11.壊落
翌日の盆最終日、マシロは儀の担当だった。
朝から真那の怪我のこと、双子の兄弟のこと、そして盆にあった萌子に起こった不可解な出来事が何度も頭を過っていた。
その度にため息が出たが、それぞれ込められる感情は違った。真那や萌子のことを考える時は憂慮の念でいっぱいになったが、双子のこととなると、困憊の色が混ざった。
いずれにせよ気が重くなることは相違なく、肩に何か乗っかっているのではないかと思うほど体も沈むようになった。
それでも儀には行かねばならず、夕刻になるとマシロは夜隠れの衣に着替え、田平の車を待った。頭に立ち込める雑念を払おうと、何度も深呼吸を行なった。
田平の車が到着しスライドドアを開けると、この日誘の舞の組である、クリスとまず目があった。前列の奥側に座っていて、マシロを見るなり柔らかく微笑んだ。
車内は程よく空調が効いて、乗り込むと風が直接首筋に当たった。
そして、後方の席に座る痣子に挨拶しようと目を向けると、マシロの口から思わず「あ」と声が漏れた。
目線の先の人物も、おう、と片手を挙げて応えた。そこにいたのは、盆踊りの夜に出会った越佐澪二だった。
マシロの顔に、自然とほのかな笑みが浮かぶ。
「この間は、ありがとうございました」
マシロは諸々の礼を含めて頭を下げた。澪二はまた、おう、と言った。
澪二の隣には干田野英斗がいて、二人のやりとりを見るや口を挟んだ。
「何?二人とも最近会ったの」
英斗が訊くと、澪二は「ハイ」と短く答えた。
そうしてマシロは澪二の前に坐すことになり、車はこの日儀をする四人を揃え、緩やかに出発した。
と、しばらくして、どこかしっくりこない感覚が、マシロの全身に纏わりつき始めた。
社に向かう道中、車内はしんと静まり返っていた。そうなることはままあるのだが、それにしても、と違和感を覚えるほどの静寂がそこにあるとマシロは思った。
それで改めて、マシロの意識がすぐ後方の澪二に向いた。そこに座っているはずなのに、出発してからの澪二は一言も言葉を発さず、まるで誰もいないかのように存在感を薄くしていた。
違和感の正体はこれか、とマシロはややあってから気づく。先日出会った時と今とで、澪二に対する印象が違い過ぎたのだった。
それで、今彼は一体どんな顔をして座っているのだろうと、マシロは後ろを振り向きたい気持ちに駆られたが、そうする勇気はなかった。意識だけを、ひたすら向けることしかできなかった。
時折英斗が澪二に話しかけることがあったが、盆の晩のような明るい声は一向に聞こえてこない。後ろに座っている人物は盆に出会ったあの澪二なのだろうか、と疑念が何度も湧き上がった。
しかし。車内に立ち込める夜隠れの衣の香りが鼻を掠めたその折、それもそうかとふと思った。
今は儀を行なう直前であって、澪二もさすがに先日のような調子のまま臨むことはないかと、マシロはひとり納得したのだった。
――自分も、もっと集中しなければ。そう思い、気を引き締めて直した。到着までの残りわずかな距離を、静かな深呼吸を繰り返してやり過ごした。
社に着く。
いつも通り、敷地内には厳か且つ清閑な雰囲気が漂っている。
マシロは石段の下からその空気を感じ取り、クリスに引きつられてカゲの元へ向かった。
クリスと誘の舞を組むのはこれで何度か目だった。痣子の組は、痣子の予定に体の状態が加味され恩地とその他の役によって随時決められていた。体調が万全でなければ、その日は極力儀を行なわないとしていた。
マシロは、今までのところそのような日はなく、指定された日に必ず儀に携わってきた。
そんな中で、儀を組む痣子には若干の偏りがあった。よく組む痣子もいれば、ほとんど組まない痣子もいる。
