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(3)桐江、代講となるも……


 貞享二年九月、桐江の師、山鹿素行は黄疸を発症すると、にわかに病が重くなり、六十四歳で歿(ぼっ)した。

 素行の息子、山鹿藤助が積徳堂を継ぐと、桐江は藤助に師事しつつ、藤助に代わってしばしば塾生に講義するようになった。

 藤助から代講を依頼されたとき、桐江は躊躇(ちゅうちょ)した。

「私のような未熟者が塾生に教授するなど、僭越(せんえつ)にも程があります。まだまだ私が教えを乞い、さらに研鑽(けんさん)を積まなければならない身分でありますゆえ」

 すると、藤助は言った。

「未熟者などと、ご謙遜(けんそん)が過ぎますぞ。省吾殿はわが父の最晩年の弟子であられ、実際学問も相当に進んでおられて、到底それがしの門人などというご身分ではありません。今後は私の学友として、ぜひ積徳堂にご助力下され」

 桐江と藤助とは年齢も近く、二年前、桐江が積徳堂へ入門したときからお互いに意気投合していた。

 桐江は講師として塾生への講義を受け持つ(かたわ)ら、儒学、兵学、史学の書物を広く読み漁り、ほかにも道教や仏教の書に触れたり、修養のために禅窟(ぜんくつ)にこもって参禅したりもした。

 そうしてさらに四年間を積徳堂で過ごし、桐江は藤助から、山鹿流兵学の秘訣(ひけつ)を伝授されるまでに至った。

 学問も進み、いつの間にか多忙な日々を送るうちに、桐江はだんだんとそれがおっくうに感じられるようになってきた。それと符合するかのように、少年時代に出羽鶴ヶ岡城下郊外の河原で釣りをしたり、田園地帯や里山に入って生き物を探したりして一人遊んだことをしばしば思い起こすようになっていた。それは過去の充足した時間の追憶だった。

 そういう過ごし方をしようと思えば、今でも十分可能であった。用事がない日に、寮がある浅草田原町から、すぐ近くを流れる大川(隅田川)の川辺へ出たり、樹木や草花が繁茂する上野の山や谷中へ行くことはほとんど苦にならない程度の道のりである。

 実際、桐江はそういう場所へ何度か足を運んだことはあった。だが、思ったほどの気休めにも癒しにもならず、ほんの短時間滞在しただけで早々に寮へ引き上げた。

 桐江の願望は、自然に触れることで満たされる性質のものではなかった。

 ではどうしたらいいのか、雙鳴(そうめい)(きょう)を力強く振ってもその答えを自分自身で見つけ出すことができず、無聊(ぶりょう)をもて余したまま日々を過ごしていた。

 そんな折、「後漢書 逸民列伝」を見るともなしに見ていたとき、中国後漢時代の隠者、逸民である厳光(げんこう)の伝記が目に留まった。

 厳光、字は子陵、会稽(かいけい)(ぐん)余姚(よよう)(けん)の人。若くして秀才の名が高く、青年時代の(りゅう)(しゅう)と共に学んだ。やがて劉秀は後漢の光武帝として即位するが、旧友の厳光を探し出して都へ招聘(しょうへい)し、自分を補佐して欲しいと要請した。厳光は歯に衣着せずに諫言(かんげん)したが、光武帝は、

「我が故友(とも)、厳光は、若い頃のまま変わっておらぬ」

 と笑って傾聴した。厳光は光武帝から諫議(かんぎ)大夫(たいふ)に補せられたが、結局都を去って()春山(しゅんさん)起臥(きが)し、みずから耕しつつ、隠者として八十歳で生涯を終えた。

 光武帝からの厚遇の任官を断り、たとえ耳に痛いことであっても言うべきことは言い、壮年後は田野に隠れて暮らしたという厳光の生きざまに、桐江は心を動かされた。

(わしも、そんな生き方をしたい)

 世のあらゆるしがらみから解放され、一隠者として静かに暮らす自分を想像したとき、桐江の気持ちは落ち着いた。

(わしが潜在的に希求していたものはこれだったのだ)

 そのことにようやく気づいた。

 その一方で、日々の勤めを放擲(ほうてき)し、年若くして世捨人のような暮らしを望む自分は、士人としての責務すら全うできない怠け者なのだろうかと思い悩みもした。人間誰しも、何物にも束縛されずに気ままに生きたいという願望を抱いているものではあるが、自分はその願望が図抜けて強すぎるのかもしれない。

 折しも、兄の理右衛門が据え物の腕前を買われて、公儀の表書院(おもてしょいん)目附(めつけ)として江戸へ出仕していた。桐江は、地元庄内を出て本所深川の組屋敷に独り住まいしている理右衛門を訪ねた。


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