(14)綱吉薨去と、吉保の隠居
宝永六年(一七〇九)の年明け早々、綱吉が薨去した。享年六十四歳。
その前年十二月、綱吉は通算五十八回目となる柳沢邸への御成を行ったばかりであった。そのわずか一ヶ月後に隠れたことになる。
年末、綱吉は流行していた麻疹に罹患した。年が明けても、年始の儀式に綱吉は出御せず、継嗣の家宣が代理をつとめた。
綱吉の健康状態が心配される中、一度は快復したとの噂が流れたが、それも束の間、にわかに容体急変して息を引き取った。
吉保は悲嘆のあまり、しばらくは食事も口にしなかった。それと同時に、今日の自分があるのは、ひとえに綱吉の引き立てによるものであることが分かっていただけに、その綱吉亡き後、もはやこれ以上、自分が幕閣に籍を置き続ける妥当性が見い出せなかった。むしろ、ここで身を引かなければ、何らかの痛いしっぺ返しに遭う懸念が高いと判断した。
吉保は、江戸城西の丸へ参上し、家宣に拝謁すると、
「上様御側御用のお役目を返上申し上げ、かつ隠居、出家つかまつりたし」
と述べた。
家宣は、
「そなたの心情はよく分かるものの、不慣れな余をいま少し助けてほしい」
と言い、すぐには隠居を許可しなかった。
結局、家宣が六代将軍襲位後の同年六月、吉保の隠居はようやく許可された。このとき吉保は五十二歳、家督を継いだ嫡男の吉里は二十三歳であった。
吉保は保山と号し、柳沢家下屋敷である駒込の六義園に隠棲した。
綱吉の薨去は、柳沢家の儒臣たちにとっても大きな身分変更を強いられる出来事であった。綱吉の御成御殿は取り壊され、綱吉の小姓や小納戸役たちが学んでいた学舎は閉鎖された。儒臣たちは教授すべき門人が居なくなったため、多くは柳沢家を致仕し、それぞれに塾を開いたり、新たに別の大小名へ仕官したりした。
そんな中、桐江は吉保に呼ばれた。
「田中には周旋の才がある」
吉保にそう言われて、桐江は戸惑った。儒者として、周旋の才があると評されるのは必ずしも名誉なことではないと感じた。それに、桐江自身、自分にそのような才質があるなどと考えたこともなかった。
「そなたの文書管理の仕事ぶりを見ていて、わしはそう感じた。そなたは不服かもしれないが、これはけなしているわけではない」
吉保は、桐江の表情から察してそう付け加えた。
「そこで、そなたには今後、当家の用人、ならびに時睦の家老として勤めてほしい」
時睦は吉保の五男であり、このとき十八歳である。
吉保は、桐江には二百石の知行をあて行うとも言い添えた。
桐江は、馘首を言い渡されるものと覚悟して御前に臨んだため、吉保の意外な申し出に一瞬茫然とした。
さらに吉保は、
「今後も引き続き、文書管理の仕事を申しつけることがあるであろう」
と言った。
「お役目、謹んでお受け致します」
桐江はこの際、儒臣として専一に勤めることに拘泥せず、新たな役割に生きてみようと考えた。以前から、自分で自分のことがよく分かっていない、という自覚があり、吉保が言う「周旋の才」というものが、意外と本質を見抜いているのかもしれない。桐江はそう思って、吉保の沙汰を承諾した。
時睦は、二歳上の兄、経隆とともに甲斐領内にそれぞれ一万石ずつが分知され、形式上、大名の列に加わっていた。ただ、あくまで江戸在住であり、甲斐の領地へ赴くことはなかった。
時睦は吉保にしたがって六義園に住んでいたため、桐江も六義園へ移り住んだ。桐江は、時睦の家禄を管理しつつ、一方では隠居した吉保とも頻繁に面会し、その用を足すようになった。
一方、徂徠は、吉保の隠居を機に町住まいを許されることとなり、しかも柳沢家家臣の身分はそのままで、四百石の知行も継続された。徂徠は日本橋茅場町に一軒家を購入して移り住んだが、このとき、徂徠の号とは別に、蘐園という別号をも称するようになった。
そんな破格の待遇を桐江はうらやましく思わないこともなかったが、徂徠のこれまでの主家への貢献度を思い合わせると、それは当然の処遇であると納得した。
この時期、平手七郎右衛門という者が柳沢家で新規に雇用され、吉保付きの用人として六義園へ詰めることになった。




