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(2)桐江の上京


 一信には七男一女があった。このときすでに還暦を過ぎ、家督を長男の一興に譲って隠居の身であった。柱に向かって木刀稽古をしていた桐江は六男、理右衛門は五男である。

「父上、この剣術の流派は何と呼ぶのでしょうか?」

 手のしびれが収まると、桐江は質問した。

「流派などはない。強いて言うなれば田中流だ。ただひたすらに力強く、かつ素早く剣を振り続けて敵を圧倒し、敵に反撃の隙を与えないのがこの剣術の奥義である。はじめのうちは手がしびれて難儀するが、何度もふり続けているうちにしびれを感じなくなる。そうなればしめたものだ。あとはひたすら剣を振り続けて、力と速さを身につけることだ」

 一信は腕組みをしたままそう答えた。

 一刀流とか新陰流などの著名な流派ではなく、田中流であることに桐江は失望したが、その後も一信の指導に従ってこの撃剣の練習を続けた。

 それと併行して、桐江はほかの兄弟たちと一緒に、一信から漢文の素読を受けた。「論語」から始まって、「孟子」、「大学」、「中庸」と儒学の四書を一信の声に続いて繰り返し唱えた。意味は分からないままに、音だけを憶え込んで体内化した。

 四書の素読を一通り身に付けると、今度は五経にとりかかった。漢字も徐々に憶えていき、「詩経」、「書経」、「礼記」、「易経」、「春秋」の五経をこれも繰り返し声に出して読むと同時に、その意味についても考え、少しずつ理解できるようになっていった。

 撃剣の鍛錬は主に屋敷内の台所の大柱か、庭にある木柱を相手にひたすら木刀を打ち込んで鍛錬したが、四書五経の学習は書物を持って屋敷外へ出て、草地に茣蓙(ござ)を敷いて寝転びながら読んだり、内川の川べりの木陰に座って本をひもといたりして理解を深めた。

 庄内鶴岡は、広大な平野部の南端に位置し、出羽国の中でも比較的気候が温暖で降雪量が少なく、稲穂もよく実る豊潤な土地である。南東部には出羽三山をいただき、南部にも山地が広がっていて越後国との国境をなし、ときに強風が吹きすさぶ。鶴ケ岡城下は賑わっているが、城下から少し離れただけで広大な田園風景が広がり、地味の豊かさが一目で分かる。

 桐江は、ときどき一人で城下を離れ、田んぼの畦道(あぜみち)にしゃがんで(かえる)を捕ったり、赤川の河原で(さくら)(ます)を釣ったり、あるいは里山に隠れて小動物を探したりして、日がな一日郊外で過ごすことがあった。かれは決して孤立していたわけではなく、実際、兄弟や近所の子供連中と一緒に遊ぶことも苦手ではなかったのだが、一人きりで過ごす時間というものが、桐江にとっては生来の自分の性質に合致した得も言われぬ充足したものであることをうすうすながら感じていた。

 一信の薫陶(くんとう)を受けた七人の息子たちはみな武芸に練達したが、なかでも四男の嘉右衛門と五男の理右衛門は、のちに名のある武芸者となった。嘉右衛門は無辺流(むへんりゅう)槍術(そうじゅつ)の達人に、また理右衛門は据え物斬りの名人になった。

 桐江は撃剣に習熟し、木刀を素早くかつ激しく柱に打ち付けても手のしびれを覚えず、体幹が崩れない境地にまで達した。十五歳で元服する頃には、桐江は長身痩躯(そうく)の偉丈夫に成長していた。

 元服に際し、桐江は一信から雙鳴(そうめい)(きょう)と呼ばれる大刀を授かった。

「この刀は終生、おぬしの腰元に携えよ。人を斬るためではなく、折を見てはこれを振りかざしておのれの雑念を斬り、一心腐乱に自分が決めた道を歩むためのよすがとせよ。おぬしは武芸もそこそこにはやるが、群を抜いて学問に秀でておる。よって、学問で身を立てるためにこれから精進するがいい。一芸に通じるためには、脇目を振る暇などないことを肝に命じよ」

