25.霞子・3
巫女の右手には神楽鈴があり、そこから垂れる五色布が左手で掬い取られている。
そこに、シャン、と連なる鈴の音がひとつの塊になって浮かぶ。次の拍子には巫女の膝が折られ、足が床を擦って前方に移動した。
もう一度、シャン、と鈴が鳴る。左手から五色布がすとんと落とされ、両手が大きく円を描くと神楽鈴が天に向かって掲げられる。また、シャンと鳴る。今度は右斜め上に、少し傾いた状態で掲げられる。巫女はわずかに腰を落とし、月を覗き見るように神楽鈴を仰ぐ。シャン。また、正面へ。
次の動きに移るたびに、鈴が震える。それは、カゲを還す痣子の舞における呼吸の替わりを成すようであった。動きの合間合間に、すっと息を吸う音が聞こえる替わりに鈴の音が浮かぶ。五色布はその神楽鈴の動きに従順に従っている。時にそれを巫女が手を滑らせるようにして拾い上げ、たわむ中間部分の布が美しい弧の形を描く。
男の痣子の舞は儀の中で二組に分かれるが、巫女舞は終始四人で舞を続けるようであった。そして前者は二人だけなので還の舞以外は人の配置がほぼ変わらずずっと同じ場で舞が行われていくのに対し、後者は振りは四人みな同一のものでありながらその中で立ち位置が次々に移動していった。
一列に並ぶこともあれば、四角を作ることもある。その四角も、長方形正方形とさまざまである。
その形たちは、一般的な歩行によって作られていくのではなかった。まず片方の足を踏み出し移動させ、そこに対の足がついてきて止まる。鈴が鳴る。また片足が踏み出されもうひとつの足が添えられ止まる。鈴が鳴る。
そのように一歩ずつ一歩ずつ、ゆっくりと移動がなされ、形を変えていった。
マシロは、片時も意識を途切れさせることなく舞を続ける巫女たちを懸命に目で追おうとした。これから自分は巫女の舞を覚え、カゲの前で舞わなければならない。それによって、カゲに変化をもたらすことができるかもしれない。その責任は重大だった。
――しかし、無意識に、ふと視線が巫女たちから外れてしまうのだった。何度も異動を繰り返す巫女たちよりも、彼女らを背にし、微動だにせず手を合わせ続ける霞子の二人に、自然と目が向いてしまった。
そこから必死に視線を引き剥がしても、二人から伸びる影がゆらゆらと揺らめくのを目に留めたりと、意識がどうしてもそちらに向く。
霞子は今何を思い、何を祈りながらあのように手を合わせているのだろうか。見ていてわかるはずもないが、マシロは途中から、ずっと霞子が座す方に視線を送り続けていた。
***
気づけばあっという間に儀の時間は過ぎていった。霞子が合わせていた手を下ろし床に添え、礼をする。それが儀の終わりを告げる合図のようで、巫女舞もそれに従い区切りをつけて結ばれた。シャン、と音がひとつ鳴り、巫女全員が正面を向き鈴を眼前に掲げ、腰を折って礼をした。
そこまで見届けた時、マシロは背後から肩を叩かれた。振り向くとそこには恩地がいた。頭を下げ声を出さず挨拶すると、恩地も口を閉じたまま手を挙げ頷いた。
その後は巫女にも世話役にも、もちろん霞子にも声をかけることなく、マシロは小野と恩地に引き連れられ屋敷を後にした。
小野が恩地を家まで送ることになり、マシロは後部座席、運転席の後ろに乗り込んだ。
静かに車が走り出した後、口火を切ったのは恩地だった。助手席から首を巡らせ、マシロを見る。
「どうだった、マシロ。巫女の舞は」
それを受けマシロは体を若干前のめりにさせたが、静かに目を瞬かすことをだけを繰り返し、声を発するまでにいくらか時間を要した。のちに、そうですね…と吐息混じりに言うと、一度唸ってから言葉を述べた。
「――カゲを還すものとは、また雰囲気が違うなと思いました。使う道具も、刀ではなく鈴で…。舞は単調に見えましたけど、やってみると難しそうだなという感じがあって……」
