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第7話 黒い宝石(トリュフ)と崩れる日常(後編)



 王宮の回廊は、いつも通り整然としていた。

 誰かが走る靴音、控えめな伝令の足、貴族や高官たちの話し声。――いつもの王宮だ。


 バティスが先に歩き、近衛の詰所を無言で通す。

 師団長の顔は、ここでは通行証みたいなものだった。


 程なくして、王妃の離宮の近くに設けられた外交官詰所へ辿り着く。

 そこに、ミロシュがいた。金髪を後ろで束ねた背の高い青年。外交官の衣装のまま書類束を抱え、部下と小声で指示を交わしている。


 マリアが近づくと、ミロシュはすぐに気づき、表情を引き締めた。


「マリア殿……先日は王女殿下をお救いくださり、ありがとうございました」

「いえ、私の任務ですから。王女殿下にお怪我がなく、安心しております。ところで――」


 マリアの言葉を遮るように、バティス師団長が一歩前へ出た。

 ミロシュの耳元に近い距離で、声を落として告げる。


「至急、魔導回路の洗浄液の在庫確認をしていただきたい」

「洗浄液ですか?急になぜ――」

「マリア団長の従者が、毒に見える急性症状で倒れました」

「なっ……!」


 ミロシュの瞳が見開く。だがすぐに感情を押し込み、外交官の顔に戻った。


「……すぐに確認します。あれは劇薬です。万が一紛失でもあれば責任問題だ。在庫と同時に、中和剤も当たります」

「ありがとうございます。しかし、できれば内密にお願いします。事は一刻を争いますが、大ごとにはしたくありません」


 ミロシュは頷くと、すぐに部下を呼び、詰所の奥へと消えた。

 マリアとバティス師団長は、落ち着かない面持ちでその場に留まる。



◇ ◇ ◇



 いくら同盟国とはいえ、他国の外交官の執務室の前に居続けるのは良くない。そう判断した二人は、廊下の端へ寄り、ミロシュの戻りを待った。


「……マリア団長」


 沈黙を破ったのはバティス師団長だった。低い声だが、気遣いが滲む。


「スピタル師団長が時間を稼いでいます。焦りは禁物です」

「分かっています。……分かっているのに、落ち着かないのです」


 マリアは拳を握り、ほどけないように指先に力を込めた。


 ほどなくして、早足が戻ってくる音がした。

 ミロシュだ。余程急いでいたのか、肩で息をしている。


「……っ……お待たせしました」


 声を抑えたまま、ミロシュは二人の間に入った。勤めて冷静さを保とうとしているようだが、目の奥が怒りで燃えている。


「確認が取れました。こちらで管理している洗浄液――精密機器用のものが、規定数より一本足りません」

「……やはり」

「表向きは管理ミスの可能性として処理します。が、今はそれより治療です」


 ミロシュは一度息を吸い、言葉を選ぶように続けた。


「その洗浄液自体は、直接飲めば内臓を焼きます。ですが――菓子に混ぜて、ごく少量を体内でゆっくり反応させるやり口なら、確かに“毒のような症状”になります」

「治療は?」

「可能です。……ただし、こちらの薬と処置が必要です。今すぐ竜舎へ案内してください。部下に薬を持たせていますので、すぐに追いかけて来させます」


 マリアの胸が、少しだけ軽くなった。


「……ありがとうございます。お手数ですが、内密にお越しください。ミロシュ殿」

「承知しました」


 三人は踵を返した。



◇ ◇ ◇



 竜舎へ戻る道中、マリアの頭は冷えていった。

 感情を押し殺すほどに、次の疑問が浮かぶ。


 ――なぜ、こんなものが竜舎に届いた。

 ――誰が、誰の名義を使って。

 ――狙いは私か、それとも竜騎士団そのものか。

 ――国境を越えたヴォルグの手の者か。


 談話室前には、エルザールが緊張の面持ちで張り付いていた。

 エルザールはマリアたちに気づくと、扉を開き、一行を中へ通す。


 部屋の入口ではフリオが目を光らせていた。

 現れたのがマリアたちだと分かり、わずかに肩の力が抜ける。封蝋の状態も記録され、菓子箱に誰も触れていないことが一目で分かった。


「マリア様、キリはスピタル師団長のお力で維持しています。その……」

「分かってる。ミロシュ殿に来ていただいたわ」


 誰も口を開かない談話室には、肌を刺すような冷たい緊張感が張り詰めている。

 キリは簡易寝台に寝かされ、肌は白く、呼吸は浅い。まるで眠っているかのようだ。

