#5 去りゆく銀
...本当に、何がどうなってやがる。
胸中で毒づきながら俺は再び臨戦態勢を取った。重心を落とし、右手を内ポケットへ入れる。グレンに使うはずだった「切り札」の準備をする。
切り札――騎士団内で極秘に開発され、どこにも出回っていないはずの短銃。少量の火薬を内部で爆発、その反動により恐ろしい速度で鉛玉を飛ばす。
そしてもう一つ、極短時間で人を死に至らしめる猛毒を撒く煙幕弾。
どちらも後見人が俺に持たせた最後の手段だ。使えば相手が誰であろうと――いや、何であろうと生きてはいられない。
ただし短銃は試作段階の粗悪品。劣化が速く使うほどに暴発の危険が増し、毒煙に至っては風向き次第で俺も死ぬ。究極の諸刃の剣だ。
それでも尚、目の前の怪物に通用するかは未知数だ。あの速さにあの技量、そして刃の切れ味。全てが常識の範疇を超えている。
先ほどの煙幕弾ですら一振りで吹き飛ばされた。必殺の毒煙も同じ末路を辿るかもしれない。
だが、だからといっておとなしく殺されてやる義理はない。
しかし
予想に反して女はすぐに襲ってはこなかった。
視線をこちらに向けたままゆったりと歩み寄ってくる。その歩みは静かで、敵意があるのかないのかまるで読めない。
彼女は俺の容姿を、風貌を一挙手一投足に至るまで、つぶさに確認しているように見えた。値踏みされている。そう感じた。
距離が縮まる。五歩。四歩。三歩。
あまりのプレッシャーに俺は死を覚悟した。柄にもなく、人生の走馬灯なんてものが頭をよぎる。
だがそこで、ふと妙なことを思い出した。
そういえば、今月の給料をまだリネットに渡していない。
あの子は几帳面だ。月末前の給料日を過ぎれば必ず「ボス、今月分はまだですか」と、それはそれは控えめにしかし確実に催促してくる。
それを俺はいつも「ああ、明日な」と先延ばしにして結局月をまたいでしまう。今回もそうだ。彼女に給料を渡していない。
生き残る理由が増えた。
場違いな喜びと吹っ切れ。なんだか笑えてきた。死を目前にして、給料のことを考えるなんて。我ながら救いようがない。
だが、何を考えているのか分からないが、来ないならこちらから行くまでだ。
決死の覚悟で更に重心を落とした、その瞬間――
女がサーベルを鞘に納めた。
「は?」
間抜けな声が漏れた。女は踵を返し入り口へと戻っていく。治安部隊の兵たちが遠巻きに見送る。
誰も彼女に触れようとしない。声をかける者もいない。まるで嵐が過ぎ去るのを待つかのように、ただ静かにその背中を見つめているだけだった。
「お、おい!」
俺は思わず呼び止めた。だが反応はない。女はそのまま入り口を抜け、暗がりへと消えていった。銀の髪の残像だけが、網膜に焼き付いている。
呆気に取られた。何だったんだ、あれは。
理解の限界を超えた状況に、頭が混乱する。
だが、助かったのは確かだ。
俺は小さく息を吐き、切り札から手を離した。指先が震えている。無理もない。心臓は未だに早鐘を打っていた。呼吸を整え、もう一度深く息を吸う。
使わずに済んだのは、不幸中の幸いか。あの短銃も毒煙も一度使えばこの街では厄介な証拠になる。後見人とて、そう何度もこんな代物を用意できるわけではない。
近くでグレンの呻き声が聞こえた。振り返ると、彼は壁際に座り込み肩を押さえている。出血で意識が朦朧としているが、命に別状はなさそうだ。目にもまだ光がある。
毒を撒いていたら巻き込んでしまっただろうなと思いつつ、俺は彼の腕を掴み、再び引き起こした。
「行くぞ。立てるか」
「くそ……」
グレンは悪態をついたが、今回も抵抗はしなかった。傷口とは反対側に肩を貸し、裏口へと向かう。治安部隊の増援が来る前に、今度こそこの地獄から離脱した。
外は、冷たい夜気が満ちていた。追手は来ていない。あの状況なら無理もないか。
雨上がりの石畳が月明かりを反射して、街の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
遠くで鐘の音がした。王都の治安部隊が本格的に動き出す合図だ。俺はグレンの肩を支えながら路地へと消えた。
背後では、まだ煙が立ち上っていた。
あの銀の女は、一体何者だったのか。
その問いだけが、夜の闇に溶けていった。




