舒(しじょ)、後年、(らん)(りょう)と号する甥を引き取って育てることになった。

 独り者として暮らした年月が長かった桐江は、短期間で妻、母、甥、それに夫人が産んだばかりの娘の総勢五人家族となった。

 仕事面では、桐江は綱吉の小姓への講義回数が減り、柳沢家の公文書や書翰(しょかん)を起草したり、書類管理の仕事にも携わるようになっていた。

 ときどき吉保に拝謁するが、吉保からはいつも、

「苦労である」

 と声をかけられた。

 あるときには、

「田中の文章は見事だ。おぬしは稀に見る能文家である。これからも頼りにしているぞ」

 と言われた。

「身に余るお言葉でございます。今後もより一層精進を重ねて、御屋形様のお役に立てるよう努めてまいります」

 吉保は家臣をきつく叱責したり、無茶な仕事を強要したりするようなことをしない。俗に、外面が良い人物は内面が悪いと云うが、吉保はそれには当てはまらない。綱吉の寵を長年にわたって得続けるための心労は計り知れないものがあるはずだが、吉保は余暇には儒学や歌学を学んだり、和歌を詠んだり、あるいは禅宗の公案について沈思したりと、気を緩めることがない。

 吉保についての世間の悪評を桐江もときどき耳にすることがあるが、それらが事実無根であることは間違いない。吉保は謹厳実直を崩さず、ときには江戸城内に詰めたまま、数日間帰邸しないこともしばしばだった。若い頃はもっと長期間、自邸に戻らなかったとも聞いている。

 吉保は人間の機微に通じた政治家であり、同時に儒学、歌学、仏教、とりわけ禅宗に造詣(ぞうけい)が深い教養人であった。歌人の北村季吟(きぎん)からは二度にわたって古今(こきん)伝授(でんじゅ)を受けてもいる。奢侈(しゃし)に走るようなことはなく、家臣に対してもつねづね、

「万事礼儀正しく、慎みをもって他家の者と交わるように」

 と言い含めていた。往来を歩くときに肩で風切るなどはもっての外であり、道端を通行せよとも指示していた。幕閣の重鎮の家臣は、往々にして居丈高な態度をとったりすることがあるものだが、そういう横暴は厳に慎めと言う。

 吉保の気根と心胆の(つよ)さは人並をはるかに超えている。決して崩れず、揺るがない吉保の精神構造は、凡人には到底理解しがたく、その理解しがたい点が世間の悪評となって噴出しているのかもしれない。桐江はそう思った。


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