 スピタル師団長が杖をかざし、淡い光を流し込んでいる。

 ヴァレリナはその横で補助に入っていた。汗で前髪が額に張り付き、顔色が悪い。


「ミロシュ殿……」


 スピタル師団長は小さく息を吐き、酷く冷ややかな視線をミロシュへ向けた。普段は感情を見せない彼の目には、「ようやく来たか」という安堵よりも、今回の卑劣な事態に対する静かな怒りが滲んでいる。


「マリア、状況を教えてくれるかな」

「それについてはミロシュ殿から」

「承知しました。――こちらの管理薬剤が一本足りません。恐らくその薬剤が使用されたと見て間違いない。中和は可能です」

「毒ではないのか」


 ミロシュは頷き、懐から取り出した小瓶の蓋を開けた。中に入った透明な液体を布に一滴だけ染み込ませ、キリの口元へ近づける。布が微かに青く変色したのを見て、彼は苦渋に満ちた視線をマリアへ投げた。


「マリア殿、ぬるめの湯を用意していただけますか。あとは布と清潔な器。それから、口に入れるための細い管があれば理想です」

「すぐに用意します」


 話を聞いていたフリオが即座に動いた。


 ミロシュは膝をつき、キリの唇と喉元を確認する。

 スピタル師団長へ低く言った。


「今は仮死に近い状態でしょう。維持の魔力を一段だけ落としてください。間もなく届く中和剤を体内に入れるため、僅かに体を働かせる必要があります」

「……細い指示ですね」

「スピタル殿なら問題ないでしょう。それに今のままでも、薬剤はじわじわと体内を巡り、やがて限界が来ます」

「わかりました」


 スピタル師団長が静かに目を閉じ、杖から流れる光の波長を微かに変えた。

 極限まで止められていたキリの時間が、ごく僅かに動き出す。止まっていた呼吸が微かに戻り、苦痛に顔が歪みかけた――その瞬間だった。


「ミロシュ様、お持ちしました!」


 息を切らしたテクノラートの医療班が、大きな医療鞄を抱えて部屋に駆け込んできた。

 ミロシュが急遽呼び寄せていた、魔導薬品の扱いに長けた専門の医務官だ。


「遅い。すぐに中和剤の投与を。フリオ殿が用意してくれた湯と管を使え」

「はっ!」


 医務官は即座にキリの傍らに膝をつく。

 フリオから受け取ったぬるめの湯で中和剤を正確な濃度に溶かし、細い管を使って慎重にキリの口内へと流し込んでいった。


 マリアは祈るような気持ちで、その手元を見つめていた。

 バティス師団長も腕を組み、鋭い視線で処置を見守っている。


「……よし。嚥下反応あり。中和剤、体内へ入りました」


 医務官の報告とともに、張り詰めた時間が流れた。


 数分後。


 キリの青白かった唇に、ほんのり赤みが戻り始めた。

 浅く小刻みだった呼吸が、次第に深く、規則的なものへと変わっていく。

 苦痛に歪んでいた眉間のしわが緩み、穏やかな眠りについたような表情になった。


「……峠は越えました」


 額の汗を拭い、医務官が安堵の息を吐く。


「強力な溶剤ですが、スピタル師団長が即座に仮死状態にして巡りを止めてくださったおかげです。内臓への深刻なダメージは防げました。あとは数日安静にしていれば目を覚まします。後遺症は――目覚めた後に最終確認が必要ですが、命に関わるものではないでしょう」


 その言葉に、部屋の空気が一気に弛緩した。

 フリオが深く息を吐き、天井を仰ぐ。

 限界まで魔力を絞り出していたヴァレリナは、安堵からへなへなとその場に座り込んだ。


 マリアはキリの温かさを取り戻した手を両手で包み込み、そっと自分の額に押し当てた。


「……よかった。本当によかった……」


 震える声で呟くマリアの姿に、バティスは静かに目を伏せた。

 マリアが立ち上がり、ミロシュたちへ向かって深く頭を下げる。

 フリオや他の団員たちもそれに倣った。


「ミロシュ殿。そして医療班の方。竜騎士団を代表して、心より感謝申し上げます」

「頭を上げてください、マリア殿。元はと言えば、我が国の管理下にあるはずの劇薬が使われたのです。謝罪しなければならないのはこちらの方だ」


 ミロシュは厳しい表情のまま首を横に振った。

 そして、鋭い視線を忌まわしい菓子箱へと向ける。


「我が国の軍需物資が、なぜログレスの、それもブランデル侯爵家からの贈り物に混入していたのか……。この薬剤がどこから漏れたのか、テクノラートの威信にかけて必ず突き止めます。マリア殿たちには、追って必ずご報告をお約束しよう」

