12.日陰の少女
盆が明けると、朝や夕方に吹く風が熱が冷めた涼しいものに変わっていった。また夕方の陰りが早くなり、日は確実に短くなっていった。
暑さに弱いマシロの身にとって、それらはありがたいことのはずなのに、マシロの顔は浮かず体も相変わらず重たかった。
その原因が自分自身にあるのならば、さてどうしようかと考えを巡らし少しでも解決に向かうよう対策を講じるところなのだが、それがそうもいかないのでもどかしいばかりだった。
真那のこと。萌子のこと。そして煌と輝の双子のこと。取り巻く現状にすでに頭を抱えていたところに、澪二のことが新たに加わったのだった。
今マシロの頭の中では、その者たちの顔が押し合いへし合うようにして、浮かんでは消えていた。
例の双子については頭の隅に追いやりたい気分だったが、それでもふとした時にあの悪戯な顔が現れては、マシロを蔑むように笑うのだった。
真那は、今では顔の痣もいくらか薄くなり、切れていた口元も治癒に向かっているのかもしれない。けれども頭の中には、まだ新しく見える痣と傷をその顔にくっつけたままの真那が、いつも現れる。
萌子は暗闇の中で、誰もいない道を見て呆然と立ち尽くす姿で出てくる。
最後、澪二についてはまだ記憶に新しい姿で頭に浮かんだ。盆の夜に出会った弾ける笑顔の澪二でなく、儀の途中呼吸を乱し倒れ込んだ澪二。そして、体を硬直させ、身を縮めた澪二。
皆それぞれに様相が異なったが、そこにはある共通点があるのだった。みんな、目に光がなかった。
今彼らは何を思い、何をしているのだろうか。
マシロが見ていないどこかで、彼らも確かに息をし日々を過ごしている。
――例の、マシロの癖が始まっていた。
自分でない誰かの”生”を夢想してしまう。自分でない誰かが、今どこでどんなふうに生きているのだろうと、夢想してしまう不思議な癖。
今までは、その対象となる人物は全く知らないどこかの誰かだった。しかし今は、自分にとって近しい存在の者たちが、顔も名前も知るものたちがその対象となり、マシロの思考を埋め尽くした。
その思考の中にある彼らが何を思おうと、何をしようと、時は平等に与えられ、同じように過ぎてゆく。
マシロの日々も、止まることなく過ぎてゆく。時を忘れ、彼らのことを考えるだけに日々を過ごしていくことはできなかった。
そのために、今日も今日とて、マシロは小野の食堂に向かうのだった。
小野の食堂は連日大繁盛という混み具合ではなかったが、日々の中で客足が途絶えるということはなかった。毎日、誰かしらが足を運びにくるのだった。
それらはほとんどが常連で、食堂に来ることが日々のルーティンになっている人も多くいた。
食欲がなくなる夏は小野のランチを食べて栄養を蓄えることでなんとか乗り切ることができるのだと言う客もいて、小野も腕を振るっていた。
日で見る客の波は、モーニングの時間にまず多くなり、少し穏やかになった後、ランチタイムにまた増えて、それが終わると徐々に減っていく。そして、だいたい午後四時に差し掛かった頃にコーヒーを飲みに来る客もいなくなるという具合で、そうなるとマシロたちは、いそいそと後片付けに入るのだった。
この日も、午後三時半には昼過ぎに来たコーヒー客が引いていった。
もう新たな客は来ないだろうと思われ、小野が近所に届け物をしてくると言って、しばらくの間その場を抜けた。
マシロは残りの片付けを引き継ぎ、ひとり調理場に籠った。
食堂で残った白ご飯は、すべておむすびにすることにしていた。それはマシロたちの夕食にと持って帰ったり、近くの畑や田んぼで作業をしている人たちにおすそ分けしに行ったりした。この日もいくらか残っていたので、マシロは粛々とそれを握っていった。
静かな一室にひとりでいると、様々な音がいつも以上に大きく感じられた。いつもは気にも止めず、なんの反応も示さない、皿を戸棚に仕舞う音でさえも、カシャン、と鳴れば手先が僅かにびくついた。シンクを叩きつける水の音も、さらには外で緑が揺れる音さえも迫ってくるように聞こえ、自分が歩き回る音は、まるで背後から忍び寄ってくるように感じられた。
そこへ、から、と玄関が開く音がした。空耳かと思うほどの小さな音だったが、静まり返った室内にそれは確かな輪郭を持って聞こえてきた。
小野が帰ってくるにはまだ早かったため、客かと思いマシロは急いで調理場から出た。
行くと、玄関は閉まっているように見える。が、よくよく見ると、ほんの隙間から光が射しこんでいた。そしてその奥に、ひとつの影が一瞬ゆらりと揺れるのも見えた。
――もしかして。
そう思ったマシロは恐る恐るそこに近づいて行く。そしてその影に、声をかけた。
「……あ、あの……どうぞ」
マシロの声は届いたらしい。ややあってから、隙間から射し込む光の帯が太くなっていった。やがてそれを遮った影の正体を見て、マシロは何とも定まらない表情を浮かべた。
