#8 似合う呼び方
その日は朝から雨だった。
新聞協会の定例会合は王都中央区にある協会の建物で開かれる。
月に一度。新聞各社の主筆や編集長が集まり、業界の情勢や新しい条例の話時には広告料の相場なんかを話し合う。
俺は毎回欠かさず出ている。理由は単純だ。ここに来れば、街の空気が読める。どの新聞が何を狙っているか、誰が誰と手を組んでいるか。そういう情報は、記事を書くよりよほど役に立つ。
だが今回、俺は一人ではなかった。
「ボス、あの、今日って何時からです?」
「十時だ。まだ早い」
「そうですか。よかった」
リネットは朝からそわそわしていた。今日はいつもの作業服ではなく、外出用のワンピースを着ている。淡いグリーンの、控えめだが仕立ての良い服だ。髪も丁寧に結ってある。胸元に垂らした赤茶の髪が、いつもより少しだけ艶めいて見えた。
普段、俺はリネットをこういう会合には連れて行かない。新聞社の主筆が集まる場所だ。面倒くさいし、余計な注目も集める。だが今回は彼女が自分から「行ってみたい」と言ってきた。内勤ばかりで外の世界に興味が出てきたらしい。
正直気乗りはしなかった。だが断る理由もない。それに、まあいいかと思った。彼女ももう成人を迎えて久しい。外の空気を知るのも悪くない。
「行くぞ」
「はい!」
雨の中、傘をさして歩く。リネットは俺の半歩後ろをついてきた。時折、水たまりを避けて跳ねるように歩く。そのたびに、傘の縁から雫が落ちて彼女の肩を濡らした。
協会の建物に着くと、すでに十人ほどの男たちが集まっていた。煙草の煙と紙とインクの匂い。低い笑い声。あちこちで挨拶と探り合いが交わされている。
俺が入ると、何人かが顔を上げた。
「おお、ギャラガー。生きてたか」
「しぶといな、王都の鷹も」
「最近、記事が減ってるんじゃないか? ネタ切れか?」
適当に流しながら席へ向かう。リネットは俺の後ろで小さくなっていた。場の空気に圧倒されているのだろう。無理もない。この連中は、揃いも揃って人を食ったような奴ばかりだ。
だが、そのうちの何人かがリネットに気づいた。
「おや?」
一人の男が近づいてきた。恰幅の良い、脂ぎった顔の中年男。確か「王国日報」の編集長だったか。名前は忘れた。
「ギャラガー、こいつは誰だ? こんな美人を連れてくるとは、やるじゃないか」
「うちの従業員だ」
「従業員? ふうん」
男はリネットを上から下まで見た。その視線が、豊かな胸元で止まる。俺は無意識に半歩前に出て彼女を隠した。
「受付と経理だ。それ以上でも以下でもない」
「そうかそうか。いや、しかしなかなか。ねえ嬢ちゃん。うちに来ないか? 給料は倍出すよ」
リネットは目を丸くした。
「え、あの、私は……」
「王国日報は大手だぞ。悪い話じゃない」
「おい」
俺が割って入ると、男はにやにやしながら手を振った。
「冗談だよ、冗談。そう怒るな」
そう言って去っていったが、その後も似たような声がいくつかかかった。
「ギャラガー、その子をうちに派遣しないか?」
「王都の鷹に出資を考えているんだが、その条件は……」
「君のスタイルなら、広告塔にも使える。どうだろう、うちの一面広告に載る気はないか?」
雇い主がいる前での、露骨な引き抜きだった。中には「王都の鷹を丸ごと買収しよう」と言い出す者もいた。俺はすべて断った。リネットも、自分から断った。
「私は、王都の鷹で働きます」
その一言が、彼女の意志だった。
終始そんな調子で気の休まる暇もないまま、会合はお開きになった。
俺はうんざりした気持ちで、同じく業界の洗礼を受けて疲弊しているリネットの腕を掴み、さっさと建物を出た。後ろから何人かが声をかけてきたが、無視した。
帰り道は、行きより静かだった。
雨はやんでいた。だが、空はまだ厚い雲に覆われている。濡れた石畳が、歩くたびに音を立てた。
「ボス」
リネットが口を開いた。
「なんだ」
「さっきの人たち、なんだか怖かったです」
「ああいう連中だ。気にするな」
「でも…」
「気にするな」
俺は少し強く言った。リネットは黙った。だが、その表情にはまだ不安が残っていた。
彼女をどうフォローすべきか。あの手の連中は適当にあしらった上で距離を置くに限るが、彼女の性格ではそれも難しいだろう。
考え事をしていたのがいけなかった。
角を曲がったところで、三人の男が立ち塞がった。
「よう、新聞屋」
真ん中に立っていた男が、ぎらぎらした目をまっすぐ向けながら言った。二十過ぎといったところか。頬に古い傷がある。
