(1)田中家の由緒
「でやーっ」
「とあーっ」
屋敷内には気合いを込めた男子の喊声が何色も鳴り響いている。その声に混じって、木と木とがぶつかり合うときに発する甲高いような、鈍いような音も聞こえてくる。
「平右衛門、腰が入っておらぬぞ。そのような手打ちではろくに大根も斬れぬ。この屋敷を叩き壊すつもりで力いっぱい木刀を振るのだ」
平右衛門と呼ばれた七歳になるこの男児は、寛文八年(一六六八)に生まれた。名を省、字を省吾と云い、のちに桐江と号する。桐江は木刀を両手に握りしめて、屋敷内の広い台所に屹立している太い柱を必死の形相で睨んでいる。
「どりゃーっ」
桐江はそう叫びつつ、木刀で力いっぱいに柱を叩いた。すると、木刀が鈍い音を立てて跳ね返り、桐江の手から離れて床に落ちた。
「いてててて」
桐江は手がしびれて、その場にしゃがみ込んだ。
「はははは、平右衛門、おぬしの修行はまだまだこれからだ。理右衛門を見習って励め」
理右衛門は桐江の二歳上の兄である。齢九歳にして、木刀を構えて柱を睨む姿は堂に入っている。
「いやーっ」
理右衛門が腰を据えて柱を叩くと、桐江のときとは異なって快音が鳴り響き、木刀を取り落とすこともなく静かに佇んでいる。
「理右衛門は、筋が良い」
二人の父親である一信は、満足げにそうつぶやいた。
「平右衛門、我が家は権現様から頂戴した苗字を冠する誇りある家柄。武芸に秀でてこそ、実のある御奉公がかなうというもの。であるから、心して修行せよ」
一信の苗字は田中である。この苗字は家康から授かったものだという。
一信が周囲に語った話によると、田中家はもともと西三河の地侍であり、鷺坂と名乗っていた。鷺坂家は戦国の世に松平家へ仕え、三河武士として各地を転戦した。
永禄六年(一五六三)から七年にかけて勃発した三河一向一揆は、家康の生涯における三大危機のひとつとされる。このとき、石川康正や本多正信、渡辺守綱など、家康配下の多くの有力家臣が一揆方についたが、鷺坂一党も主君家康に叛き、一揆方の侍として出陣した。
だが、家康の奮戦が功を奏し、一揆方の勢力は徐々に衰え、やがて一揆は終息した。
家康は戦後処理において寛容さを示し、一部を除いて叛いた家臣たちを赦免、従来通りに帰参させた。
鷺坂の家は、田んぼが広がる田園地帯の中に一軒だけぽつんと存在していた。
ある日のこと、家康は鷹狩りで西三河の鷺坂家がある田園に足を踏み入れ、鷺坂の屋敷へ湯茶の休憩のために立ち寄った。
ところが、不審に思った旗本の一人がそれを諫めた。
「あれなる鷺坂一党は、先の一向一揆の折、殿に刃を向けた叛臣でございます。このまま攻め入るのであればいざ知らず、なにゆえ親しく馬の口を彼奴の屋敷につなげるのでございましょうか?」
すると、家康は笑いながら言った。
「鷺坂とは誰ぞな? あの家は田園の中にある一軒家ゆえ、田の中の家、つまり田中である。わしは田中の家に立ち寄るのだ」
家康は馬を下りると、田中、田中と呼ばわりながら屋敷の中へ入って行った。
それ以来、鷺坂家は田中と姓を改め、今日に至っている。
一信は慶長十五年(一六一一)、西三河で生誕した。幼少期から撃剣の鍛錬に余念がなく、長じてからは達人と呼ばれる域にまで達した。十五歳のときに父から家督を譲り受け、家康の九男で、尾張徳川家の藩祖、義直に仕えた。禄五百石であった。
だが、十八歳のとき、藩士某に難癖をつけられたことを恨み、某を一刀の下に斬り捨てて出奔した。
しばらくは草莽の中に身を潜めていたが、やがて江戸へ出て、知人である旗本の横田甚右衛門をたずねると、仕官の紹介を受けた。本多出雲守の家臣として禄三百石という処遇である。
話はまとまったのだが、仲介した甚右衛門から先祖書と親類書の提出を求められると、一信はにわかにつむじを曲げた。
「わが先祖や歴々の親類の名前を並べ立てて、それを餌に仕官の口を得るのであれば、たとえ千石積まれても受けるつもりは毛頭ない。一方、わし一人の器量を見込んで召し出そうとするのであれば、少々禄高が少なくても奉公する所存である」
一信はそうまくし立てて書類の提出を拒んだため、この話は立ち消えになった。
仲介した甚右衛門は、
「何と偏屈な男よ」
と長嘆した。
一信は意に介すこともなく、その後も江戸で浪人生活を続けた。
寛永十一年(一六三四)、一信二十四歳のとき、今度は旗本の森川金右衛門から仕官の紹介を受けた。出羽庄内藩の酒井家で禄二百石という処遇である。
このときも先祖書と親類書の提出を求められたが、一信は素直に従ってそれらを提出した。赤貧に近い浪人生活をいつまでも続けるわけにもいかず、こうして仕官の口がかかるのも、鷺坂(田中)一党の名声がものを言っていることが明らかであることをようやく認めたためである。おのれ自身の器量云々などと大上段に構えていた過去の自分を恥じ入る気持ちになっていた。
こうして一信は庄内藩士となり、庄内鶴ヶ岡城下の武家町の一角に屋敷を拝領して住むこととなった。




