(15)桐江の憂悶
正徳二年(一七一二)十月、家宣は感冒に罹患すると、それが悪化してにわかに薨去した。享年五十一歳。
将軍在位はわずか三年余であった。家宣の嫡子である鍋松はまだ四歳であり、幕閣では将軍継嗣は鍋松か、それとも御三家から迎え入れるかについて意見が分かれたものの、結局、鍋松が後継に決まり、家継と命名されて七代将軍に襲位した。
そんな騒然とした中、柳沢家において、ある問題が生じていた。
六義園は、柳沢家下屋敷であると同時に、吉保が万葉時代への憧憬を具現化すべく、和歌の浦を模して造営した庭園でもある。約二万六千五百坪の敷地に千川上水を引き込んで水辺をつくり、土盛りして丘を築き、多種多様な草木を植え付け、また随所に東屋を設けて散策の足休めの場を提供した。
吉保がここに隠棲した当初は、綱吉在世当時と同じように読書と坐禅、歌詠みにいそしみ、慎ましやかに暮らしていた。
ところが、吉保の隠居と同時期に用人として雇われた平手七郎右衛門は、吉保へ歌舞音曲を勧め、やがて芸妓や幇間を屋敷へ引き入れて宴を開き、夜更けまで騒ぐような状態になった。
長年、綱吉の側用人として身を粉にして働いた吉保のことゆえ、神事の後の直会のようなものだと理解を示す向きもあったが、それが度重なると、そうそう寛容ではいられなくなり、家中の風紀の乱れにもつながると懸念する声が大きくなった。
桐江も、そんな吉保の姿を苦々しく眺めている一人であった。桐江ほか、吉保付きの家老や他の用人たちも、ときどき吉保を諫めたが、吉保は、
「単なる息抜きであり、目くじらを立てるに及ばず」
と言って取り合わなかった。
家臣たちの非難は、吉保を遊びに誘った七郎右衛門へと向けられた。
「おぬしのせいで、御老公様(吉保)は夜な夜な遅くまで宴席にお出ましになり、お身体を休める暇もない。体調を崩されはしないかとみな息をのんで見守っている状態だ。もういい加減、御老公様を宴席へお誘いするのはやめよ」
そのように、七郎右衛門へ直接苦情を言う上役も居た。
「これは異なことを仰せになられますかな。確かに最初は、長年蓄積されたお疲れの御慰みになればと思い、宴で発散されるようお勧め申し上げましたが、今は御老公様から宴席を設けよとご指示されている次第です。私のような下僚の分際で、どうして御老公様のご指示をむげにお断りすることなどできましょうか?」
「むげに断れとは言っておらぬ。やんわりと、宴席を控えるようにとお伝えすればいい」
「それはご重臣方からお諫めいただくことではないでしょうか? 繰り返しになりますが、私の分際で、御老公様へ物申すことなど無理なお話です」
七郎右衛門はそう反論し、取り合わなかった。
上役からの指示に従わないだけではなく、吉保の寵を笠に着て、七郎右衛門は上役や同僚に対する態度までが粗略になった。ときには、同僚のちょっとした瑕疵を見つけてはほくそ笑み、このことを御老公様のお耳に入れるぞと言って脅し、相手を自分の思うままに操るようにさえなった。
「七郎右衛門、斬るべし」
家中からはそんな物騒な声がしばしば聞かれるようになった。
桐江も言葉には出さないものの、思いは同じであった。六義園の主たる吉保は、もはや以前のように謹厳実直な主君ではなく、享楽主義の老爺に堕してしまった。長年、綱吉の最側近として張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れてしまったかのように見受けられた。
そんな吉保を恨む思いはあったが、そのように吉保を堕落せしめた七郎右衛門こそ許しがたい佞臣であり、大鉄槌を下さずには済むまじと怒りをたぎらせていた。
翌正徳三年(一七一三)の早春、吉保付きの家老二人と桐江の三人が吉保に拝謁し、
「お体に障りますゆえ、宴席へのお出ましをお控え下さいますよう」
と諫め、かつ、
「用人の平手七郎右衛門には切腹申し付けるのが妥当かと」
と述べた。
それに対し吉保は、
「宴席はなるべく控えるが、七郎右衛門への切腹申し付けとは、あまりにも大げさな処置である」
と言って斥けた。
その後、宴席の回数は若干減ったものの、あまり大きく変わりはなく、しかも七郎右衛門の態度もいっこうに改善が見られなかった。三人から諫言されたことを、吉保は七郎右衛門には伝えていないように見受けられた。
桐江は、その後数日間悩み続けた。このままでは吉保の健康だけではなく、柳沢家の家中へも悪影響を及ぼすことになる。家臣として、この状態を看過するのは不忠ではあるまいか、と考えた。
(ここに至ってはやむなし)
それまで瞑想していた桐江は目を見開き、ついに行動を起こすことを決断した。