「ええ。頼みます」


 マリアの隻眼にも、静かな怒りの火が灯っていた。



◇ ◇ ◇



(……しかし、これはまずいことになったな)


 表面上は冷静に取り繕いながらも、ミロシュの内心は焦燥に駆られていた。

 テクノラートの厳重な管理下にあるはずの軍用溶剤が持ち出され、同盟国ログレスの竜騎士団――それも王国の希少戦力であるマリアの周辺で使われたのだ。


 これは単なる貴族の嫌がらせや暗殺未遂では済まされない。

 同盟の根幹を揺るがしかねない、重大な軍事機密の漏洩と政治問題だ。


 ヴォルグの工作員の仕業か。

 それともログレス国内の権力争いに、テクノラートの物資が利用されたのか。

 どちらにせよ、最悪の事態であることに変わりはない。


(一刻も早く、国許のルーウェン王太子殿下に急報せねば。この同盟が崩れれば、喜んで攻め入ってくるのはヴォルグなのだ……!)


 ミロシュは穏やかな寝息を立て始めたキリと、それを見守るマリアたちの背中を一瞥いちべつした。

 薄氷の上を歩くような、ひどく不安定な焦燥感。底知れぬ何者かの企みが、両国の同盟を音もなく浸食し始めているのを感じずにはいられなかった。




◇ ◇ ◇




 王宮の奥、王太子アーデルベルトの執務室へ続く回廊。

 マリアたちが少し離れた場所で待っていると、やがて重厚な扉が開き、一人の男が出てきた。

 第三師団長、レオニード・ブランデルだ。

 王太子との面会で良い顔でも見せられたのか、口元に薄い笑みを浮かべていたが――通路に立つマリアの姿を認めた瞬間、その笑みは露骨な不快感へと変わった。


「……何の用だ、ベルクリーズ。俺は忙しいんだがな」

「レオニード殿。少しだけ確認したいことがございまして」


 マリアは静かに一歩だけ前へ出た。


「あなたのお名前で、竜舎に菓子箱が届きました。……その中身に、致死性の毒が仕込まれておりました」


 レオニードは一瞬、言葉の意味が理解できないという風に目をまばたかせた。


「……は?」

「私の従者がそれを口にして、先ほどまで生死の境を彷徨っていました。一歩対応が遅ければ、確実に死んでいましたわ」


 レオニードは数拍の沈黙の後、馬鹿にしたように鼻で笑った。


「ふん、言いがかりも大概にしろよ。決闘で俺に勝った程度でいい気になるな。俺がそんな回りくどい、陰湿な真似をすると思うか?」

「思いませんわ」


 マリアが即答すると、レオニードは少し毒気を抜かれたような顔をした。

 彼がマリアを憎んでいるのは事実だ。しかし、選民思想の塊のようなこの男なら、気に入らない相手は権力か暴力で直接ねじ伏せようとするはずだ。他国の毒を使ってまでコソコソと暗殺を企てるような陰湿さは、彼の高すぎるプライドが許さないだろう。

 自ら紛争の種をまくような、計算高い真似ができる人間でもない。


「だからこそ確認しております。あなたが仕込んだのか、それとも誰かに名前を使われたのか」


 レオニードの目が細くなる。


「俺に対する当てつけか?」

「事実を整理しているのです」


 レオニードが苛立たしげに一歩詰め寄ろうとした。だが、その後ろでバティスが大剣の柄に手を添えもしないままスッと半歩だけ前に出る。

 無言の威圧に、レオニードは舌打ちをして立ち止まった。


「……チッ。どうせうちの家の者が世間体を取り繕うために勝手に手配したか、どこかの馬鹿が俺の名前を騙ったんだろうよ。そもそも、本当にうちから出た物かも分からねえ。俺はそんな菓子、見ても触れてもいないし、今初めて聞いた。毒がどうとかなんて知るか。以上だ」


