(13)桐江と徂徠の甲府視察
翌宝永二年(一七〇五)の春、吉保が賜った新領の封地替えが沙汰された。すなわち、駿河にあった飛び地を返上し、代わりに甲斐の山梨郡、八代郡、巨摩郡を吉保に与える、という内容であった。
これによって、吉保の所領は甲府を中心にしてまとまりができ、領国経営の便が格段に向上した。
それのみならず、この封地替えによって、吉保の所領は実質上、二十二万八千余石となった。前年、甲府への転封を言い渡されたときの所領は十五万一千余石であったが、さらに七万七千石も膨れ上がった計算になる。
留まるところを知らない吉保の果報ぶりに、桐江のみならず、誰もが言葉を失った。中にはこれを嫉視する大小名も多かったが、吉保は過分な僥倖に驕ることなく、関係者への感謝の辞と付け届けとを怠りなく行って、いたずらに敵をつくるのを未然に防いだ。人心というものの機微に通暁した吉保ならではの取り計らいであった。
桐江は、自分が抱く遁世への憧憬は、俗世間における人間関係の煩わしさから逃れたいという思いが一つの起点になっていることに気づいていた。俗人として普通に暮らすのでさえ、人間関係というしがらみは心労の種である。ましてや、権力志向の強い人物が大勢巣食う幕閣にあって、綱吉の側近中の側近として長年その地位を保ち続け、それでいて重臣たちから足を引っ張られないのは、いかに吉保が人間関係に細心の注意を払い、心を砕いているかという証左でもある。
処世術の達人と言わざるを得ない。桐江は悪い意味ではなく、尊敬の念を込めて吉保をそう評した。
同年の秋、徂徠の妻、休が歿した。
徂徠と休の間には五人の子供が生まれたが、うち三人は早逝した。休は二歳の女児と、生まれて間もない男児とを残したまま逝ってしまった。
徂徠の落胆は大きかった。桐江は、しばらく出仕せず、喪に服していた徂徠を元気づけるとともに、死去した休の墓碑銘を書き綴り、その墓前に捧げた。
宝永三年(一七〇六)の秋、桐江と徂徠は吉保に呼ばれた。
「そなたら二人に、甲府、ならびにその周辺を視察してきてほしい」
桐江と徂徠は顔を見合わせた。趣旨がよく呑み込めない。
「甲府、ですか?」
「そうだ」
吉保は、二人の困惑ぶりを見て、笑った。
「わしはこのたび封地となった甲府と、我が父祖の地である武川周辺を目の当たりにしたいと願っている。だが、わしは役目柄、江戸を離れることができぬ。そこで、達文のそなたらには、わしの目となり耳となってかの地を訪い、その見聞した内容をつぶさに報告してほしい」
二人は与えられた仕事の意味をようやく理解した。
「はっ。お役目、しかと承りました」
御前を退出すると、二人はさっそく旅の計画立案に取りかかった。
桐江は、この甲府行きを徂徠と共に名指しされたことをとても光栄に感じた。徂徠にまず白羽の矢が立つのは当然のことながら、二番手に自分が選ばれたということは、吉保が徂徠に次いで自分を文の達者と見ていることの証になる。
ただ、同居している母の病が重く、寝たきりであることが気がかりではあったが、旅の準備が整うと、妻に看病を託して、徂徠と共に神田橋の柳沢家上屋敷を出発した。
一行は、先頭に柳沢家の馬印を掲げた小者が立ち、次いで供侍が三人、その後ろに徂徠と桐江が乗る駕籠が続く。さらにその後ろには二十人余の従僕が付き従い、総勢三十人にも及ぶ堂々とした隊列であった。しかも、四谷大木戸の先、内藤新宿までは、一行見送りの人数までもが付き添い、まるで小大名の外出にも似た様相を呈していた。
桐江はさすがに面映ゆかった。藩の重臣でもない自分たちには大仰過ぎると引け目を感じたが、柳沢家の公用であり、しかも今回の旅は吉保の目となり耳となって赴くものであるため、吉保の命で相応の体裁が整えられた。
一行は甲州街道を西行し、三日後に甲府へ到着した。甲府城で家老ら重臣たちと面会し、吉保からの書状を手渡した。翌日には柳沢家菩提寺として新たに創建中の永慶寺と、信玄の居館があった躑躅ヶ崎を訪問した。この夜、重臣たちの前で、吉保が起草した碑文を桐江が朗々と読み上げ、その意味を徂徠が説明した。
その翌日、武川周辺へ足を踏み入れ、柳沢家の出自である青木村を訪ね、祖霊の位牌が安置されている常光寺を詣でた。さらにその翌日には柳沢村へ入り、柳沢家にゆかりのある旧跡を訪ねた。
当初予定していた跋渉を終えて甲府へ戻ると、一日休養後、今度は甲州街道を東行して帰京の途に就いた。
旅の随所で、桐江と徂徠は互いに漢詩を賦し合い、桐江が一四七編、徂徠が一五三編を作詩した。
こうして十三日間に及ぶ甲府行きを終えて柳沢家上屋敷へ帰着すると、さっそく吉保に拝謁して顛末を報告した。
「二人とも苦労であった。そなたらはまことに風流使者と呼ぶにふさわしい」
吉保はそう言うと、絶句一遍を賦して二人を称揚した。
この甲府行きについては、徂徠がとりまとめて執筆し、「風流使者記」と名付けて吉保へ提出した。後年、徂徠はこれを改稿し、「峡中紀行」を著した。
「峡中紀行」において、徂徠は桐江のことを、健啖家であり、撃剣に長け、世の不正を怒り嘆き、挙措動作が素早い、まさに儒侠と呼ぶにふさわしい、と評した。
無事に甲府行きの公務をまっとうした桐江であったが、江戸を出発した翌日、八王子で母の訃報の知らせを受けとっていた。帰宅した桐江は、すでに埋葬が済んでいた母の墓前へおもむき、父と同様に、母の死に目にも会えなかった親不孝を詫びた。




