(18)吉保、桐江、徂徠 その後
吉保は、桐江が七郎右衛門を斬殺し、退去逃亡したことに激怒した。当初は桐江に追手を差し向け、捕縛することを考えた。だが、事を大げさにして、公儀の知るところとなれば、柳沢家の家中取り締まり不備と断じられて、どういう沙汰が下されるか分からない。
熟慮の末、本件は不問に附すこととした。
吉保は、徂徠を六義園へ呼んで故綱吉の伝記執筆を指示し、それが翌年、「憲廟実録」として完成を見るや、徂徠に百石を加増した。徂徠の知行はこれで五百石となった。
「田中省吾の逃亡を手助けしたのは徂徠に違いない。徂徠以外の男にできることではない」
徂徠は後日、吉保に近侍していた門人の服部南郭から、吉保がそのように述べたことを聞き知った。
徂徠はそれを知ったとき、言葉を失った。桐江のことは、いずれ吉保から詰問されるものとばかり思っていたのだが、拝謁してもいっこうにその気配がなく、疑問を抱いていた。吉保は、桐江逃亡に徂徠が一枚噛んでいることを知っていながら、あえて徂徠を問責せず、それどころか徂徠へ新たな仕事を指示し、それが完成した暁に百石を加増したのだ。
徂徠は、吉保の度量の大きさに感じ入り、この君に仕えた幸せをしみじみと実感した。
徂徠はこのことを桐江に手紙で伝えた。桐江は、柳沢家からの追手、ないしは七郎右衛門の遺族による仇討ちを警戒し、気持ちが休まる暇もなかったが、どうやら吉保が本件を追及しないらしいことを知って、やや緊張がほぐれた。と同時に、吉保の英断に敬意を示し、その君恩に感謝した。
桐江と徂徠は、その後も頻繁に手紙を交わし合い、生涯にわたって交流を続けた。
斬殺事件の翌正徳四年(一七一四)、持病の悪化で床に就いた吉保は、看病の甲斐もなく、十一月にこの世を去った。享年五十七歳。
桐江は、徂徠からの手紙でこのことを知った。この当時、桐江は仙台城下から約三里離れた愛子村に転居していたが、あまりにも早い旧主君の訃報に桐江は呆然とし、一点を見つめたまま長い時間を過ごした。
桐江は徂徠への返信に、
「小子、是より跡を侯門に屏けて、生を樵夫漁翁の間に終らんのみ」
としたためた。すなわち、今後は世に隠れて生涯を終えることを徂徠へ表明した。もとより遁世志向があった桐江にとって、これは必然でもあった。
以後、桐江は表立った活動を行わず、陰儒として身を処したが、自分を慕って来る人たちに儒学を講じたり、詩文を教授したりして余生を送った。十年余を仙台で過ごした後、縁あって五十七歳のときに摂津池田へ居を移し、寛保二年(一七四二)、七十五歳で歿した。
徂徠は、桐江に先立つこと十四年の享保十三年(一七二八)、六十三歳で病没した。数多くの書物を著し、八代将軍吉宗からの政事についての諮問に答えたりもして、徂徠は押しも押されぬ大儒として名を成した。
了




