26.巫女の舞
家に着くなり小野はすぐ風呂に湯を溜め、先にマシロを入らせた。そしてマシロが風呂から出ると、早めの就寝を促した。
マシロは返事をしながら、きっと今夜は眠れないだろうと、そう心でつぶやいた。
眠れない日は、床につく前から何となく体に予兆が感じられる。背中がチリチリと痛み、頭の先から足の指先まで、細胞のひとつひとつが心臓を抱えているようにドクドクと脈打っている。頭の中に、細く冷たい風が終始吹いているような気がする。耳に届く音ひとつひとつが、くっきりとした形をなしてどこまでも膨らむ。
それは小野が作ったホットミルクをもってしても、一向に収まる様子が見られなかった。
部屋に戻って一度布団に体を埋めたものの、思っていた通り眠気は全くやってこなかった。中途半端な温度をはらんだ布団がマシロの目を冴えさせ、いつもは気にならないスーツの皴の肌触りが妙にマシロの神経をつついてきた。目を閉じても、目の奥にまばゆさを感じる。目を閉じているのに、起きているような感覚が沸き上がってくる。
とうとう横になっていること自体に落ち着かなさを感じたマシロは、布団から抜け出し、おもむろに文机の前に座した。そこに伏せ、顔をうずめる。その中で目を開けると完全な闇ができていて、そこに向かって問いかけてみた。
――これから、どうなっていくのだろう。
それは今までも何度か自分の中に生まれたことのあった問いのはずなのに、この日はやけに体に深く沈んでいった。
自分が進みゆく先は誰も彼も見ることはできないとわかっているのに、まるで自分だけが何もわかっていないような孤独感に襲われる。
わかるのは、明日から巫女舞の稽古が始まるということ。
それはどれくらいで会得できるものなのだろうかと、マシロはぼんやり考えた。還の舞ほど型の種類もなさそうだったので、それよりは早く覚えることができるだろうと思われた。
一番初め、真那から誘の舞を教わった時はそれはそれは時間を要したものだった。まず、姿勢から直された。真那に背後に回られ弛緩する背筋を無理やり伸ばされた時は、一体何が起こったのかわからなかった。その後も、あまりの覚えの悪さに真那には何度もため息をつかれた。あの時の真那の表情は、何を考えているのか全く読み取れないものだった。
しかし今では二人肩を並べて舞をするようになった。マシロは真那に信頼を置き、真那も同様であった。マシロは真那を怯えるような目で見ることはなくなり、真那もマシロを少しは表情のある目で見るようになった。いつしか、お互い隣にいると落ち着く存在になっていた。
そのように真那のことを思い出すと、マシロは薄く開けた口から「あ……」と声を漏らした。
顔を上げ、机に伏せてあったスマホに手を伸ばす。
真那に、今の状況、そして今後のことを伝えなければいけないと思った。
明日から巫女舞が始まるとなると、どのように時間が埋められていくかわからない。会ってゆっくり話すことができなくなるかもしれないから、思い立った今のうちに、簡潔に状況を述べておいた方が良いのではないのだろうかと思った。
と言っても何から伝えればいいのやら。
拾い上げたスマホに指を吸いつけ、画面から光が滲むのを、マシロはしばらくぼんやりと眺めた。並ぶアイコンに伸びようとしていた指が丸まり、そっと手のひらの内に収まる。
記憶が抜け落ちていること。巫女舞をすることになったこと。それにあたって、しばらく儀を休むことになったこと。巫女舞を見に行ったこと。そこで霞子に会ったこと。自分が霞子ではないかと思ったが、そうではなかったこと。
そこまでを頭の中で並べていくと、文章では到底まとめ切ることができないと思った。
その前に、自分は真那と最後顔を合わせた時どのようであったかを思い出そうとする。カゲを還そうと、真那と並んで舞をしていた途中から記憶はあやふやになっているのだった。
けれど、微かに思い出す記憶があった。まだ頭の中に光が瞬いてぼんやりしていた時。確か、癒々花の家で治療を受けたあとぐらいの時。真那に名前を呼ばれた気がした。定かではないが、もしそれが現実だったら、マシロはそれに返事をした記憶がなかった。
そもそも真那はマシロが今目覚めていることすら知らないかもしれない。まずはそのことを伝えなけらばならない。
マシロはひとつ息をつき、スマホの上で指を滑らせていった。メッセージ欄に、ポツポツと文字が刻まれていった。
『今日の昼、目が覚めました。無事です』
これ以上ないくらい簡潔にまとめられた文章を読み返してみる。
直接話すとそうではないのに、メッセージとなると敬語になってしまうのはどうしてだろうかと、小さな疑問を持ちながら文字の並びを目でなぞった。
それから、またひとつ息をついたところで送信ボタンを押した。無事送られたことがわかると、マシロはスマホを机上に置きまた顔を伏せた。