そこには、ツナギの美山千景の娘である、癒々花がいた。
癒々花はこの食堂の常連だが、いつもはランチの時間に訪れていた。この時間帯に来るのはマシロが手伝いをするようになってから初めてのことで、マシロはまずそれに驚いた。
さらに加え、癒々花はこの食堂を訪れるのが実に久しぶりだったのだった。といっても十何日かぶりだったが、癒々花は週に何回かは顔を出していたところを、ある日を境に姿を現さなくなっていた。
それは、儀の後マシロに治療を施した、あの夜からだった。
それらのことと小野が不在なことも相まって、マシロの表情には焦りに近いものが滲んでいった。
しかし癒々花はマシロに招かれると、いつも通り顔を隠した状態で、いつもの席に静かについた。
――どうしようか、とマシロは頭を悩ませる。
ランチタイムは終わっている。小野がいればあり合わせのものを出すなどできるかもしれないが、その小野が今はいない。
思考を巡らせながらマシロはしばらく調理場をうろうろとしたが、ひとまず癒々花の席に向かわなければと、ひとつ息を吐いてからそこを出た。
その席は夕方になると、真っ先に陰に覆われる席だった。
他の席に茜色が滲む光が差し込む中、癒々花はひっそりと陰に隠れるように、そこに身を納めていた。
向かい、マシロはいつも通り癒々花との間に一定の距離を作って、膝をついた。
「……あの、この間、ありがとうございました。傷を、治してもらって」
まずは先日傷を治してもらったことの礼を、とマシロは口を開いた。
が、癒々花の方からその返事となるものは出て来なかった。かわりに、髪がわずかに揺れるだけだった。
「あの、ランチ、終わってしまって、小野さんも、今いなくて……」
言葉を継ぐも、癒々花はまたもや無反応。マシロはわずかに狼狽した。
――と、マシロはふと、今しがた握ったおむすびのことを思い出した。それなら、出すことができる。
「――おむすびだけでも、いいなら……」
そう言うと、髪に覆われた顔がピクリと動いた気がした。ほんの僅かにだったが、マシロはちゃんとその目で見ていた。
「おむすび、でいいですか?」
もう一度言うと、癒々花は今度は間違いなく、こくりと頷いた。
それでマシロは浅くひと息つき、調理場に戻っていった。そして握って置いてあったおむすびを皿にふたつ並べ、茶を添えた盆を持って癒々花の元へと運んでいった。
おむすびがテーブルに置かれると、癒々花はいつものように小さくお辞儀をした。そしてそっとそれに手を伸ばし、口に持っていった。
――あぁそっくりだ、とマシロは思った。
母親の千景と彼女は、料理を口に運ぶ仕草がそっくりだった。ゆっくりと、大切なものを扱うように、少しも傷がつかないように優しく手を添える。
違うところと言えば、千景は一口口に含むたび顔を上げて外の景色を眺めるところを、癒々花はずっと俯いたままでいるのだった。
癒々花が食べ始めるのを見届けた後、マシロはそそくさと調理場に戻った。
周りに人が誰もいないというのに、辺りには静けさしかないのに、癒々花から出される音は、調理場までほとんど聞こえてこなかった。
そのために、マシロは癒々花がちゃんとそこにいるだろうかと心配になり、調理場から何度か顔を覗かせた。
癒々花は確かにそこにいた。ゆっくりと、おむすびを食べていた。
しばらくののち、小野が出先から戻ってきた。
「あら、癒々花ちゃん?来てたのね。ごめんなさいね、ちょっと出てたのよ」
小野は特に驚いた様子は見せずにこやかに言った。
癒々花はわずかに頭を下げたが、その時ちょうどおむすびを平らげてしまったところだったので、入れ替わるようにして食堂を出て行ってしまった。
マシロは、他の客が誰もいなければもしかしたら感想か何か聞けるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、癒々花はこの日も何も言わず、逃げるように去ってしまった。
「大丈夫だった?癒々花ちゃん、おむすびだけ食べていったの?」
誰もいなくなった広間に小野の声が響く。
「はい。……めずらしいですね、この時間に来るの」
「そうねぇ。初めてかもしれないわ」
「そうなんですか……」
そう言って皿を下げようとした時だった。
そのテーブルの下に、薄水色をしたレースのハンカチが落ちていることにマシロはふと気が付いた。
――これはきっと、癒々花のものだ。
そう、直感が働いた。
「緑さん、これ、テーブルの下にあったんですけど……。たぶん、さっきの……」
マシロが言うと、小野はあらあらと言った様子で調理場から顔を覗かせた。
「たぶん、癒々花ちゃんのね。また次いつ来るかわからないから、今届けに追いかけましょうか。あの子、いつも歩いてくるから」
「僕が行ってきます。……間に合うかな」
「きっと大丈夫でしょう。たぶんまだそのあたりにいるわ」
