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(11)桐江の嫉心


 ただ、吉保にも弱点があり、急激な身分上昇について、世間から成り上がり者と見られることに引け目を感じているような面があった。吉保はそれを糊塗(こと)するかのように、柳沢家が武田信玄の旧臣であることをあえて強調し、信玄の名を借りて権威付けしようとしているようにも見受けられた。

 例えば、信玄の玄孫(やしゃご)で、落魄(らくはく)していた武田信興を柳沢家下屋敷の(りく)()(えん)へ引き取り、かつ綱吉に拝謁させて、信興を五百石の旗本、(おもて)高家(こうけ)として一家を構えさせた。

 また吉保は、信玄が所持していた銘刀、(さね)(もり)をある経緯を経て入手するや、(はばき)に柳沢家の家紋である(から)花菱(はなびし)を刻みつけて悦に入っていた。

 後年、吉保は泉下の信玄への贈位を画策したこともあった。信玄は生前、従四位下大膳大夫であったが、さらに官位を進めてその遺名をより轟かせようとした。贈位の結果、信玄に連なる吉保自身の威信も上昇することを目論んでのことである。

 結局、信玄への贈位は実現しなかったが、そんなことまでして、甲斐の虎と呼ばれた信玄の威を借る必要があるのか、と桐江は思わなくもなかった。

 だが、謹厳実直を崩さない吉保をしても、成り上がり者と陰口をたたかれることがよほどこたえていることの証であり、それを回避すべく、俗な手段に打って出ている吉保に人間らしさを見る気がしないでもなかった。

 徂徠はこの時期、中国の正史で、まだ本邦で刊行されていない五史、すなわち「晋書」「宋書」「南斉書」「梁書」「陳書」に訓点を施す仕事に従事していた。これは綱吉から吉保に指示されたものであり、吉保は儒臣の中から人選し、その仕事を徂徠と志村楨幹(ていかん)とに託した。

 漢文を訓読せず、素文で読む徂徠にとって、必ずしも本意ではなかったが、そもそも素文主義者は徂徠のほか、世間にごくわずかしか存在しない状況を鑑みると、訓点を加えて刊行することで読者が大幅に増えることの効用は大きい、と思い直して仕事に精を出した。

「御屋形様は、一刻も早く仕上げよと発破をおかけになるので、肩が凝って困ります」

 徂徠はそう言って苦笑したが、桐江には、徂徠がやりがいのある仕事に従事している充足感に満ちているように映った。

 桐江は、徂徠の博覧強記と知識の(しん)(こう)さが他の儒臣と比べて抜きん出ていることに気づいていた。儒学、兵学については人後に落ちないと自負していた桐江ではあったが、徂徠には到底及ばないと認めていた。

 そのため、徂徠には兄事するように接していたのだが、吉保が何かにつけて重要な仕事を徂徠に託すことに対して、羨望と嫉妬を抱かずにはいられなかった。また、そんな自分を情けなく感じてもいた。

 元禄十五年(一七〇二)四月、吉保が二万石加増を綱吉から言い渡された直後、神田橋の柳沢家上屋敷下の家屋から出火、それが吉保邸や御成御殿にまで燃え広がって全焼した。

 この火事で、吉保所有の多くの什宝(じゅうほう)類や刀剣類、諸文書などが焼失した。

 吉保の落胆ぶりは桐江の目にも気の毒なぐらいであった。それでも吉保は、綱吉や多くの大名からのお見舞いを受けて、すぐに再建に取り掛かった。

 火事の翌月には吉保邸の仮普請が完成し、吉保は寄寓先から新居へ移った。また、御成御殿は八月にほぼ完成し、九月には綱吉を迎え入れることができた。

 この火事で、吉保は、柳沢家が甲斐武川衆の頃から先祖が書き継いできた公用日誌を失ってしまった。そのため、この公用日誌の失った部分を再起稿する必要が生じ、その仕事を徂徠に命じた。徂徠が着手している中国の正史五史に訓点を施す仕事はいったん保留にし、こちらを優先せよとも言い含めた。

 重要な仕事は、たとえ多忙であっても、吉保が最も信頼を置く徂徠に託される。

 そのことを知った桐江は、また複雑な感情に見舞われた。隠者にあこがれているはずの自分は、そういう感情とは無縁であるべきものだとの「あるべき論」に反するおのれが嫌になった。

 徂徠と自分との実力の差は歴然である。それは重々分かっている。分かってはいるが、心にさざ波が立つのをどうすることもできなかった。

 桐江は自宅の庭で雙鳴(そうめい)(きょう)を振った。何度も何度も振って、自分の心に芽生えた劣感情を断ち切ろうとした。


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