思った以上にうまく言葉が出てこなかった。薄っぺらい感想が、とりあえずという形で口から零れてゆく。もどかしく感じたが、どういうわけかそうすることしかできないのだった。
それに対し恩地は特に咎めるような様子は見せず、問いを重ねた。
「霞子は。どうだった」
そうするとマシロはますます返答に窮した。様々な思いが沸き上がってくるのだが、それを言葉にして紡いでいけない。霞子を語るにふさわしいものかどうか、何度も頭で考えてしまうのだった。
ちら、と視線を上げるとルームミラー越しに見える小野の目と目が合った。小野はその目だけで笑みを作って見せた。
「――正直に言うと、……お二人とも、人とは別の生き物のように思えました」
マシロは少し躊躇ってから、無礼を承知でそう述べた。それが、感じたままの印象であった。実際霞子を目にする前にすでに据え置かれていた知識のせいもあってか、マシロは、霞子が人ではないのではないかと思えてしかたなかった。
恩地は「そうか」と言って、それ以上のことはマシロに訊ねてこなかった。
沈黙が落ち、儀が終わった直後の光景の一部分がマシロの脳裏に蘇る。そこには霞子がいた。
霞子は、ゆらりと立ち上がると足音を立てずにその部屋から出て行った。やはり顔は見えなかったが、まるで煙が消えていくように、その場からいなくなった。
霞子の姿が見えなくなると、部屋の空気が変わった。神聖な雰囲気は保たれたままだったが、空間に穴が開いたように感じられた。大きな存在がそこからいなくなったのだと、空気がマシロの神経に訴えてきた。
まるで夢を見ていたような、不思議な心地になった。霞子は確かにそこにいたのだろうかと、幻覚ではなかっただろうかと、そう思えて仕方なくなった。
それを確かめるように、マシロは訊ねた。
「今、霞子の方たちは眠りにつかれているんでしょうか」
その問いには小野が答えた。
「そうね。霞子は大抵、儀を終えるとすぐ眠るから」
「……それは、ずっとですか。途中、目を覚まされたりとかは」
「そういうことはあまりないわね。次の儀の時間までは、眠り続けていることが多いわ。そして、起きたら食事して身を整えて、儀をして、また眠る。その繰り返し。昼の儀を務める霞子も昼夜が逆転しているだけで、流れは同じよ」
マシロはひとつ息をついた。それからさらに訊ねる。
「……霞子は、みなさんそうなんですか」
「そうね。大体みんな同じような生活を送っているわね。というより、そういう生活になっていくわね」
「……そうなんですか」
マシロは黙り込んだ。恩地から、また小野から聞いた話を頭の中で何度も反芻する。霞子が何たるか、今一度自分で整理する。
話を聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、霞子の生活は人間のそれとは大きく異なるのだった。霞子は儀のためだけに生きているようなものだった。儀に、人生を捧げている。
マシロはここに来たばかりの頃、痣子と痣子でない人たちの生活を比べて、痣子として生きることの厳しさを強く感じたものだった。しかしその痣子の生活と比にならないくらい、霞子の生活は過酷であった。生活と言っていいものかも疑わしかった。だから、人とは別の生き物だと思えてしまったのだった。
「あの、恩地さん」
マシロが呼びかけると、恩地はわずかに振り向き目線を寄こした。感情は含まれない、ふとしたものだった。
「霞子の方は、舞をすることはないのでしょうか。さっきのような儀しかされないのですか」
恩地の瞬きが闇を弾く。その拍子に目線がマシロから外された。
「霞子が舞をすることはない。私が知る限りでは、今日お前が見た、あの形態の儀しか行わない」
「……そうですか」