 桐江は四書五経を繰り返し読み、ほとんど暗唱するまでになっていた。武芸では兄弟中で最も秀でたとは言い難いものの、儒学においては兄弟中で自分がもっとも深く身に付けたという自負がある。自分は儒学を極めることで世に立とうと心に決めていた。

 一信の方針で、当主である長男の一興以外の男子は、十六歳になると家から放遂(ほうつい)された。

「我が家は二百石取りで子沢山の貧乏武家である。よって、男子は元服するまでは我が家にて養育するが、それ以降は口減らしが必要である。ついては黄金一枚を授けるゆえ、当家の先祖書を書写して携行(けいこう)し、何処へなりとも行って自活せよ。志を遂げて事が成就した(あかつき)には帰省を許すが、いたずらに浪々としているようであれば我が家へ消息を通じることはおろか、我が家の敷居を再び(また)ぐことも許さん」

 一信は、つねづね息子たちへそう言い放っていた。

 天和三年(一六八三)の雪融けの春、十六歳になった桐江は、住み慣れた庄内の屋敷を出て、江戸へ向けて出立した。不安も大きかったが、それ以上に将軍の御膝元である江戸で生活できることの期待に胸を膨らませていた。江戸ではしかるべき師に就いてさらに学問を深め、ゆくゆくは子弟へ教授するか、あるいは諸侯へ出仕して身を立てるつもりであった。

 一信は、家を出よと桐江を追い出したものの、江戸での生活に困らないようにと、あらかじめ知人の旗本、日下田(ひげた)半左衛門に、陰ながら倅を見守ってほしいと書き送り、了承を得ていた。

 江戸へ到着した桐江は、しばらくは日下田家に逗留させてもらっていたが、やがて半左衛門から、山鹿素行が主宰する(せき)徳堂(とくどう)への入門を勧められた。

「素行先生とわしとは旧知の間柄でな、先日先生にお会いした折、四書五経をほぼ(そら)んじていて、将来、学問で身を立てたいと志向している省吾(せいご)(桐江)殿のことを話したら、当家へお連れあれと言われた。そなたに恩を着せるわけではないが、高名な素行先生の門へ入るのは並大抵のことでは困難であり、先生がかように言われたのはもっけの幸いである。この際、先生の薫陶(くんとう)を受けて学問を極め、そなたの志を遂げられたらよかろう」

 桐江は半左衛門の申し出を喜び、さっそく浅草田原町(たわらまち)にある積徳堂へ入門し、その寮に住むこととなった。

 積徳堂は山鹿素行の家塾である。素行は儒学者、兵学者として広く世に知られ、儒学においては古学を唱え、兵学において山鹿流兵学を確立した。一時期を除き、生涯のほとんどを在野で過ごしたものの、その門人には諸大名や旗本なども多く含まれていた。

 素行は若年時は朱子学を奉じていたが、中年になると朱子学に疑問を抱くようになり、その著書において朱子学批判を展開した。そのことを公儀に(とが)められ、素行は播州赤穂で約九年間の配流生活を余儀なくされたこともあった。

 素行の父、山鹿貞以(やまがさだもち)には、伊勢の関一政に仕えていたとき、故あって同輩を撃殺して会津へ出奔したという事歴があった。桐江はのちにその事実を知ることになったが、父の一信が尾張にて藩士を斬って身を(くら)ましたことと重なり、偶然とは言え、素行と自分との身の上の類似に不思議な縁を感じていた。

 桐江は積徳堂で儒学、兵学、史学を学んだ。昼夜を分かたぬ精励ぶりで、書物に疲れると、裏庭で雙鳴鋏を振るって撃剣の稽古をした。そうして約二年を過ごし、十八歳のときには主要な漢籍を一通り渉猟し終えていた。


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