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(16)決行


 桐江は、同居する妻子と、甥の(らん)(りょう)(はた)()へ退避させると、居宅内をきれいに整えた。

 それから、したためておいた退去状を玄関に置いて、家を出た。

 下屋敷に出仕した桐江は、平手七郎右衛門を裏庭へ呼び出した。

「おぬしの日頃からの傲慢(ごうまん)な振る舞い、御家の風紀を乱すこと甚だしい」

 桐江がそう言うと、七郎右衛門はあごを上に向けて頬をほころばせた。

「またお説教ですかな。もう聞き飽きました。私は御老公様の御意(ぎょい)に沿うようにお勤め申し上げているだけです。いったいその何がいけないのでしょうか?」

「それだけではなかろう。上役や同僚への横柄な態度、それに、人の弱みを握っては御老公様へ告げ口すると脅しをかけるなど、おぬしの所行は武士の風上にも置けぬ」

 すると、七郎右衛門は鼻で笑った。

「武士ですと? そういうあなたこそ武士ですか? 難渋な漢籍を読むしか能のない儒者上がりだと聞いています。はっきり言いますが、儒者などはおよそ世間知らずで、いざというときには何の役にも立たない長袖者(ちょうしゅうしゃ)じゃありませんか? おっと、あなたは少々腕が立つとも聞き及んではいますが、しょせんは論語読みの手慰み程度に過ぎますまい」

 七郎右衛門の目には軽蔑の色が浮かんでいた。

「……つまり、おぬしはみずからの言動を改める気はない、ということだな?」

「そもそもあなたは、(とき)(ちか)様の家老ではあっても、御老公様にとっては用人ですよね? 私と同格の身分じゃないですか? 重臣でもないあなたにとやかく言われる筋合いはない」

 すると、桐江は腰元の雙鳴(そうめい)(きょう)を素早く抜き取り、七郎右衛門を袈裟懸けに斬りつけた。

 一瞬の出来事に、七郎右衛門には何が起こったのかが分からない様子であった。目を大きく見開き、口を開けたまま膝をつき、後ろ向きに倒れた。即死であった。

(しまった)

 桐江は脇差で斬るつもりだったが、日頃から振り慣れている雙鳴鋏を間違って抜いてしまった。人を斬るのはこれが初めてであり、冷静でいようと心がけてはいたものの、やはりどこか浮足立っていた。

 雙鳴鋏は、庄内の実家を出る際、父の一信から手渡された得物であった。その際、

「この刀は人を斬るためではなく、おのれの雑念を斬り、一心腐乱に自分が決めた道を歩むためのよすがとせよ」

 と一信から言い含められた。桐江は、雙鳴鋏で人を斬ったことを悔いた。

 その一方、一信も若年の頃、同僚を斬って出奔した経歴があり、自分も父と同じ境遇に立ち至ったことに宿命のようなものを感じていた。

 桐江はすぐにその場を立ち去った。

 向かう先は、六義園から約一里離れた牛込若宮小路の徂徠宅であった。徂徠は四年前、町宅を許された際、日本橋茅場町に住んだが、周辺の騒々しさが気に入らず、約一年前に牛込(うしごめ)へ引っ越していた。

 桐江はかつて、吉保からこう言われた。

「家臣の務めとは何か。それは、主君を諫めることだ。ただ、(おもて)を冒して諫言すればいい、と言っているわけではない。主君の機嫌をうかがい、頃合いを見計らいながら適切に諫めることが肝要である。それはとても骨の折れる仕事ゆえ、二度三度諫めても聞き届けられなければ、あとはままよと諦めてしまいがちだ。だが、それでは務めを果たしたことにはならない。四度でも五度でも、あるいはそれ以上でも、必要だと思うのであれば聞き届けられるまで諫め続けることだ」

 吉保は、気難しい綱吉の側近として長年にわたって仕え、ときには耳の痛い話を何度も伝えなければならない立場にあったものの、最後まで綱吉からの信頼を損なわなかった。そんな吉保みずからの経験に裏打ちされたこの訓話は、桐江の身に沁みた。

 そのため、七郎右衛門の問題が起こったとき、桐江は三たび吉保を諫めたのだが、吉保の聞き届けるところとならなかった。

 それなら四たび、五たび諫めるのが吉保流ではあるが、桐江は吉保の体調の崩れを危惧し、また家中の風紀の悪化を憂えるあまり、そこまで辛抱強く待つことができず、ついには非常手段に訴えることにしたのである。


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