(4)したたかに酔いつぶれて
久闊を叙し合うと、桐江はおもむろに言った。
「私は今、山野に籠って悠々自適、気儘に暮らしたいと痛切に願っています」
理右衛門はいぶかしんで桐江を見た。
「おぬしは山鹿塾で師を輔けて弟子に教授していると聞く。前途洋々、今後儒学者、あるいは兵学者として世に顕れる志を抱いていたのではなかったのか? しかも、まだ年若いおぬしが、なにゆえにそのような枯れた松樹のようなことを申すのだ? もしや、何か悩み事でもあるのか? 例えば実らぬ恋に懊悩しているとか?」
「いえ、決してそういうことではありません」
「では、なぜじゃ?」
「それは……」
桐江は説明に窮した。自分の心境をどう伝えたら理解してもらえるのか、的を得た言葉が見つからなかった。
出家を望んでいるわけではない。一時、それも悪くないと思ったこともあったのだが、僧籍に入るということは、その宗派の戒律に縛られるということであり、結局は気儘に暮らすというわけにはいかない。例えば臨済宗の主な年中行事をとってみても、正月に行われる修正会、宗祖臨済義玄の命日に行われる臨済忌、釈迦入滅の日に行われる涅槃会、釈迦生誕の日に行われる灌仏会、お盆に行われる施餓鬼会、釈迦が悟りに至った日に行われる成道会など、枚挙に暇がない。当然、朝晩の読経や坐禅、作務は日々の勤行であり、むしろ俗世間に身をおく以上に規則正しい暮らしを余儀なくされることになる。
桐江は、自分が抱く遁世の情は、生来の性質に起因するものであり、一種の病かもしれないと思っているのだが、齢二十余にして山野に籠って暮らしたいなどと他人に話せば、誰しも現実逃避であるとか、怠慢男児めと決めつけられるのが関の山である。ましてや屈強頑健な理右衛門にとっては、戯れ言か、腑抜けの謂にしか聞こえないであろう。
この柔弱漢め、と理右衛門にどやされるかと思いきや、意外や意外、
「ときにはそういう気の迷いを生じることもあろう」
とやさしく労わられた。
「性急に事を決するべきではない。おぬしは疲れているのだ。だから、まずは可能な限り講義の受け持ちを減らしてもらうよう、師に掛け合え。その上で、余暇には書物を遠ざけて、なるべく心安らかにして過ごすべし。しばらくすれば、やがて気力がまた充溢してくるであろう。そうだ、今夜はここへ泊まっていけ。ちょうど摂津池田の下り酒が手に入ったところだ。どじょう鍋を炊くから、今宵は鍋をつつきながら、兄弟水入らずで飲み明かそうぞ」
桐江もいける口なので、理右衛門の相伴にあずかってしこたま池田の美酒を胃の腑に流し込んだ。すると、夜更けを待たずして愉快に酔いつぶれてしまい、理右衛門ともども素畳の上で泥と化して寝た。
翌朝、目が覚めた桐江は大量に水を飲み、顔がゆがむほどの脳芯の疼痛に見舞われながら、理右衛門の組屋敷を後にした。
昨晩は豪快な理右衛門の気概に酒の力も加わって、当今自分が抱いている悩みなどちっぽけなものだと笑い飛ばせる気がした。ところが、酔いが醒めると、その悩みは消えておらず、しっかりと脳裏に貼り付いたままであった。
(人から怠惰と言われても仕方がない)
桐江の魂の疼きにも似た遁世の欲求は、もはや止み難いほどに膨れ上がっていた。
寮に戻り、水桶から柄杓で水をすくって続けざまに二杯あおると、桐江は頭痛に耐えながら積徳堂へ赴き、山鹿藤助に面会した。
「これは省吾殿。昨日は兄君との久方ぶりのご対顔、さぞかし積もる話が尽きぬひとときをお過ごしになられたことでありましょうや。して、本日は休講日ですが、いかがなされましたか?」
桐江は切り出しにくさを感じ、しばらく沈黙した。
「何か、困った事態でも出来したのでしょうか?」
藤助が心配そうに顔を覗き込むので、桐江は覚悟を決めて言った。
「卒爾ながら、私めは近日中に寮を出たいと存じます」
「寮を出たい? つまり、町住まいをなされるということでしょうか?」
「はい、まあ……」
「当塾の寮は手狭ですので、読書家の省吾殿にはきっと書物を並べる場所に難儀しておられるのでしょう。私の方こそ、そのことに気付かず窮屈な思いをさせてしまって申し訳ありません。この機に、書物を置くことができる少し広めの町屋へ転居されるのが得策ですね。さすれば、そこから当塾へお通いなされるのはいっこうに構いませんが」
「いえ、そういうことではなく、実は……」
桐江は、単に寮を出るだけではなく、恐縮ながら積徳堂を退塾したいと述べた。
「なるほど、公儀か大名家への仕官が決まったということでしょうか? であれば、近頃めでたい話です。山鹿流兵学の秘訣を身に付けた省吾殿ならさもありなん」
藤助はそう言った。
「いいえ、仕官の話が決まったわけではありません。さりとて、他塾へ転じて講じるわけでもなく、しばらくは世俗を離れて悠々自適の暮らしがしたいと考えている次第です」
桐江がそう言うと、藤助は怪訝な表情になった。
「されば、出家したいと申されるのですか?」
「いえ、そういうわけでもなく……」
藤助はますます眉をひそめた。まったくもって、桐江の意図するところが理解できない様子であった。
「実は最近、ひどい頭痛に見舞われることが多く、今現在もその痛みを耐え忍んでいる状態でございまして、なにやら病禍を宿している形跡があります。まだ若輩者で、修行中の身である私としては忸怩たる思いではありますが、ここはいったん静養に徹し、快癒を待つのが得策と考え、かかるお願いに参りました」
桐江は言い終えてから、自分自身が発した言葉に驚いた。今現在の頭痛は、前夜の深酒に由来するものであり、持病などではないことは明白なのだが、藤助を説得するための方便が勝手に口から出てしまっていた。
「どうも先刻から、省吾殿の表情がこわばっているのが気にはなっていたのですが、頭痛に耐えておられたからなのですね……それで合点がいきました。頭痛は万病のもとと言いますから、そのような症状が続くのであれば、寮を出て退塾されるのも致し方ない話かもしれません」
「はい、大変心苦しい話ではございますが……」
退塾することと、方便を用いたことの二つの点において桐江は心苦しかった。
「当塾の門下生に、医師や医師の子弟が何人もいるので、省吾殿の病を診てもらうよう手配いたしましょう」
藤助はそう言った。
「ご配慮には感謝申し上げますが、私の頭痛は気の病に由来している可能性が高く、当座の静養によって快癒するものと信じております。せっかくではありますが、その儀には及びません。重ね重ねの御無礼、どうかお許し下さい」
桐江はそう言って、積徳堂を退塾した。




