(12)将軍継嗣決定
元禄十六年(一七〇三)二月、綱吉の柳沢邸への御成が行われた。このとき桐江は、綱吉ほか、幕閣の重臣たちが居並ぶ面前で初めて講義を行った。内容は、「詩経」小雅の一節についてである。
講義後、桐江は綱吉から、
「明解にして妙。これもそなたの勉励の成果と見ゆる」
と、ねぎらいの言葉をかけられ、かつ時服を賜った。
綱吉帰城後、吉保からもお褒めの言葉をもらい、徂徠からも称賛された。
柳沢家に仕官してから約四年、桐江は初めて晴れの舞台で重要な仕事をやり遂げたという充足感を覚えた。
桐江はこれ以降、綱吉御成の際に講義を行ったり、徂徠ほか他の儒臣たちと儒学の術語について議論する論者の一人として参画したりと、末席で成り行きを見守っているだけの一参加者の域から脱した。
ここへきて、桐江はようやく儒学者として吉保から認められたように感じた。それに付随してか、徂徠に対する複雑な感情がやわらぐのを感じた。
徂徠という人物がどういうものであるのかが分かってきたことにもよる。優れた頭脳の持ち主であるのはもちろんのこと、その猛勉強ぶりは他の追随を許さない。特定の師に就かず、少年時からつねに独学で学んできたためか、自負心が強く、負けず嫌いである。
徂徠は、京在住の大儒、伊藤仁斎の著書を読んで、疑義が生じた。先頃、その点を問うために、同僚の儒臣で、かつて仁斎に就いたことがある渡邊子固の紹介を受けて、仁斎へ手紙を出した。
ところが、待てど暮らせどその返信が届かず、徂徠は苛立ちを募らせた。
「いかに碩学とは言え、こちらが辞を低くして書簡を出したのに、それを無視するとはどういう料簡だ? 仁斎何者ぞ!」
徂徠は桐江にもそう不満を漏らしていた。
結局、返信は届かずじまいで、仁斎は七十九歳で歿してしまった。
おまけに後年、仁斎の伝記資料が刊行されたが、それに徂徠が仁斎に出した手紙が無断で掲載され、慇懃にへりくだった文面が白日の下にさらされてしまった。
怒り心頭に達した徂徠は、仁斎を否定し、さらにはそれを凌駕するための学説構築に情熱を注ぐようになった。
そういう反面、他人に対しては親切であり、面倒見がいい。親分肌とも言える。桐江と同時期に柳沢家へ仕官した服部南郭は、もとより桐江と親しかったが、今では徂徠の弟子として自他ともに認める存在であった。
南郭が徂徠を師に選んだことに多少のもやもやがなくもなかったが、桐江は、人にはそれぞれ器量の大小があり、自分の器量が小さいことを認めもせずに他人をやっかむのは不毛なことだ、ということをようやく体得できるようになっていた。
徂徠には意外と人間臭い面があり、しかも感情の熱量も、学問へ賭ける情熱もずば抜けて大きい。それに比べて自分は、外へ向けて発しようとする熱量も気概も小さく、ややもすれば自分一人の世界へ閉じこもりがちである。柳沢家へ仕官したのも、たまたま山鹿藤助からの紹介があったからであり、もしそれがなければ、自分は今でも漱石山房に籠って隠者然とした暮らしに終始していたかもしれない。
南郭という、詞藻豊かで温厚な若者は、その後も桐江宅へ頻繁に出入りし、桐江もそれをあたたかく迎え入れていた。
宝永元年(一七〇四)の暮れ、柳沢吉保は三万九千石の加増を受け、同時に川越から甲府への転封を言い渡された。吉保の所領はこれで十五万一千余石となった。
江戸幕府が開かれて以降、甲府はつねに徳川家親藩が入封するか、幕府直轄領であり、この沙汰が言い渡される直前までは、綱吉の甥である綱豊の封地であった。
綱吉には次期将軍を継ぐべき男子が居らず、しかも還暦を過ぎた綱吉にはもはや後継者を産み出す精力はなかった。
そのため、有力な後継者としては、甥の綱豊と、綱吉の長女鶴姫の婿、紀州藩主徳川綱教の名が取り沙汰されていた。
ところが、鶴姫は疱瘡に罹り、宝永元年の春、二十七歳で歿した。
これによって、もし鶴姫と綱教との間に男子が生まれれば、綱教が将軍を継いだ後、その次は綱吉の孫が将軍職を襲うことになるという目論見の芽が摘まれてしまった。
こうなっては選択の余地はなく、後継者は綱豊になるはずだが、その綱豊自身が、病弱を理由に将軍継嗣への就任を承諾しなかった。
吉保はそんな綱豊を粘り強く説得し、ついには綱豊に将軍継嗣受諾を首肯させた。それに加えて、吉保は継嗣発表の典礼儀式一切を取り仕切って、綱豊を滞りなく江戸城西の丸へと入城せしめた。綱豊はこれを機に、家宣と改名した。
綱吉は、事の顛末に大いに満足した。
「こたびの将軍継嗣決定における吉保の功労、とても筆舌には尽くしがたい。よって、それに報いるに、吉保には加増の上、綱豊の旧封地である甲府をあて行うこととする」
綱吉はさらに、
「元来、甲府は徳川一門以外の人臣を封ずる地ではないものの、吉保は一家同然であり、かつ吉保にとって甲府は父祖の地でもあることから、今後も忠勤怠らず、永く封地を保つべし」
とも言い添えた。
吉保にとって、望外の喜びであった。時の最高権力者をしてそこまで言わしめれば、これを至福と呼ばずして何と呼ぶだろうか。
桐江はこの話を初めて伝え聞いたとき、あり得べからざる噂だと思った。そもそも甲府は徳川一門が治める地であり、いくら綱吉の寵が厚いとは言え、門外の吉保にお鉢が回ってくるはずはないと、はなからそう決めてかかっていた。
そのため、それが事実だと分かったとき、桐江はほとんど驚愕に近い感情を味わった。この世の中、まさかそこまではと思う出来事が現実に起こり得るものなのだ、ということをつくづく思い知らされた。