マシロの場合、クリスとはよく組むが、澪二とは一度も組んだことがなかった。そのため、盆の晩に会った時が、ほとんど初対面の状態となったのだった。
この日、舞の先導はクリスが担った。
カゲを背にして儀が始まり、マシロはクリスの息を聴きながら歩みを進め始めた。
舞にもそれがあるように、先導する息もそれぞれに特徴がある。
クリスの息は柔らかさがありながら、その中心に芯がしっかりと据えてある息をした。それは夜によく溶け込み、空気を撫でるように吐き出された。
マシロはそんな息をもって作られるクリスの呼吸が好きだった。そこには組をする者に寄り添おうとする心がふんだんに込められているような気がし、その息に、自分の呼吸や四肢の動きなどが自然と随従しているように思えた。
また、舞に関しては。マシロはクリスが舞う姿の中で、部位として特に指先が好きだった。伸びているがしなやかで、何かにそっと触れているように見えた。クリスは性別としては男性であるが、そもそもの姿と同様に、舞の仕草にも時折女性らしさが垣間見えた。
クリスは髪の長さがぎりぎり結べるほどのボブヘアで、儀の時はいつもしっかりと結んでいる。色素の薄い茶色の髪は艶やかだった。月明りの下、ふんわりと浮かんでいるように見えた。
マシロは隣のクリスに意識を向けながら、後方のカゲにも随時気を配る。そこにはいつも以上に大人しく、加えて素直に着いてくるカゲの気配が強くあった。冷静に舞をしながらも、マシロは心内で密かに驚いた。
萌子が言っていた。盆の時期、カゲは一年の中で最も落ち着いているらしい、と――。
しかしそうであっても、油断は許されない。最後まで、カゲを社に無事誘導し切るまで、一寸の気の緩みもあってはならないのだった。
マシロは下駄で地を踏み、舞刀を掲げ、鈴を鳴らし、カゲを社まで誘った。
辿り着くと、そこでは英斗と澪二が控えていた。マシロは半眼の端にその姿を捉えた。
石段を登り切っても、気は引き締めたままである。カゲを二人の元に送り届けるまで、自分の役目は終わらない。下駄は引き続き、地を踏む。
石畳の中心まで来たところで、深く礼をする。そのまま引き退がり、あとを英斗と澪二の二人に託す。離れ際、ぎゅっと口を引き締めた澪二の顔が、マシロの目に映った。
マシロとクリスが端に寄り片膝をついたところで、鎮の舞が始まった。
すぐにマシロは澪二の舞を射るように見つめ始めた。豪快で、潔い舞――……。
を、舞うのだろうかと思っていた。
しかし実際、澪二の舞は案に相違した。
意外にも、こぢんまりとして見えた。全ての動きが控えめで、女性らしいしなやかな舞をするクリスの動きの方が、よっぽど大きく見える気がした。
とにかく”意外だ”というのが第一印象だった。儀の最中なので当たり前だが、澪二の表情には以前に見た快活さは露ほどにもなく、ひどく硬い顔つきをしている。
大口を開けて弾けるように笑っていた顔を思い出そうとしても、目の前の見える澪二の表情の上にそれを浮かべることは困難極まりないものとなっていた。
まるでマシロの知らない、全く別人が、目の前で舞っているように見えた。
鎮の舞が終盤に差し掛かる。
マシロはまだ信じられない思いを胸に抱いて、澪二の舞を見つめていた。
心なしか、舞い始めと比べて身体全体の強張りが次第に強くなっているような気がした。萎縮するように、動きも全てが小さくなってゆく。
見ている方が心落ち着かないようになる。このままでは、カゲに異変が起こるのではないだろうかと、そんな懸念が、澪二の舞から引き起こされるまでになっていた。
マシロは思わず隣に控えるクリスを見る。クリスは見守るような眼差しを、澪二に真っ直ぐ向けていた。
――そして。
あと少しで還の舞に繋がる、というところだった。