両脇にも二人。手には棍棒やナイフを持っている。山猫の残党だ。下っ端の匂いがする。装備は粗末だが、荒事には慣れている。
「山猫か」
「ああ、先の『宴』では世話になったな」
「世話? 何のことだ」
「とぼけるなよ。あのサーベル女、お前の差し金なんだろうが!」
俺は思わず笑いそうになった。
「俺が、あれを?」
「あの女はお前を手に掛けなかった。それどころ手を出されたってのに無傷で見逃したそうじゃないか。なら、お前とあの女に繋がりがあるなんてことは、誰でも想像がつくぜ」
浅はかな推測だったが、下っ端にはそれで十分なのだろう。逆恨みの理屈としては成り立っている。
頭目ほど賢くはない、というより賢ければこんなことをしに来ない。
「それで、どうするつもりだ?」
「決まってる。ここで死んでもらう」
三人が同時に動いた。
俺はリネットを背中に隠した。
「動くな」
「でも……」
「動くな」
最初に来たのは右の男だった。ナイフを逆手に持ち、脇腹を狙ってくる。動きは悪くない。だが遅い。
俺は半歩引いて躱し同時に男の手首を掴んだ。そのまま捻る。骨の軋む音がして、ナイフが落ちた。
男が悲鳴を上げるより早く、肘を鳩尾に叩き込む。一発で男は膝から崩れた。
次は左の男。棍棒を振りかぶってくる。大振りだ。避けるまでもない。俺は大きく踏み込み、すれ違いざまに男の膝裏を蹴った。
体勢が崩れたところに掌底を顎へ。大きく頭を揺らされ、男はそのまま後ろに倒れた。
最後は真ん中の男。頬に傷のある男だ。
「な……」
男は動けなかった。仲間が一瞬で倒されたからだ。俺は一歩、前に出る。
「腐っても山猫の端くれだな。腕は悪くない。だが喧嘩の仕方がなっちゃいないな」
「くそ……」
「お前が恨むべきなのは、誰だ?」
「お前だよ!」
「違う。俺じゃない」
俺は男の胸ぐらを掴み引き寄せた。目と鼻の先で、静かに言う。
「約束を破ったお前のとこの頭領だ。それに俺を殺せば山猫がどうなるか、それでお前たちの頭がどう思うか、想像もできんのか?」
男の顔色が変わった。俺が誰の指示であの場にいたのか、ようやく思い出したらしい。
「……っ」
「帰れ。次はない」
俺は男を突き放した。男は仲間を引き起こし、逃げるように去っていった。
俺は振り返った。
リネットが立っていた。顔は少し青ざめているが、泣いてはいなかった。震えてもいなかった。
「あの、今の人たち」
リネットが口を開いた。
「ああ」
俺はそれだけ返した。
当然、全て聴かれている。襲撃、生き残り、裏切り。どれも一介の新聞屋には無縁の話だ。取材をすることはあっても当事者になることはそうそうない。
というより、なった時が最後だ。過去の自分のように。
俺は彼女の次の言葉を待った。流石に愛想が尽きたか。そう思った。無理もない。何年も一緒に働いてきて、まともな給料も満足に渡さずその上こんな危ない目に遭わせてしまった。
彼女が「辞めます」と言っても、俺に引き留める資格はない。せめてもの餞別に、今度こそ給料は期日通りーーそれも数ヶ月分ーー払おう。そう思っていた。
「なんだか、ずいぶん怒ってましたけど」
「あ?」
俺は思わず聞き返した。
「大丈夫なんですかね?」
肩透かしを食った。俺は一拍置いて、適当に答えた。
「さあな。腹でも減って気が立ってたんじゃないのか?」
「じゃあ、今度来たら何かご馳走してあげないとですね」
「なんでそうなる」
俺はうんざりして言った。なんで逆恨みのチンピラに飯を奢らなきゃならんのだ。
「だって、リックさんの知り合いのようでしたし」
「あんな知り合いがいてたまるか」
と返しそうになったが、考え直した。
ふう、と息を吐き
「そうだな」
短く答えて、歩き出す。雨上がりの石畳が足の裏でわずかに音を立てた。
満足したのかリネットは「はい、そうです」とにこやかに笑った。この子は本当に、何を聞いて何を聞き流せばいいのかわかっている。
何年も一緒にいるだけのことはある。あるいは、そういう風に育ったのか。どちらにせよ俺にはありがたい。
「リックさん」
歩きながら、リネットが言った。
「なんだ」
「やっぱり『ボス』が一番似合いますよ?」
「そうか?」
「はい。さっき、ちょっとカッコ良かったですし」
俺は肩をすくめた。
「からかうな」
「からかってませんよ」
リネットはそう言ってまた少し笑った。その笑い声が、濡れた路地に軽く響いた。
俺は傘を少しだけ彼女の方に傾けた。雨はもうやんでいたが、木々からはまだ雫が落ちてくる。リネットは気づかなかったふりをして、そのまま歩き続けた。