 言い分としては、十分に筋が通ってしまう。そしてそれが一番厄介だった。

 マリアが小さく息を吐いた、その時。


「まあ……こんな所でどうなさいましたの?」


 鈴を転がすような、甘く柔らかな声が回廊に響いた。

 テクノラートのラフィリア王女だ。いつものように完璧で可憐な微笑みを浮かべ、心配そうに小首を傾げている。

 ――先日、王妃の離宮で暗殺者を差し向けておきながら、よくもあんな顔ができるものだ。


「少し騒がしい声が聞こえましたけれど。何かよろしくないことでもありましたの?」


 マリアはラフィリアを見据えた。

 視界の中で、彼女のその完璧な作り笑いだけが、妙に鮮明に浮き上がって見える。


「竜騎士団の者が、お菓子に混入された毒で倒れましたの」

「まあ……!それは恐ろしいことですわね」


 ラフィリアは胸元に両手を当て、大袈裟に息を飲んでみせた。


「身代わりになってくれる忠実な従者がいて、マリア団長は本当にお運がお強いのね。あなたがご無事で、本当によかったわ」


 心配を装った、とろけるように甘い言葉。

 だが、マリアの耳にはそれが「せいぜい今のうちに命を惜しむことね」という、残酷な予言のように響いた。

 マリアのこめかみが、ピクリと脈打った。先日、血まみれになった離宮での光景が一瞬でフラッシュバックする。

 胃の奥からドロリとした強烈な怒りがせり上がってきたが――マリアはそれを、ギリッと奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。


「……お気遣い、痛み入ります。王女殿下」


 マリアは完璧なカーテシー(淑女の礼)を返すと、冷たい顔のまま踵を返した。

 去り際、背後からレオニードとラフィリアの会話が微かに聞こえてきた。


「……王女殿下。そんなに甘いお菓子がお好きなら、私からいくらでも極上の品をご紹介しますよ」

「まあ素敵。でも、同じ味にはもう飽きちゃったから、次は別のものにするわ。何か良いものがあれば参考にさせていただくわね」


 二人の声は、決して明確に手を組んだわけではない。だが、マリアという共通の敵を見据えた共犯者のような、不気味な響きを帯びていた。




◇ ◇ ◇




 竜舎へ戻ると、談話室の前にミロシュが待っていた。

 先ほどまでの焦りを見せていた顔は、完全に他国の外交官としての厳しいものに切り替わっている。


「マリア殿」


 ミロシュは声を落とし、マリアとバティスにだけ聞こえるように告げた。


「キリ殿の容態は安定しています。念のため、解毒に必要な薬剤の予備も我が国の医務官に持たせておきました。命の心配はもうありません」

「……ありがとうございます」


 マリアはようやく、心からの安堵の息を吐き出した。胸の奥につかえていた硬いしこりが、ふっとほどけていく気がした。

 だが、ミロシュの言葉は続く。


「……そして、もう一つ」


 ミロシュの声が一段と低くなる。


「国許の王太子殿下への急報を手配しました。我が国の厳重な管理下にあるはずの軍用薬剤が、ログレスの竜舎へ持ち込まれた。これはもはや、個人の嫌がらせなどではありません。――両国の同盟の根幹に関わる問題です」


 マリアは静かに頷いた。

 隻眼の奥で、再び決意の火が灯る。


「分かっています……だからこそ、私も竜騎士団長として動きます。同盟が揺らげば、国境が崩れますから」

「ええ、同感です……強大な敵を前に、我々は手を取り合わねばならない。この同盟という絆を、絶対に絶たせないためにも」


 迷いのない真っ直ぐな言葉を残し、ミロシュは踵を返した。外交官としての重い決意を背負い、回廊の奥へと消えていく彼の背中は、いつもより随分と急いでいるように見えた。

 マリアは談話室の扉に手をかける。

 扉の向こうには、穏やかに眠るキリと、彼女を守るように見守るフリオ、そして固い絆で結ばれた竜騎士団の仲間たちがいる。

 守るべきものがある。

 だからこそ、この怒りは決して暴走させてはならない。研ぎ澄まされた剣のように、冷たく、鋭く整えなければ。


 マリアは静かに、扉を開けた。




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