あ、とマシロの口が開いた。その時には、事がすでに起こっていた。
マシロは、目の前で行なわれる舞が崩れる瞬間を、初めて目の当たりにした。舞そのものだけでなく、そこで舞をしていた澪二が、その場に崩れ落ちたのだった。
前のめりに倒れ、舞刀がガシャンと音を立てて先に落ち、次いで手と膝が地につく。その弾みで澪二の髪が揺れた。
そしてその頭を低く垂れたかと思うと、間髪入れず、小刻みな息づかいがマシロの耳に聞こえてきた。
一方で、痣子による舞が途切れても、カゲは動きにあまり大きな変化を見せなかった。こうなっては、いつもならきっと今頃カゲは躰を天に左右に膨れさせ、痣子に襲いかかってきているのだろう。
しかし実際のところ、カゲはまるで天を仰ぐようにして各先端を緩やかに伸ばしてる状態に留まっていた。
やはり盆の時期が関係しているのかとマシロは思ったが、そんな考えはすぐに頭から消え去った。
その場で何が起こったか、マシロは理解がまるで追いつかなかった。
カゲが暴れ出したわけでもない。まだ還の舞には入っておらず、舞刀も刀身が鞘に納められたままである。
と、めずらしくすぐそばで控えていた田平が、澪二に駆け寄っていった。それから一度、マシロとクリスに目配せするように振り向くと、ずるずると澪二を引き摺るようにしながらその場を離れた。
「――やっぱり、ダメなのかなぁ……」
隣から小さくつぶやく声が聞こえる。
クリスの声だった。マシロがその方に目をやると、クリスは跪いていた足を伸ばし、田平の方へと向かっていった。
肩で息をする澪二を田平から引き取り、そのまま社の陰へと移動させる。それから慣れた手つきで澪二を抱きかかえるようにし、縮こまった背中を優しくさすり始めた。
先ほどまで澪二がいた石畳では、英斗と田平による還の舞が始まっていた。
マシロは呆然とした様子で、その場に留まったままでいた。膝をつき、体を捻るようにして、クリスと澪二がいる方を見やる。ドクリと心臓が高鳴った。
視線の先では、澪二は青ざめた顔から涙を流し、息をひどく乱していた。クリスがその澪二を介抱している。
「澪ちゃん、大丈夫だよ。ゆっくり、息をしてね」
荒い呼吸音の中に、クリスの声が浮かぶ。いつもよりも声のトーンを低くして、穏やかな口調で、ゆっくり語り掛けるようにしている。
澪二は体で呼吸をしていた。過分なほどに息を吸い、その音が耳に痛々しい。そこに嗚咽のようなものがたまに混ざり、助けを乞うように聞こえてきた。
「大丈夫。ゆっくり呼吸したら、よくなるからね。ゆっくり、ね。ゆーっくり、息を吐いてね」
クリスは澪二の背中をさすったり、優しく叩いたりした。やがて少しずつ、澪二の呼吸が落ち着きを取り戻していっているように見えた。
それでもクリスは、背中に手を添えたままでいた。
「大丈夫だよ。魁成さんが、代わってくれたからね。問題なく、儀は行なわれているからね。ここに、私がいるからね。頑張ったね」
息を乱す澪二とそれを介抱するクリス。カゲと対峙する英斗と田平。それぞれ、別々の空間が出来上がっていた。そのどちらでもない狭間に、マシロは独りいた。
マシロは途中から、クリスと澪二の方にしか目が向かなくなっていた。
近寄っていいものなのかもわからず、そのままの距離を保ったまま、落ち着いていく澪二の呼吸音とクリスの声を聞いていた。
最後まで、やはり目の先にいる澪二が以前に会った澪二とは別の人物のような気がしてならなかった。
儀は問題なく無事終わった。
帰り、マシロは初めて田平が運転する車の助手席に乗った。一番後方のシートを使って、澪二が横になっていたからだった。
後部座席に座っている時よりも、田平の煙草の匂いを強く感じた。口からは、一言も言葉を発せなかった。