返事はしばらく返ってこなかった。メッセージの通知音で目覚めさせたらどうしようかと送った直後に思ったのだったが、その心配はなさそうだった。もう寝ているのか、あるいは気づいていないかのどちらかであると思った。
メッセージを送って三十分ほど過ぎた頃、マシロはいい加減自分も寝なければいけないと、ゆらりと立ち上がって布団に戻った。そして体を沈め、目を閉じたその時、枕元に置いたスマホが震えた。それは長く振動し、電話だとすぐに気づいた。真那からだということも、すぐにわかった。
真那の名前が表示された画面をタップする。
『……悪い、今見た』
電話に出ると、くぐもった真那の声が聞こえた。ひどく声を潜めていて、スマホをしっかり耳に当てないと聞こえないほどだった。思わずマシロも小声になった。
「ううん。――僕もごめんね。こんな時間にメッセージ送っちゃって」
『いや。……目が覚めたんだな』
「うん。一日半以上寝てたみたい」
『……体大丈夫か』
「うん。大丈夫だよ」
『首、大丈夫か』
「うん」
『……そうか』
ほんの少しの会話のあと、沈黙が落ちた。まさか電話がかかってくるとは思っていなかったため、何を話せばよいか、マシロの中で混乱が生じていた。
何も話さなくなったマシロに、真那がまた小さく「大丈夫か」と訊く。マシロは慌てて口を開いた。
「――ごめん、いろいろ伝えないといけないことがあったんだけど、何から言えばいいか……。それから、何て言えばいいか、わからなくなっちゃって」
『……そうなのか』
「うん。……ちょっと、自分にいろいろ変化が起こり過ぎて。頭が追い付いてないんだ」
『……そうか』
「ごめんね。せっかく電話かけてくれたのに」
『いや』
相槌を打つ真那の声は落ち着いていた。それで自然と、マシロの心持も少しばかり穏やかになった。
「……あのね、僕、巫女舞をやることになったんだ」
『巫女舞?』
「うん」
それからマシロは、そうなるに至った経緯を真那に簡潔に話した。霞子に会ったことは話が長くなりそうだったので、機会を改めることにした。
明日から稽古が始まり、儀も休むため今までのように会えなくなると伝えると、真那は頷いていただけだったのをやめ少し声を大きくして言った。
『明日から稽古なら、もう寝た方がいいんじゃないか』
「うん、そうなんだけど……。なんか、なかなか眠れなくて」
マシロが苦笑を交えて返すと、真那はまぁそうか、とまるで自分にも経験があるとでも言うように頷いて見せた。そして一拍置いてから、少し声音を変えて言った。
『頭でいろいろ考えすぎてしまうことも、一度眠れば不思議と朝には整理がついていることがあるぞ』
「……そうなの?」
『うん。俺が、そうだから』
「そうなんだ。実証済みなんだね」
『あぁ。それと、寝よう寝ようって思ったら、余計に眠れなくなる。そうは思わずに、布団の中で深呼吸する。それに、集中する。そうすると、いつの間にか眠れていることがある』
「そうなんだ。教えてくれてありがとう。そうしてみようかな」
『ん』
「……じゃあ、もう寝ようかな」
『あぁ』
「おやすみ」
『うん』
そうして、電話は切れた。
マシロはスマホを少し離れた位置に置き、静かに目を閉じた。真那に教えてもらった通り、深呼吸を試みる。眠ろうとは思わずに、ゆっくり静かな呼吸を繰り返した。
すると、嘘のように体が温まっていき、頭がずうんと沈む感覚が降りていき、閉じられた瞼の奥にある瞳の、さらに奥が閉ざされていく感覚がした。そして、いつの間にか眠りについていた。
***
翌日、マシロはいつも通りの時間に起きた。前日のように、一日以上眠ることはなかった。そして真那が言った通り、不思議と頭も心もすっきりとしていて、昨夜悶々と考えを巡らせていたことが嘘のように思えるほどだった。
台所に行くと、穏やかな顔をした小野に迎えられた。テーブルに置かれた朝食を食べ、その食器を自分で洗う。それが終わると、今度テーブルには温かい茶が用意されていた。
小野に促され席に着くと、今後の巫女舞の練習について話があった。
マシロはしばらく食堂の手伝いを休むことになった。その時間を、巫女舞の練習に充てるということだった。それだけ巫女舞の会得はできるだけ早い方が望ましいのだったが、還の儀等もまた行なう可能性があるとして、魁成がつける稽古も念のため頻度を減らして続けられることになった。
話の中でマシロにわずかな驚きを与えたのは、巫女舞の稽古をつけるのが小野だということだった。巫女にあまり負担をかけないためという理由もあったが、一緒に住んでいるため稽古をつけやすく、さらにすべての事情を知る小野が、その役目に一番適しているからとのことで決定した事項だった。
そのため、食堂自体がしばらく休みになった。その知らせはすでに常連に行き届いといるということも告げられた。
その時マシロがまず一番に思ったのは癒々花のことだった。儀も食堂も休むということは、癒々花に会う機会が全くもってなくなるということだった。
