第8話「愛という名の狂気、駒という名の真実」
午後の光はやわらかく、窓辺のカーテンを淡く透かしていた。
白磁のカップから立ちのぼる湯気は、香りとともにゆるやかにほどけていく。
ラフィリアは音を立てずにそれを口に運んだ。抽出の温度も、香りも、すべてが完璧だった。
(――ああ、少し静かになったわ)
虫除けにしては、少し大袈裟だったかしらね。
空を飛ぶ、不愉快な羽虫。初めて見た時から、この上なく不快だった。アーデルベルト様の前をうろつく、あの鬱陶しい片目の女。
けれど、所詮はただの虫。一匹消えたところで、どうとでもなる。
ふふ、と喉の奥で笑い、カップをソーサーへ戻す。
硬質な磁器の音が控えめに響いた直後、規則正しく、けれど気遣いのかけらもなく忙しないノックの音が扉を叩いた。
(あら、もう気づかれたのかしら?)
ラフィリアは視線だけを扉へ向け、わずかに顎を引く。
「お入りなさい」
扉が開く。入ってきたのは、見慣れた男だった。
ミロシュ・ノルドライン。生国テクノラートの侯爵家嫡男であり、五つ年上の彼は、元はルーウェン王太子の側近候補として王宮に上がっていた。幼いラフィリアが彼を気に入り、時折遊んでもらっていた幼馴染でもある。
だが、あの頃の従順で優しい少年の面影は、今はもうどこにもない。整えられた姿勢。無駄のない所作。外交官としての冷徹な仮面が、彼のすべてを覆っている。
ラフィリアは微笑んだ。
「ずいぶん怖い顔をしているのね、ミロシュ。せっかくのお茶の時間が台無しだわ。どうぞ、座りなさい」
「あいにく、そのような呑気な時間はありませんのでね」
眉間に深い皺を寄せたミロシュは、座ろうともしなかった。一定の距離を保ったまま、静かに、けれど鋭い口を開く。
「ログレスの騎士団に、毒が混入された菓子が届けられました」
ラフィリアはそれに反応せず、再び優雅な仕草でカップを持ち上げる。
「まあ。物騒なこと。それで?」
「……何か、仰りたいことはありますか」
その言葉に、ラフィリアはようやく喉の奥で転がすように笑った。
「何のことかしら。わたくしが、その毒入りの菓子に関与しているとでも言いたいのかしら?」
ミロシュが一歩、前に出た。
「これは、事故ではありません。軍事用途の洗浄薬が使われています。テクノラートから搬入された在庫に、欠品がありました」
「洗浄ねぇ……除虫も出来るのかしら?」
小馬鹿にしたラフィリアの言葉を無視し、ミロシュは逃げ道を塞ぐように言葉を積み上げる。
「それに接触できる人物は、限られています」
ラフィリアは、ふっと息を吐いた。椅子に深くもたれ、脚を組む。その仕草は、いつも通りの王女としての優雅さを保っている。
「随分と思い切ったことを言うわね、ミロシュ。証拠もないまま、この王女たる私に疑念を持つなんて……外交官として、テクノラートの民として、どうなのかしら?」
ミロシュが、小さく息を吐いた。ほんの少しの憐憫と、呆れの混じったため息。そこにはもはや迷いはない。
「そう来ますか。……証拠はあります。ですが、それをここで提示する必要はありません」
ラフィリアの眉がわずかに動く。
「本国へは、すでに報告済みです。本件は、同盟に関わる重大事案として扱われます」
「……同盟? 何故?」
心底不思議そうに問い返すラフィリアに、ミロシュの声が刃のように落ちる。
「ええ。外交官としての責務です」
ラフィリアは、ゆっくりと立ち上がった。
「……ふぅん、そうなの」
一歩近づく。ミロシュはすぐ目の前。
「昔は、そんな堅物ではなかったわね。お兄様に目をかけられて、随分と立派になったものだわ」
ミロシュは、目を逸らさなかった。
「……私は覚えていますよ。庭で、あなたが可愛がっていた小鳥が死んだと泣いていたことを」
ラフィリアの動きが止まった。
「『王女たるもの、泣き顔は見せてはいけない』と、強がって泣き笑いしていた事も。あの頃のあなたは、少し我儘ではありましたが……小さきものを心から案じる人でした」
沈黙に、わずかな過去が滲む。けれど。
「……今のあなたは、すっかり変わってしまいました」
ミロシュは、決定的な決別を口にする。
「私は、本国への帰還を志願しました」
「何故?」
ラフィリアは目を見開いて驚いている。
「……希望すれば、このままログレスに残ることもできたはずよ?」
「ええ。ですから希望はしませんでした」
ミロシュは静かに続けた。
「私が貴女の側にいれば、貴女は私という外交官を隠れ蓑にする。私がいることによって、貴女は私を利用し、暗殺者をけしかけ、よりによって毒を持ち出すなど……。これ以上、同盟を損なう貴女の側にはいられない。そして――狂っていく貴女の姿を、私はもう、見ていられない」
一拍の静寂。やがて、彼女の中で沸点に達した感情が、激しい怒りとなって弾けた。
「狂っているですって……? ふざけないで!」
ドンッ、と両手でテーブルを強く叩き、ラフィリアはミロシュをねめつけた。その瞳には、もはや気品など欠片もない。
「わたくしはただ、アーデルベルト様を愛しているだけ! あの方に相応しいのはわたくしだけなのよ! それを邪魔する汚い羽虫を駆除して、一体何が悪いというの!」
「殿下……」
「あなたも結局、わたくしの愛を理解できない愚か者なのね! わたくしにはアーデルベルト様がいればそれでいいの!」