マシロがつぶやくように言うと、恩地はゆっくりと顔を前に向け直した。車がどこか窪みの上を通ったか、少し揺れた。かくん、とマシロの体が上下に跳ねた。
車は真っ直ぐ恩地の自宅に向かい、到着する頃には月を覆っていた雲が払われ明かりが満遍なく降り注がれた。やはり、月の光はまばゆい。あるとないとでは夜の見え方が全然違う。
マシロはそう思いながら、月夜の下で静かに息をする山々を目でなぞった。深い色をしているが、闇に埋もれることなく空との境界線もはっきりと見えた。
「巫女舞の練習、頼んだぞ」
恩地はそう言いながら車を降りると、覗き込むようにしてマシロの顔を見やった。マシロも少しだけ身を傾け、はい、と頷きながら返事をした。
そして、恩地がにわかに微笑み、ではまたー…と言ってドアに手をかけようとしたところ。マシロがそれを制するように、身を乗り出して恩地の名を呼んだ。
狭い車内にマシロの声が籠った。運転席に座る小野が、その声をした方を向く。恩地も改めて身を屈めて再度マシロの顔を覗き込むように見た。二人の視線が同時にマシロに注がれる。そしてマシロの次の言葉を待った。
「……霞子は――……」
そう言って一度、マシロは口を閉ざした。息が一瞬喉でつかえた。一度嚥下し、声を乗せずに短い息を吐く。そしてまた、口を開いた。
「……伝説の巫女は、霞子とは別の存在なのでしょうか」
時が止まったように、恩地も小野も自身の動きを制止させた。マシロの喉が、ぐ、と押されたように狭まった。
あぁ、違う。そうじゃない。そう、心で言う。マシロは身の内側でうなだれていた。
本当に聞きたいことは別にあるのだった。しかしどうしてかそれが素直に言葉にできなかった。口にした言葉が自分の思っていたことと相違していた。喉を通って口から吐き出された頃にはなぜか違うものに成り代わっていた。
伝説の巫女はその名の通り伝説であり、ほんの数時間前それについて書物は何も残っていないと恩地から念を押されるように言われたばかりであった。それを、自分の耳でちゃんと聞いた。伝説の巫女が霞子と関わりを持つ者なのかどうか、それについて皆目見当もつかないことは、理解しているはずだった。
その上で出た問い。それは抱いた疑念を紛らわすような問いだった。
恩地も小野も、しばらく黙ったままマシロを見つめていた。なぜ同じことを何度も聞くのだろうかと怪訝な顔をすることはなかった。また、困ったような表情も、互いに見交わすような仕草もなく、ただじっと、真っ直ぐな目でマシロを見据えていた。
「――こんなこと聞いてもわからないですよね。すみません、変なこと聞いて……」
二人の返事を待たずしてそう言い、マシロは苦笑を浮かべた顔を伏せた。暗闇が乗る自分の足元を見る。白く細い足首がまだ履き潰されていないスニーカーの履き口から覗いている。
小野の家に住まうようになって、舞をするようになって、自分の身体は随分健康的になり、またよく動くようになったとマシロは思っていた。が、体のどの部位を見ても細いままで、とても頑丈そうには見えなかった。夏になって日差しをほどよく浴びても痣子の少年たちのように日焼けもしなかった。白く細い身体を羨ましそうに見る者もいたが、マシロはみんなのように程よい肉付きをした体と健康的な色をした肌が羨ましかった。
マシロは黙ったまま、自分の足首から太腿、そして手の甲へと視線を移した。そこに、恩地が声を落とした。
「マシロ」
呼ばれ、マシロは顔を上げた。
恩地は先ほどと変わらない表情でマシロを見つめていた。マシロは返事をせず、恩地を見つめ返した。恩地が静かな瞬きをひとつする。そして、言った。
「自分が霞子ではないのかと、――そう、思ったんだな。マシロ」
今日聞いた中で一番、穏やかな声に聞こえた。聞こえた声に相応しい表情が、月明りに照らされている。マシロは引き結んでいた唇を薄く開いた。
