表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

第8話「愛という名の狂気、駒という名の真実」



 午後の光はやわらかく、窓辺のカーテンを淡く透かしていた。

 白磁のカップから立ちのぼる湯気は、香りとともにゆるやかにほどけていく。

 ラフィリアは音を立てずにそれを口に運んだ。抽出の温度も、香りも、すべてが完璧だった。


(――ああ、少し静かになったわ)


 虫除けにしては、少し大袈裟だったかしらね。

 空を飛ぶ、不愉快な羽虫。初めて見た時から、この上なく不快だった。アーデルベルト様の前をうろつく、あの鬱陶しい片目の女。

 けれど、所詮はただの虫。一匹消えたところで、どうとでもなる。

 ふふ、と喉の奥で笑い、カップをソーサーへ戻す。

 硬質な磁器の音が控えめに響いた直後、規則正しく、けれど気遣いのかけらもなく忙しないノックの音が扉を叩いた。


(あら、もう気づかれたのかしら?)


 ラフィリアは視線だけを扉へ向け、わずかに顎を引く。


「お入りなさい」


 扉が開く。入ってきたのは、見慣れた男だった。

 ミロシュ・ノルドライン。生国テクノラートの侯爵家嫡男であり、五つ年上の彼は、元はルーウェン王太子の側近候補として王宮に上がっていた。幼いラフィリアが彼を気に入り、時折遊んでもらっていた幼馴染でもある。

 だが、あの頃の従順で優しい少年の面影は、今はもうどこにもない。整えられた姿勢。無駄のない所作。外交官としての冷徹な仮面が、彼のすべてを覆っている。

 ラフィリアは微笑んだ。


「ずいぶん怖い顔をしているのね、ミロシュ。せっかくのお茶の時間が台無しだわ。どうぞ、座りなさい」

「あいにく、そのような呑気な時間はありませんのでね」


 眉間に深い皺を寄せたミロシュは、座ろうともしなかった。一定の距離を保ったまま、静かに、けれど鋭い口を開く。


「ログレスの騎士団に、毒が混入された菓子が届けられました」


 ラフィリアはそれに反応せず、再び優雅な仕草でカップを持ち上げる。


「まあ。物騒なこと。それで?」

「……何か、仰りたいことはありますか」


 その言葉に、ラフィリアはようやく喉の奥で転がすように笑った。


「何のことかしら。わたくしが、その毒入りの菓子に関与しているとでも言いたいのかしら?」

 ミロシュが一歩、前に出た。


「これは、事故ではありません。軍事用途の洗浄薬が使われています。テクノラートから搬入された在庫に、欠品がありました」

「洗浄ねぇ……除虫も出来るのかしら?」


 小馬鹿にしたラフィリアの言葉を無視し、ミロシュは逃げ道を塞ぐように言葉を積み上げる。


「それに接触できる人物は、限られています」


 ラフィリアは、ふっと息を吐いた。椅子に深くもたれ、脚を組む。その仕草は、いつも通りの王女としての優雅さを保っている。


「随分と思い切ったことを言うわね、ミロシュ。証拠もないまま、この王女たる私に疑念を持つなんて……外交官として、テクノラートの民として、どうなのかしら?」


 ミロシュが、小さく息を吐いた。ほんの少しの憐憫と、呆れの混じったため息。そこにはもはや迷いはない。


「そう来ますか。……証拠はあります。ですが、それをここで提示する必要はありません」


 ラフィリアの眉がわずかに動く。


「本国へは、すでに報告済みです。本件は、同盟に関わる重大事案として扱われます」

「……同盟? 何故?」


 心底不思議そうに問い返すラフィリアに、ミロシュの声が刃のように落ちる。


「ええ。外交官としての責務です」


 ラフィリアは、ゆっくりと立ち上がった。


「……ふぅん、そうなの」


 一歩近づく。ミロシュはすぐ目の前。


「昔は、そんな堅物ではなかったわね。お兄様に目をかけられて、随分と立派になったものだわ」


 ミロシュは、目を逸らさなかった。


「……私は覚えていますよ。庭で、あなたが可愛がっていた小鳥が死んだと泣いていたことを」


 ラフィリアの動きが止まった。


「『王女たるもの、泣き顔は見せてはいけない』と、強がって泣き笑いしていた事も。あの頃のあなたは、少し我儘ではありましたが……小さきものを心から案じる人でした」


 沈黙に、わずかな過去が滲む。けれど。


「……今のあなたは、すっかり変わってしまいました」


 ミロシュは、決定的な決別を口にする。


「私は、本国への帰還を志願しました」

「何故?」


 ラフィリアは目を見開いて驚いている。


「……希望すれば、このままログレスに残ることもできたはずよ?」

「ええ。ですから希望はしませんでした」


 ミロシュは静かに続けた。


「私が貴女の側にいれば、貴女は私という外交官を隠れ蓑にする。私がいることによって、貴女は私を利用し、暗殺者をけしかけ、よりによって毒を持ち出すなど……。これ以上、同盟を損なう貴女の側にはいられない。そして――狂っていく貴女の姿を、私はもう、見ていられない」


 一拍の静寂。やがて、彼女の中で沸点に達した感情が、激しい怒りとなって弾けた。


「狂っているですって……? ふざけないで!」


 ドンッ、と両手でテーブルを強く叩き、ラフィリアはミロシュをねめつけた。その瞳には、もはや気品など欠片もない。


「わたくしはただ、アーデルベルト様を愛しているだけ! あの方に相応しいのはわたくしだけなのよ! それを邪魔する汚い羽虫を駆除して、一体何が悪いというの!」

「殿下……」

「あなたも結局、わたくしの愛を理解できない愚か者なのね! わたくしにはアーデルベルト様がいればそれでいいの!」


 肩で息をしながら言い放つラフィリア。彼女は本気で信じていた。今までがそうであったように、自分が強く出れば、最後は彼が折れて謝罪してくるはずだと。

 だが、ミロシュは何も言い返さなかった。怒りに顔を歪めるかつての幼馴染を、酷く残念なものを見る目で静かに見つめる。そして、深い絶望とともに、ゆっくりと首を横に振った。