「わかりました。では、行ってきます」
そう言ってマシロは癒々花のハンカチを手に収め、食堂を後にした。
カンカンカン、と下駄が鳴る。
いつの間にか、マシロは下駄でも走れるようになっていた。もはや体の一部になっているようで、いくらか起伏がある道でも造作なく走り抜けることができるようになっていた。
そうして数十メートルほど走ったところ。道端の木の陰に座り込む少女の後ろ姿を、マシロの目が捉えた。
その瞬間、マシロは声を張り上げた。
「すみません!」
遠目から見てもわかるほど、その体はマシロの声に反応して全体をびくつかせた。振り返ることはしなかったが、癒々花であることはすぐにわかった。
マシロは足を急がせる。遠ざかっていくから、という理由ではなかった。背中を丸める姿を見て、もしかして具合でも悪くなったのだろうかと、突如として心配の念に駆られたのだった。
そうして癒々花の元に辿り着いた時には、マシロの方が心配されるのではないかと思うほど息が荒くなっていた。
立ち止まるや、汗が数滴地面に滴り落ちる。
「――あの、だいじょう……」
そう言いかけたところで、マシロは言葉を切った。そのまま、癒々花の足元に目をやった。
そこでは猫が三匹、ごろんと寝転がっていた。それを、癒々花が手でさわさわと撫でている。
「……猫…………」
マシロは整える息の間に言った。
猫は何とも幸福そうな、笑みのようなものを浮かべて癒々花に身を預けている。癒々花は何も言わず、猫たちに手を伸ばしていた。
ややあって、マシロの口から笑みが滲む声が漏れた。
「――かわいい……」
言って、マシロもその場にしゃがみ込む。じっと猫を見つめた。
「かわいいね」
もう一度、今度は癒々花に向かって言った時だった。
マシロの笑みが、顔の上で固まった。
マシロはそのまま息を呑んだ。
癒々花の顔が、マシロの方に向いたのだ。揺れる瞳から、柔らかな視線が注がれていた。
ほんの束の間の時間だった。が、時が止まったように思われるほど、その時間はゆっくりと過ぎた。
マシロは目に焼き付けるように、懸命に癒々花の顔を見つめた。
前髪から覗く癒々花の瞳は程よく潤み、細かい睫毛が列を瞼の縁に沿って綺麗に並んでいる。その瞳がする瞬きは、とてもゆっくりだった。その度光を弾くのではなく、優しく吸い込むように、ゆっくりと瞬きをした。
――初めて目が合った瞬間だった。
木陰に吹いてくる風はすでに夕暮れ時の香りが混ぜ込まれていて、優しく肌を撫でてきた。
癒々花がまた視線を足元に落とす。風で髪がなびいたが、それによって瞳が見えることはなかった。
カァ、と一匹のカラスが独り言のように鳴く。その瞬間、マシロは我に返った。そして、目の前にいる癒々花のハンカチを、自分の手がぎゅっと握りしめていることに気づいた。
「あ、これ、あの、ハンカチ……。テーブルの下に落ちてて。――ごめんなさい、つい握りしめちゃってて、皴が……」
マシロがしどろもどろに言うと、癒々花は一拍置いてから、ゆっくりと手を差し出した。俯いた顔はやはり髪に隠れ、その表情を確認することはできない。
差し出された柔らかそうな手のひらに、マシロはそっと、ハンカチを置く。
その瞬間、癒々花の手のひらのどこかに、自分の指の先が触れた感触がした。気のせいかと思うほどのものだったが、仄かな温かみを感じた気がした。
マシロは以前に癒々花の治療を受けていた時のことを思い出した。あの、心地よい感覚。
思い出そうとしても完全には思い出せない、その時にしか感じられない、夢にさえ思えるあの感覚。
「……ありがとう」
記憶を蘇らせ、淡い光を瞼の裏で感じていた時だった。か細く、しかし透き通った声が、マシロの耳にふわりと届いた。
初めて聞いた、癒々花の声だった。風が、大切に、ゆっくりと運んできたような声だった。すうっと、マシロの耳に届いてきた。
「……うん」
マシロは曖昧な返事をする。
癒々花はまた視線を落とすと、また猫の腹を撫で始めた。猫は今にも眠りそうなくらい脱力している。他の猫も、癒々花の足元から離れずその身を落ち着かせていた。
「――この間、治療、ありがとうございました。すごく心地良かったです」
マシロは改めて礼を言った。それに癒々花は、今度は目で分かるくらいに顔を頷かせた。
風が、静寂を取り払っていくようだった。葉擦れの音がサラサラと流れ、木の葉がカラカラと転がっていき、木漏れ日がちらちらと舞った。
「また、来てね」
マシロは言った。
癒々花はまた頷くとゆっくり立ち上がり、木陰の外に足を踏み出した。
陽の底を歩く癒々花は、日陰にいた時よりもその姿が不鮮明に、おぼろげに見えた。光の中に溶けていくように遠ざかっていく。
猫は、三匹とも癒々花についていった。やがてその猫たちも、光の中にある一点に吸い込まれるようにして見えなくなった。