「……はい」
恩地の言う通りであった。
新たに知った霞子という存在。マシロはそれについて考えると同時に、自分という存在を改めて見つめ直し、双方を無意識のうちに重ねていたのだった。
もしかして。もしかして――……。
その言葉が何度も頭に浮かんでは消えた。そのあとに"でも"と否定する言葉がくっついていった。しかし今は、その疑念が確信めいたものに変わりつつあったのだった。
自分は痣を持っていない。なのにカゲを見ることができる。そして一昨日、遠くにいながらカゲの気配を敏感に感じ取ることができた。それから舞をしたのち、一日以上眠り続けた。
考えれば考えるほど、自分は霞子と重なる部分が多くある。そう思えて仕方なくなったのだった。
マシロの鼓動は静かに速まっていた。トクトクと何かが注がれるような音がした。次、恩地の口から放たれる言葉がどういうものなのか、しっかりと聞き取れるようにとマシロは恩地の閉ざされた口元を見つめていた。
しかし恩地は言葉ではなく、仕草で回答した。首を、横に振った。
「……違うんですか」
マシロが細い声で言うと、恩地は頷いた。
「それは、ない。マシロは、霞子ではない。お前が現れた時、私も同じように、もしや霞子ではないかと頭を過ぎった。……しかし違った」
全身から力が抜けた。鼓動もわずかに緩やかになった。引き結ばれた唇もほどかれ、薄くため息がつかれた。
「どうして、違うとわかるんですか」
マシロの問いに、恩地は少し躊躇いを見せてから答えた。
「これは、痣子の誰もが知ることではないんだが……。霞子は、出生について密かに記録、管理がなされているんだ。いつ生まれ、いつ死亡したか。私は支部長の権限をもって、それをこの目で確かめに行った。マシロがそこに記載されていないかどうかを見るために。――しかし、なかった。そこに、マシロと思われる記載はどこにもなかったんだ。記載漏れも考えたが、そのようなことはまずないということだった。そのため、マシロは霞子ではないのだろうと、そう判断がなされた」
マシロは静かに息をつき、体を座席にもたせ掛けた。そうですか、と小さく言う。
自分は霞子ではない。そう断言された。そうわかると、マシロは複雑な心持になった。
自分が何者なのか依然としてわからないので、これではないかという存在に当てはめてみたのだったが、違った。霞子ではなかった。
恩地はそれ以上は述べなかった。述べようがないのだとわかり、マシロは唇の端に笑みを浮かべて言った。
「……わかりました。ありがとうございます」
それに恩地は一度頷いてから、バタリと音を立てて扉を閉めた。砂利を踏みつけながら、車はゆっくり進み出した。
自分と小野の二人きりとなった家に着くまでの道中、マシロは窓の外を眺めながらぼんやりと考えた。
――もし、自分が霞子だったらどうなっていたのだろうか。
きっと、今のように、舞を舞うようにはなっていなかっただろう。そうなると、恐らく痣子たちと関わる機会もなくなっていた。小野の家で過ごし食堂を手伝うこともなく、神楽を見に行くことも、町中の甘味処に行くことも、祭りに行くこともなかっただろう。
痣子たちそれぞれの内に秘められた思いを聞くこともなかっただろう。
今日見た霞子のような儀を行ない、眠り、起き、一日一度の食事を摂り、身支度をし、また儀に向かう。そんな生活を送ることになっていたのだろう。
想像できるようで、上手くできなかった。考えようとすると、胸が強く軋むのだった。
マシロは窓の外を見た。瞳は、遠くに見えるかすかな明かりを捉えた。霞子の儀が行われた部屋にあった明かりよりも、もっと弱弱しく小さなものだった。夜の中に、揺れることなく密かに佇んでいた。