「……さようなら、殿下」


 それが、最後だった。扉が閉まる。それは確かに、何かが終わる音だった。



◇ ◇ ◇



 翌朝。ラフィリアは不機嫌の絶頂にいた。朝一番にミロシュが謝りに来るのが当然だと思っていたのに、彼は一向に姿を現さない。


「……遅いわね。いつまで待たせるつもりかしら」


 コン、と無機質なノックの音が響いた。


「入りなさい」


 扉を開けて入ってきたのは、見知らぬ女だった。銀縁の眼鏡をかけた、冷たいガラスのような女。


「はじめまして、ラフィリア殿下。テクノラート外務省所属、サナリィと申します。本国より最新の通信機器の運搬、およびミロシュ殿の後任として着任いたしました」


 ラフィリアは眉をひそめ、不快げに言い放つ。


「後任……? ふざけた事を言わないでちょうだい。ミロシュはどうしたの。今すぐ彼をここに連れてきなさい」

「それは出来ません」


 サナリィは表情を変える事なく淡々と答えた。


「ミロシュ殿は現在、引き継ぎ作業ののち、本国への帰還準備に入っております。殿下と顔を合わせることは、今後二度とございません。今後、テクノラートとの連絡、および本国からの通達は、私を通して行われます」

「なっ……! ふざけないで! わたくしが呼んでいるのよ! 引きずってでも連れてきなさい!!」


 怒鳴り声にも、サナリィの表情はそのままだ。


「無駄なことです。なお、本日夕刻、私が運搬した『魔導鏡』を用いた本国との定時連絡を行います。ご出席をお願いします」

「……命令する気?」

「通達です」


 短く言って、サナリィは部屋を去った。ラフィリアはよろめきながら、机に手をついた。


「どうして……どうして、わたくしがこんな目に遭わなければならないの……! 全部、あいつのせいだわ。あの羽虫さえいなければ……!」



◇ ◇ ◇



 夕刻。指定された部屋には、最新の『魔導鏡』が置かれていた。高純度の魔力を必要とするその鏡の前では、派遣されてきた魔導士のロサとリアナが、ラフィリアを一瞥もせずに魔力を練り上げている。

 鏡面に波紋が広がり、氷のように冷たい眼差しをした若い男の姿が映し出された。

 テクノラート王太子、ルーウェン。

 学者のような理知的な佇まい。整った美形ではあるが、その表情には一切の温かみがない。陽光のようなアーデルベルトとは対照的な、深淵に沈む「陰」の気配を纏った男だ。

 本来、彼は王位など望まぬ人だった。だが、不適格な弟たちや親族に国を任せるわけにはいかないと、自ら魔導砲の開発にまで関わり、合理性のみで国を支える道を選んだ堅物。その眼鏡の奥の鋭い瞳は、常にすべてを「値踏み」している。


「ラフィリア」


 その声だけで、部屋の空気が凍りついた。


「お兄様。ずいぶん大げさなものをお使いになるのですね」


 必死に取り繕うラフィリアを、ルーウェンの厳しい視線が射抜く。


「ミロシュからの報告は受けている。……まず、一つ勘違いを正しておこう。ミロシュはお前の便利屋ではない。外交官という、国家の大切な手だ」


 冷徹な言葉が、ラフィリアの心臓を直接掴む。


「私がお前を大切に愛で、最高の教育を施してきたのは、いつか国にとって有益な『駒』として盤上に置くためだ。だが、その役割すら果たせぬ不良品であるなら、お前である必要はない」

「こ、ま……?」

「そうだ。代わりはいくらでもいる。アーデルベルト王太子の婚約者は妹たちの誰かに変えてもいいのだぞ」


 値踏みするような視線。そこに、兄としての情愛は欠片もなかった。あるのは、機能不全を起こした道具への冷ややかな評価だけだ。

 愛されていたと思っていた。誇り高き王女として期待されていると思っていた。それが、ただの「交換可能な駒」だというのか。

 アーデルベルト様の隣から、引き剥がされる。それだけは、絶対に嫌だ。


「……お兄様。ご心配には及びませんわ。わたくしは必ず……お役目を果たしてみせます」


 屈辱に震えながら、なんとかそう言い切るのが精一杯だった。


「そうか。お前の言葉など、もはや欠片も信用はしていないがな。……今後はサナリィたちが監督に入る。必ず従え。それだけで良い」


 通信が終わった。鏡面の光が落ちる。

 魔導士のロサやリアナ、そしてサナリィたちは、一言も発さず事務的に去っていく。

 一人残された部屋で、ラフィリアの怒りはついに沸騰した。


「不良品ですって……? ミロシュは便利屋ではない……?」


 違う。違う、違う、違う!


 お兄様にこんな不名誉なことを言わせたのも、ミロシュが裏切ったのも、すべてはあの女のせいだ。あの羽虫さえ駆除してしまえば、わたくしは完璧な駒として、アーデルベルト様の隣にいられるはずなのだ。


「……マリア。死ね。死んでしまえばいいのよ」


 ラフィリアは狂気じみた笑みを浮かべ、机の引き出しから、秘密の窓口へと繋がる紙片を取り出した。震える指で羽根ペンを握り、美しい文字で、呪いのような命令を書き記す。


 ――竜騎士団長マリアを排除せよ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