肩で息をしながら言い放つラフィリア。彼女は本気で信じていた。今までがそうであったように、自分が強く出れば、最後は彼が折れて謝罪してくるはずだと。
だが、ミロシュは何も言い返さなかった。怒りに顔を歪めるかつての幼馴染を、酷く残念なものを見る目で静かに見つめる。そして、深い絶望とともに、ゆっくりと首を横に振った。
「……さようなら、殿下」
それが、最後だった。扉が閉まる。それは確かに、何かが終わる音だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。ラフィリアは不機嫌の絶頂にいた。朝一番にミロシュが謝りに来るのが当然だと思っていたのに、彼は一向に姿を現さない。
「……遅いわね。いつまで待たせるつもりかしら」
コン、と無機質なノックの音が響いた。
「入りなさい」
扉を開けて入ってきたのは、見知らぬ女だった。銀縁の眼鏡をかけた、冷たいガラスのような女。
「はじめまして、ラフィリア殿下。テクノラート外務省所属、サナリィと申します。本国より最新の通信機器の運搬、およびミロシュ殿の後任として着任いたしました」
ラフィリアは眉をひそめ、不快げに言い放つ。
「後任……? ふざけた事を言わないでちょうだい。ミロシュはどうしたの。今すぐ彼をここに連れてきなさい」
「それは出来ません」
サナリィは表情を変える事なく淡々と答えた。
「ミロシュ殿は現在、引き継ぎ作業ののち、本国への帰還準備に入っております。殿下と顔を合わせることは、今後二度とございません。今後、テクノラートとの連絡、および本国からの通達は、私を通して行われます」
「なっ……! ふざけないで! わたくしが呼んでいるのよ! 引きずってでも連れてきなさい!!」
怒鳴り声にも、サナリィの表情はそのままだ。
「無駄なことです。なお、本日夕刻、私が運搬した『魔導鏡』を用いた本国との定時連絡を行います。ご出席をお願いします」
「……命令する気?」
「通達です」
短く言って、サナリィは部屋を去った。ラフィリアはよろめきながら、机に手をついた。
「どうして……どうして、わたくしがこんな目に遭わなければならないの……! 全部、あいつのせいだわ。あの羽虫さえいなければ……!」
◇ ◇ ◇
夕刻。指定された部屋には、最新の『魔導鏡』が置かれていた。高純度の魔力を必要とするその鏡の前では、派遣されてきた魔導士のロサとリアナが、ラフィリアを一瞥もせずに魔力を練り上げている。
鏡面に波紋が広がり、氷のように冷たい眼差しをした若い男の姿が映し出された。
テクノラート王太子、ルーウェン。
学者のような理知的な佇まい。整った美形ではあるが、その表情には一切の温かみがない。陽光のようなアーデルベルトとは対照的な、深淵に沈む「陰」の気配を纏った男だ。
本来、彼は王位など望まぬ人だった。だが、不適格な弟たちや親族に国を任せるわけにはいかないと、自ら魔導砲の開発にまで関わり、合理性のみで国を支える道を選んだ堅物。その眼鏡の奥の鋭い瞳は、常にすべてを「値踏み」している。
「ラフィリア」
その声だけで、部屋の空気が凍りついた。
「お兄様。ずいぶん大げさなものをお使いになるのですね」
必死に取り繕うラフィリアを、ルーウェンの厳しい視線が射抜く。
「ミロシュからの報告は受けている。……まず、一つ勘違いを正しておこう。ミロシュはお前の便利屋ではない。外交官という、国家の大切な手だ」
冷徹な言葉が、ラフィリアの心臓を直接掴む。
「私がお前を大切に愛で、最高の教育を施してきたのは、いつか国にとって有益な『駒』として盤上に置くためだ。だが、その役割すら果たせぬ不良品であるなら、お前である必要はない」
「こ、ま……?」
「そうだ。代わりはいくらでもいる。アーデルベルト王太子の婚約者は妹たちの誰かに変えてもいいのだぞ」
値踏みするような視線。そこに、兄としての情愛は欠片もなかった。あるのは、機能不全を起こした道具への冷ややかな評価だけだ。
愛されていたと思っていた。誇り高き王女として期待されていると思っていた。それが、ただの「交換可能な駒」だというのか。
アーデルベルト様の隣から、引き剥がされる。それだけは、絶対に嫌だ。
「……お兄様。ご心配には及びませんわ。わたくしは必ず……お役目を果たしてみせます」
屈辱に震えながら、なんとかそう言い切るのが精一杯だった。
「そうか。お前の言葉など、もはや欠片も信用はしていないがな。……今後はサナリィたちが監督に入る。必ず従え。それだけで良い」
通信が終わった。鏡面の光が落ちる。
魔導士のロサやリアナ、そしてサナリィたちは、一言も発さず事務的に去っていく。
一人残された部屋で、ラフィリアの怒りはついに沸騰した。
「不良品ですって……? ミロシュは便利屋ではない……?」
違う。違う、違う、違う!
お兄様にこんな不名誉なことを言わせたのも、ミロシュが裏切ったのも、すべてはあの女のせいだ。あの羽虫さえ駆除してしまえば、わたくしは完璧な駒として、アーデルベルト様の隣にいられるはずなのだ。
「……マリア。死ね。死んでしまえばいいのよ」
ラフィリアは狂気じみた笑みを浮かべ、机の引き出しから、秘密の窓口へと繋がる紙片を取り出した。震える指で羽根ペンを握り、美しい文字で、呪いのような命令を書き記す。
――竜騎士団長マリアを排除せよ。




