(5)桐江の隠遁暮らし
積徳堂を退塾した桐江は、浅草田原町の寮を出て、大川の東、向島のさらに東側に位置する渋江村に茅屋を借りて移り住んだ。この茅屋の周辺には田地が広がり、また水運が発達していて、すぐ近くには綾瀬川が流れている。
桐江は江戸郊外ののどかな景観が気に入り、住居を漱石山房と名付けた。漱石とは、中国西晋時代の孫楚が若い頃、友人に隠遁したいと告げた際、「石に枕し、流れに漱ぐ」と言うべきところを、間違って「石で漱ぎ、流れに枕す」と言ってしまった故事に由来する。
理右衛門に転居したことを伝えると、
「早まったことをした哉」
と厳しく叱られた。
「なにゆえ今の辛さに耐えて精進を重ねることが出来ぬのだ? これでおぬしは当分、父上へ文を出すこともできなくなるぞ」
庄内を出るとき、父の一信から、いたずらに浪々としているようであれば実家へ消息を通じることは許さん、と言い放たれたことを指していた。
桐江には、自分の内奥から涌き出る遁世願望を抑えることができなかった。今はおのれの欲するところに順って身を処すしかない。ただ、いずれ気持ちの変化が生じることもあるだろうから、そのときはまた別の分別でもって行動するまで、と肚を決めていた。
桐江は、積徳堂の代講で得た少々の蓄えを細々と消費しつつ、漱石山房からほとんど外出せずに読書三昧の日々を送った。特に四書五経を改めて精読し直し、自分が信奉する学派が朱子学であることを再認識するに至った。また、「荘子」も熟読し、おのれの超俗性向の理論的支柱としてこれを重要視した。読書に疲れると、庭へ出て雙鳴鋏を振りかざし、気分を一新させた。
桐江はそんな暮らしぶりが気に入り、日々充足した気持ちで過ごしていた。
漱石山房に陋居してから三年後の元禄五年(一六九二)、桐江二十五歳のとき、庄内の一信が死去した。享年八十二。
理右衛門は、桐江の若くしての隠棲に腹を立て、しばらく行き来もせず放置しておいたのだが、事が事だけに、桐江の漱石山房を訪ねて一信の死を伝えた。
知らせを受けた桐江は、無精髭伸び放題で、いかつい風貌に様変わりしていた。すでに高齢の一信ゆえ、いずれこういう仕儀に至るであろうと半ば心構えができていたので、さほど驚きはしなかった。
理右衛門は、時の将軍綱吉が発令した服忌令に基づいて父の死を公儀へ申請し、五十日の忌引休暇をもらっていた。
「ともに庄内へ参ろう。野辺送りには間に合わぬが、せめて父上の墓前に花の一輪でも手向けようぞ」
理右衛門に誘われたが、桐江は首を横に振った。
「私は定職にも就かず、世捨人のように暮らしております。ご覧の通り、風体もこのように見苦しい姿に成り果てており、どうして実家へ足を運ぶことができましょうか? ましてや父上の墓前に進み出ることなど、畏れ多いことでございます」
「しかし、生前ならともかく、父上は鬼籍に入られたのだ。よもや死してまでおぬしを寄せつけぬということでもあるまい」
「いえ、たとえお姿はこの世にあらねども、父上の魂は私たち一人一人の行いをしっかと凝視されていることと存じます。私はここで父上の冥福を祈り、静かに服喪することと致します」
そう言って、桐江は庄内行きを頑なに拒んだので、理右衛門は仕方なく一人で帰郷した。
桐江は、自分が日々、仕事と言えるようなことを何もせずに気儘に暮らしている現状を、声には出さずに一信へ詫びた。
とはいえ、桐江はまだ定職に就く気には到底なれず、引き続き漱石山房での読書三昧の暮らしに埋没した。一信の墓前へ赴かない不孝を詫びると同時に、それを潮に人並みに働いて暮らしを立て直す気にもなれない自分のことをも併せて詫びた。
ただ、一信の死があってから、桐江は読書の傍ら、ときどき近所にある漢学塾で儒学の代講を行うようになった。これは、父へのささやかな償いの気持ちもあったが、蓄えがほとんど底をつき、糊口をしのぐための資を稼ぎ出す必要に迫られてという面が大きかった。
あるとき、出講先の門人の紹介を受けて、理右衛門の組屋敷がある本所深川に草庵を結んでいた俳諧師の松尾芭蕉と顔見知りになった。
この頃、芭蕉は四十九歳、桐江は二十五歳で、親子ほども年が離れていたが、芭蕉は「荘子」を愛読しており、しかも半ば俗を捨てて隠遁暮らしをしている生きざまも桐江と類似していたため、二人はすぐに意気投合した。桐江は芭蕉の草庵をときどき訪ねては荘子について語り合い、また、芭蕉から各地を旅した話を聴いて、自分もいずれは他郷を巡ってみたいとの思いを募らせた。




