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(17)徂徠に委ねる


 桐江は決行前に、徂徠宅がどこにあるのかを下見しておいた。七郎右衛門を斬った後、自分の身と家族とを徂徠に委ね、徂徠の指図に従うことに決めていた。家中において、桐江が最も尊敬し、信頼できる人物は徂徠であった。もし徂徠が、桐江の所行に対し、吉保へ出頭すべしと述べたとしたら、桐江はそうするつもりでいた。

 家族のことは、兄の理右衛門に委ねることも考えた。だが、今般の問題はあくまで柳沢家家中だけに留めておくべきであり、幕臣である理右衛門を巻き込めば、柳沢家へ何らかの不都合をもたらす懸念があると判断し、選択肢から外した。

 半刻ほどで徂徠宅へ到着した。ずっと早足で歩いてきたため、息が上がった。

「拙者、柳沢家家臣、田中省吾と申します。徂徠先生へお取次ぎ願いたし」

 玄関で応対した下女に名を名乗ると、やがて徂徠が玄関へ現れた。

「これは省吾山人。ご無沙汰でしたが、突然のご来訪とは、いかがなされましたかな?」

 徂徠が町宅して以降、桐江と徂徠が顔を合わせるのは、上屋敷か下屋敷で年に一、二度であった。

「徂徠先生にお願いしたき儀があります」

 呼吸が荒く、目が血走った桐江の様子にただならぬ気配を感じ取った徂徠は、桐江を座敷へ上げて、二人だけで対面した。

 桐江は息を整え、

「つい今しがた、御老公様用人、平手七郎右衛門を成敗致しました」

 と、経緯を話した。

 徂徠は、七郎右衛門の問題を知っていた。桐江がそれを憂い、怒りを内に秘めていることも知っていた。

「私の行いが主家に対して不忠であるのか否か、私には判断がつきません。そこで、ご迷惑を承知の上で、徂徠先生に裁いていただきたいと思い、こうして参上致しました。私は先生の裁きに従う所存です」

 徂徠は腕組みしたまま、しばらく沈思した。徂徠も、吉保の過去にはない享楽ぶりを心配していた。用人の七郎右衛門の悪評も、これまで複数の家中の者から聞いていた。

 だが、刃に掛けたのは行き過ぎのようにも感じた。そこまでの手段に訴えずとも、解決の道はなかったのだろうか。

 吉保はこのところ、体調が優れないという。養生の面からも、遊興は控えるようにと家老や桐江が何度諫めても、聞き入れてもらえない。そういう状態を看過したまま、手をこまねいていることが果たして忠と言えるのか。

 結局、君側の奸を取り除くしか術がなく、桐江は退去状をしたためて居宅に置き、柳沢家を致仕する覚悟でこの挙に出た。これを不忠であるとは名状しがたい。

 徂徠はそう考え、結論を出した。

「省吾殿の行い、不忠にはあらず。むしろ忠と名付くべし」

 徂徠は、しばしお待ちあれと言って座敷を出た。桐江は一人、黙想して待った。

 四半刻ほどして、再び徂徠が座敷へ入ってきた。徂徠の後に、三人の男が続いた。

「省吾殿、すぐにここをお立ちなされ。この三人が千住(せんじゅ)までお送り致すゆえ」

三人は、徂徠の門人である太宰(だざい)(しゅん)(たい)安藤(あんどう)東野(とうや)、それに知人の儒学者である岡島(おかじま)冠山(かんざん)であった。

 東野は以前、短期間ながら柳沢家に仕官していた時期があり、その当時は桐江と親しくしていた。一方、春台と冠山とは顔見知りではあったが、これまであまり親しく会話を交わしたことはなかった。

「しかし、お三方が私と同道すれば、どういう災いに巻き込まれるか分かりませんぞ」

 激怒した吉保が桐江追討の追手を差し向けるであろうし、それに七郎右衛門の家族が桐江の仇討ちに及ぶ可能性も高い。

 すると、東野が言った。

「私も平手七郎右衛門を知っていますが、あの男はまさに(ねい)(しん)と呼ぶにふさわしく、柳沢家に害毒を流す小人(しょうじん)(はい)です。先程、徂徠先生から経緯をお聞きし、省吾殿の行いはやむにやまれずであったことを理解しました。非力ながら、千住まで省吾殿をお守り致します」

 すると春台も言った。

「正直、あまり気乗りはしませんが、徂徠先生にそうせよと指示されました。先生の指示には逆らえません」

 冠山は、行きがかり上ではあるが、自分もこれに賛同し、千住まで同道すると言った。

「いずれ御老公様から私あてに、省吾殿のことで尋ねたき儀があり、出頭せよとのお指図が参るでしょう。それゆえ、私はこの家に留まりますが、御前において、私なりに正邪について愚見を申し述べるつもりです。聡明な御老公様のこと、よもやご判断を違えることはないと確信しています。省吾殿のご家族は私がお預かりし、後日、省吾殿の落ち着き先が決まり次第、お届けするように手配しますゆえ、どうかご安心あれ」

 徂徠にそう言われ、桐江は言葉に詰まった。

「……みなみなさまのこれほどまでのご厚情、まことにかたじけない」

 桐江は落涙した。主家の下屋敷で家臣斬殺に及んだ桐江は、吉保から追及されることは必定であり、その桐江の肩を持ち、逃亡の手助けをすれば、吉保から同罪とみなされる懸念がある。

 それにも拘らず、徂徠も、ほかの三人も、そんな危険を冒してまで手助けしてくれるという。そのことに桐江は深く感激し、肩を震わせた。

(四人とも儒者でありながら、侠気(きょうき)がある)

 かつて徂徠は、「峡中紀行」において、桐江を儒侠(じゅきょう)であると評した。だが、この四人こそ、儒侠と呼ぶにふさわしいのではないか。桐江はそう思った。

 桐江は三人とともに徂徠宅を出て、千住大橋までの約二里半を一刻あまりかけて歩いた。

 橋の手前で三人と別れ、桐江は単身、下総方面へ向かい、しばらくそこで身を隠した。

 このとき、姓を(とみ)、名を(いつ)、字を春叟(しゅんそう)に変じた。これは、桐江が憧憬する厳光の隠棲地である富春山にちなんで名付けたものである。

 桐江はその後、筑波山下に約三ヶ月間滞在後、知人を頼って陸奥仙台まで足を延ばし、この地に落ち着いた。のちに、徂徠の差配によって、仙台で妻子と合流することとなった。


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