思った以上に、今までの生活に変化が生じることになる。そのとこを、マシロはゆっくり理解していった。
話を終え、しばらくの休憩を挟んだのち早速稽古を始めることになった。場所は痣子の舞の稽古と同じように、小野の家の奥にある窓のない部屋で行われることになった。
両手に鈴を携えた小野の後ろをついて歩き、マシロはその部屋に向かう。チリチリと震える鈴の音が落ちていった。
マシロはわずかに緊張していた。舞をすることはすでに慣れていて、指導者も気が知れた小野ではあるのだが、やはり何か新しいことをするとなると心がいくらか落ち着きをなくす。
しかし稽古部屋に入った途端、緊張とは違う何かがマシロの内に宿った。使い慣れた部屋のはずなのに、まるで初めて足を踏み入れたような心地になった。いや、その感覚をよく咀嚼してみると、それは既視感に近いもののように思えた。
昨夜巫女舞を見に行った際、儀が行われる部屋を初めて目にした時の感覚が蘇ったのだと気づいたのは、仄暗い部屋の四隅に順々に視線を巡らせた後だった。
部屋に入るなり黙り込み、じっと佇むマシロを見た小野は、彼の身の内で何が起こっているのか程なくして気づいた。そして部屋の照明を点けると、静かにマシロの傍らに立った。
「――気づいた?」
小野はそれだけしか言わなかったが、マシロは全てを承知したようにはっきりと頷いた。薄く唇を開く。
「ここって、もしかして……」
マシロが言うと、小野もゆっくり頷いた。
「そう。この部屋は、昔霞子が儀を行なうのに使用していた部屋なのよ」
その事実について、自分の頭が抵抗することなく受け入れていくのをマシロは感じた。
半年と少し前、マシロがこの部屋に初めて立ち入った時、他の部屋とは違う空気を感じ取ったことが思い出される。窓がなく風が通らないのに、清冽な空気が巡っていたのだった。
「昔、この家に霞子が住んでいたんですか」
マシロが問うと、小野はまた頷いた。
「そうよ。私が生まれる前のことなんだけれど。その後、今の場所に移ったらしいわ」
マシロは返事のかわりに深い息を吐き、再度部屋全体を見渡した。
ここで、霞子の儀が行われていた。その名残が、まだ空気に滲んでいるように思えた。霞子はどこに座し、どこを向いて手を合わせていたのだろうか。そして儀を終えた後、どの部屋に帰っていったのだろうか。まさか、今自分が使っている部屋だろうか。あらゆる想像がマシロの頭の中を駆けて行った。
「それじゃあマシロ、これを」
小野がそう言ったのを皮切りに、巫女舞の稽古が始まった。小野は手にしていた神楽鈴二つのうちひとつを、マシロに手渡した。思っていたより重みのあるそれを、マシロはしっかと握りしめた。垂れる五色布は艶々と手触りが良く、無意識のうちに指を滑らせていた。
小野は長い間現場から離れてはいたのだったが舞については体に染みついているようで、基本から丁寧にマシロに手ほどきした。
まずは鈴の音の出し方からだった。
「鈴はね、振ると言うより、手を内側に捻って鳴らすの。ほら、こうやって」
そう言って小野はシャン、と鈴を鳴らして見せた。澄んだ音が、稽古部屋の中心に浮かんだ。
マシロは頷くと、小野を真似て手を捻ってみせた。シャリン、と少し締まりのない音が零れ落ちた。
「意外と難しいでしょう。こうよ」
小野はまた、目の前で鈴を鳴らした。やはりマシロと違い、凛とした音が作られた。
マシロは何度か手を捻り、小野の音に近いものを作ろうと模索した。その中で「今のだ」と納得のいく音が何回か作られ、それが毎回できるよう繰り返していった。
それに区切りがつくと、続いて移動の仕方について習った。それが、少し独特なものだった。
進む方向に、片足を差し出しつま先だけをチョンと床に乗せる。そして踏み出すタイミングで逆足の膝を沈めるのだが、そのままつま先から踏み込むのではなく、一度それを離して、踵から地を踏み足を進ませるのだった。
痣子の舞にはない動作だったので少しばかり手こずったが、マシロは慎重に体に馴染ませていった。
そのようにして、午前中は基本的な動きを繰り返し体と頭に刷り込ませていった。それから昼食を摂り、少し休憩を挟んだ後、稽古が再開された。午前中の振り返りをしたのち、ひとつひとつの型を習った。
翌日はまず基本動作の振り返りから始まり、型の再確認が行われ、舞の一通りの流れを教わった。巫女舞は型がいくつか繋がったひとつの流れを、何度も何度も繰り返すのだった。霞子の手が下ろされるまで、順々に巡っていく。
マシロはその流れを体に染み込ませていった。しかし通して舞うとなると、なかなか上手くいかないのだった。単調すぎるが故に、次はどちら向きに鈴を掲げるのか、進む方向はどちらであったか、鈴を鳴らすタイミングはどうであったか、流れを見失ってしまうことが多々起こった。
そんな稽古がまずは一週間、根気強く行われた。
そしてマシロが巫女舞をあらかた覚え、小野の指導なしに一人で舞えるようになった頃。
月は十二月に移り変わっていた。




